第三十四話 元服




天文十九年(1550) 五月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 龍王丸




今川館の中でもっとも広い大広間に、一族重臣や下向している公家が集っている。軍令が発せられる時のように厳かな雰囲気だ。


「当家は余の代、余の父の代と家督争いが絶えなかった。なれどその方は違う。今川の真の後継者だ。これよりは龍王丸改め彦五郎氏真と名乗るべし」

「ははっ」

父上の口上を受けて頭を下げると、父上から烏帽子が掛けられた。

「うむ。目出度い。氏真、励めよ」

「ありがとうござりまする」

にこやかに述べる父上に、腹から声を出して応じた。


「「おめでとうございまする」」

一族重臣が言祝いだ。

「うむ。ありがとう」

俺が応じると、皆がうれしそうな顔をしてくれている。


しばらくして父上が下座に移った。代わりに内府たる義兄上が上座に向かうと、皆に向かって立ちながら口上を述べはじめた。


"宣旨"


義兄上の言葉に、場にいる皆が平伏する。

「源朝臣氏真、正二位権大納言藤原朝臣尹豊宣る、勅を奉るに、件の人を宜しく治部大輔に任ぜしむべし者」

「有り難き幸せにござりまする」

「うむ。勤皇の志、忘るることなく励まれよ」

宣旨を承ると、盃が皆に配られた。家臣達は今か今かと待っている。父上が俺の顔を見て頷いた。俺に任せるということか。


「皆のお陰でこうして元服が出来た。治部大輔、厚く礼を申す。これからもよろしく頼む。乾杯」

盃を高く掲げると、弾けたようにドンチャン騒ぎが始まった。




天文十九年(1550) 五月上旬 駿河国府中 今川館 今川 聡子




「姫様お櫛を直します」

「ありがとう」

美代が髪を梳いてくれる。いつもの感覚に安堵した。

「姫様、本当に華やかな婚儀でございましたね」

「そうですね。私も驚きました」

婚儀には、今川の一族や重臣に加えて、来賓として公家からは兄上を筆頭に久我の叔父様、冷泉権中納言様、中御門権中納言様、山科内蔵頭様、武田家からは武田左馬助様、馬場民部少輔様、商家からは御用商人の友野商人司殿、堺から今井彦右衛門殿と津田助五郎殿、京から角倉与一殿に至るまで、錚々たる方たちだった。特に堺や京の商家がわざわざ府中に来ていることが驚きだった。


その府中といえば驚きが止まらない。用宗の湊から今川館に至るまで、太い街道が整備され、途中に流れる安倍川には大きな橋がかけられていた。湊から府中まで馬車という牛車よりも早くて快適な乗り物に乗って移動が出来た。


たどり着いた府中の賑わいといったら言葉に表せない。あれは洛中よりも賑わっていると言えるだろう。府中に魅了された兄上は、早くも婚儀の後もしばらく滞在することに決めたようだ。

婚儀と言えば……。


「そういえば、今川のお義母様は大丈夫でしょうか」

私の言葉に美代も不安そうな顔を浮かべる。

「そうですね。随分と具合がお悪そうでございましたね」

そうなのだ。婚儀には参加下さったが、体調が優れないご様子だった。甲斐の武田家から輿入れされたとお聞きしていたので、武家のご出身で厳しい方かと想像していたが、気品のあるお優しい方だった。ただ、最近はお身体が優れず横になることも多いらしい。大事無ければ良いが……。

「山科内蔵頭様が奥方様のご様子を診てくださるとの事ですし、お頼み致しましょう」

「そうですね」


「さっ、姫様。初めての夜なのですから粗相なきように」

髪を整え終えた美代が、暗くなった空気を換えるように明るく、ポンッと私の背中を押した。

「龍王丸さま……いえ、若殿から、まだ私たちは年端か無いから、そういうことはしばらくされぬと」

「そうだとしても、心の準備をされておくことが肝要ですよ」

美代が優しく諭してくれる。美代が付いてきてくれて本当に良かった。


「美代、あなたには本当に感謝しています」

「急に如何されましたのです」

美代が不思議そうに笑って私の顔を覗いてくる。

「今川の方は皆がお優しい。でも打ち解けるまではまだしばらく掛かりそうです。あなたがいてくれて、私は本当に心強いと思っています」

「姫様……いえお裏方様。美代は夫を病で無くし、もう帰る場所などありませぬ。どうぞ、末永くお側に置いてくださいませ」

美代が私の手を取って優しく語りかける。美代の器量ならまだ再婚も出来るはず。だが私にずっと尽くしてくれている。自然と出てきた涙を拭って、その手をぎゅっと握り返した。




