第三十二話 朝廷からの返答




天文十九年(1550)三月上旬 山城国葛野郡 妙心寺 今川 龍王丸




「龍王丸さま、こちらが開山堂でござりまする」

「これが開山堂か……」

前世でも妙心寺にあった建物だ。微かに残る前世の記憶と重なる。特に神聖な場所として、前世では立ち入ることが叶わなかった。


雪斎が案内をしてくれている。供には内蔵助と上野介のみ連れてきた。後の者は寺の高僧の案内で別の場所を見に行っている。伊豆介や彦次郎は近衛邸に残って事務処理だ。


この時代、多くの寺は大なり小なり独自の兵力を保有している。妙心寺とて例外ではない。僧兵が立っている所を見ると物騒に感じる事もあるが、お陰で境内の治安は維持されている。


「美しく保たれているな」

「毎朝洗面がされ、日に三度の食事が運ばれておりまする」

「在すが如くというやつか」

「左様。よくご存知ですな」

雪斎が少し驚いた素振りで応じる。

「以前どこかで聞いてな」

「ならばこれもご存知かも知れませぬが、ここでは輪番で僧が常に灯火を絶やさずにしておりまする」

「この戦乱の世において、灯火を絶やさぬと言うのは並大抵のことではあるまい。感嘆の限りだ」


「……」

「どうした」

「いえ、あなたさまは……。まことに達観されておりますな」

「子供らしくないと言うことか?」

「その御年にして、物事を俯瞰する力をお持ちである事。この雪斎、頼もしゅうござりまする。そのお力、終生大事になされませ」

「で、あるか。肝に銘じておこう」

雪斎が僅かに笑みを浮かべている。


「子供らしくないという意味ではその通りでございまするな。龍王丸さまほど、手のかからぬお方はおりますまい」

「可愛くもない人間であろう。それに比べて竹千代は愛い奴であろうの」

「拙僧にとってはどちらも大事な弟子でございまする。尤も、あなたさまは初めから成熟しておられる。弟子と呼んでよいほど教えを出来たか分かりませぬが」

「俺は禅師を師と仰いでいるぞ。禅師から手習いを受けたことは、俺の生涯にとって忘れ得ぬ有意義な一時となろう」

「有り難きお言葉にございまする。この老骨も大切な弟子のためにまだまだ励むとしましょう」




天文十九年(1550)三月中旬 山城国上京 近衛邸 久我 晴通




「龍王丸、こちらは我が父と久我権大納言殿じゃ。知っておるかも知れぬが、権大納言殿は麿にとって叔父にあたっての。久我家を継がれておる。父と共に近江坂本におったのじゃが再び洛中に戻られた」

「今川 龍王丸にございます。よろしくお願いいたしまする」

若い男が頭を下げている。五尺はあるだろうか。歳を考えれば大きな身なりだ。

「近衛稙家じゃ。此度の聡子との縁、父として嬉しく思う」

「ありがとうございまする」

「久我権大納言晴通でおじゃる。以後はよしなに」

「よろしくお願い致しまする」

内府からの文で聞いてはいたが、中々の美丈夫ではないか。


「父上、大御所と公方が近江坂本を発たれたと聞いておじゃるが」

「その通りじゃ。京を奪還せんと近江坂本から穴太に移ったのじゃが、何分穴太は狭うおじゃっての」

「それで戻られたのでおじゃるか」

「うむ。それに大御所の身体が芳しくなくての。見ていて辛うおじゃる。聡子の縁組もあったゆえ、しばしの間戻ろうかと思うたのじゃ」

「大御所様のお身体はそこまで悪いのでござりまするか」

龍王丸殿が尋ねてきた。


「かなり悪いご様子でな。あれではもう長くないかも知れぬ。権大納言もそうは思わぬか」

「麿も兄上と同じ思いじゃ。大御所殿にとって、もはや食事も容易では無い。果物の汁を啜っておられるご様子であった。京への復帰という執念がお身体を支えておられる」

「その妄執が身体を蝕んでいるのやも知れませぬが」

龍王丸殿が冷静に言を発した。兄上も麿も驚いて言葉が出てこぬ。内府は僅かに笑っている。

「龍王丸、父も権大納言殿も驚いておられる。そのくらいにしてたもれ」

内府が“ホホホ”と笑いながら龍王丸殿に話しかけている。龍王丸殿も指摘されて微かに苦笑いを浮かべている。義理の兄弟になる間柄とはいえ、かなり親密な関係のようだ。……それにしても、今川と言えば足利一門のはずだが、龍王丸殿は将軍家に対して厳しく見ているようだ。


「武家の棟梁に対して些か不遜な物言いでおじゃるな」

兄上が僅かに厳しい表情で龍王丸殿を窘めた。

「武家の棟梁なればこそでござりまする。足利は武門なれば、強き武を持たねばなりませぬ。武が無くては天下が乱れまする」

厳しいの。だがもっともな意見だ。

「そこまで言うのであれば、今川も一門として将軍家を支援したらどうじゃ」

兄上が淡々と応じている。