天文十九年(1550)五月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




「この面々で集うのは久しいな」

「前回の時と今とでは、随分と状況が変わりましたね。治部大輔殿、此度は誠に良き伴侶を見つけになられた」

御祖母様が柔和な顔を浮かべておられる。御祖母様は、俺が聡子を娶る事を書いた文を見て手放しで喜んだと聞いた。中御門家出身としては、摂関家から姫を迎える事は名誉なのかもしれない。清華家よりも格上だからな。御祖母様と聡子の関係も良好だ。夫の俺としてはまずは安心だ。


「そう仰って頂けると有り難く存じまする。急な運びでご迷惑お掛けしました」

「まぁよい。文をもろうた時は余も驚いたが、万事滞りなく終わった。首尾は上々よ」

雪斎も大きく頷く。


「さて、治部大輔」

父上が不敵な笑みを浮かべて俺の顔を見ている。大きな事を仰る時の顔だ。元服後に課すと言っていた話だろうか。

「はい」

じっと父上の目をみて応える。


「その方には駿河と伊豆を与える。峰之澤と菅山村、渥美郡の旧領もそのままその方の物としよう。励め」

「……ははっ」

思っていたより大きな話だ。だが父上としてもお考えあっての事だろう。駿河と伊豆か。渥美半島を足せば三十万石はあるな。なかなかやりがいのある広さじゃないの。

「なんじゃ、あまり驚かぬの」

父上がクスクスと笑われている。

「これでも驚いておりまする」

「左様か?全くそのようには見えぬがの」

「治部大輔殿、あなたなら安心して任せることができます。お頼みしますよ」

「若殿、おめでとうございまする」

「御祖母様ありがとうございます。御師匠に若殿等と呼ばれるとこそばゆいな」

「ハハハ。雪斎、治部大輔にも苦手なものがあったようじゃ。もっと褒めてやれ」

父上の冗談てんごうに、皆が大きく笑った。


「某に駿河と伊豆をお与え下さるということは、父上は西に専念されるということでござりましょうか」

一頻り笑った後で父上に尋ねる。御祖母様も雪斎にも既に笑みは無い。

「そうじゃ。だが府中を離れる訳ではない。余は三河と遠江の治世に努めて、外征はこれまで通り雪斎に委ねるつもりじゃ」

成る程。家督相続の練習みたいなものか。武田とは同盟関係、北条とは河東以来戦になっていない。相模を攻めても小田原城がある。落とすのは難しいだろうな。ということは軍事面では喫緊の課題は無い。当面は内政だな。

「治部大輔、余は来月には尾張へ向けて兵を起こすつもりだ。駿河伊豆からも三千程馳走せよ」

おっと、駿河からも徴兵するのね。ならば俺が出陣して経験値を稼ぐとするか。


「はっ。某が自ら率いて参陣致しまする」

「若殿が御出馬とは、大将を譲らねばなりませぬな」

「御師匠のままで良い。俺は大将としての経験が少ないゆえ、まだ学ぶことも多い。駒として使ってくれ」

俺の言葉に雪斎が大きく頷いた。父上も満足そうにしている。

「治部大輔、その心掛けじゃ」

「治部大輔殿、そなたはもはや妻を持つ身。あなたの事ですから心配はしておりませぬが、功名に逸ってはなりませぬよ」

「御祖母様の御忠告、肝に銘じまする」

俺の言葉に御祖母様がにこやかに応じた。




天文十九年(1550) 五月上旬 駿河国安倍郡府中 馬場 信春




"畳!梅雨の季節は畳が過ごしやすいよっ"

"新商品の酒が入ったよ!さあさあいらっしゃい"

"蕎麦はいらんかえ"

何通りもの道で威勢の良い声が続いている。甲府の中心地で聞かれる賑わいの音が、この府中ではずっと続いている。

「凄い賑わいだな」

左馬助様が呟かれた。

「はっ」

ここで素直に褒めては、左馬助様は御気分を害されるだろう。静かに、淡々と応じた。

"腹をこなそう"

左馬助様の求めに、今度は"宜しいですな"と応じ、二人してとろろ飯の店に入った。府中名物とある。


店に入ると、個室に区切られた上等部屋と、机がいくつも置かれた大部屋の二種類があるという。玄関にいても大部屋からの喧騒が聞こえる。間者の耳を防ぐには意外と大部屋が良いかも知れぬ。左馬助様に大部屋で食そうかと伺おうとすると、自ら個室を注文されていた。二階の街道が眺められる部屋が空いているらしい。




「草から聞いていたよりも遥かに栄えておる」

部屋について席に着くと、左馬助様が街道の賑わいを眺めながら再び呟かれた。

「……はっ」

忌々しそうなお顔をされている。どこに今川の間者がおるか分からぬ。お控え頂きたいものだが……。

「世は銭不足と聞いていたが、有るところにはあるのだな」

府中で大量に流通していた銅銭のことを仰っているのだろう。あれには儂も驚いた。

「駿河は堺等との交易も盛んと聞きます。銅銭もその交易で流れてくるのでしょう」

「堺との交易とな」

しまった……。左馬助様のお顔が曇っている。甲斐の者の多くが望む"海を介した交易"は話すべきで無かった。やれやれ、気疲れしてしまうわ。


「お待たせ致しました」

女中が膳を運んできた。上等の席だからか、府中では普通なのか分からぬが、割烹の女中にしては身綺麗な着物を来ている。いや、これが普通なのかも知れぬ。思えば市中を歩く民の格好も小綺麗であった。


「うむ、旨い」

左馬助様が飯にとろろを掛け、ズズズッと豪快に掻き込んでおられる。朝から歩き通しで腹が減っていた所だが、この飯は掛け値無しに旨いと思った。

「しかし、治部大輔殿がいきなり従四位下になられるとは、朝廷と今川殿は思っていたよりも距離が近いようじゃな」

「はっ。内府様の妹君を迎える事も影響しておるやも知れませぬ」

「そう、それよ。御屋形様は今川殿の支援で清華家の三條家から奥方様を迎えられた。大臣家よりも格上の清華家であるぞ。先代様も二つ返事で承諾された程じゃ。それが此度は清華家よりも格上な摂関家から迎えるという。見せつけてくれるではないか」

「はっ……」

左馬助様は今川様に不信感をお持ちのようだ。婚儀では冷静にされていたが……。使者は別の方が良かったかも知れぬ。

いや、御屋形様の事だ。不信感をお持ちの弟君だからこそ、冷静に今川の地を見てくるとお考えかも知れぬ。


「この味噌汁も旨いの。海の幸で出汁を取っておるのだろうな」

とろろから吸い物へ手を移された左馬助様が呟いた。

「そう……ですな」

左馬助様が褒めた味噌汁は海の味がした。鰹の香りが立ち上っている。小魚も使っているだろうな。

「……欲しいな」

小さく、儂にもやっと聞こえる程度の声で、左馬助様が呟かれた。お顔を覗いてから首を振って応えた。


「この府中は甲斐から近い。宍原を越えれば壁は薩埵峠しか無い。府中を落とさば終わりよ。遠州も三河も自然と手に入る。儂が無粋な気持ちになるのも分かるだろう?のう、民部少輔」

「なりません……!」

儂が箸を休めて必死に訴えると、左馬助様が笑いながら"冗談じゃ"と仰せになった。甲斐に戻るまで儂の胃が持つだろうか。キリキリと胸が痛んだ。




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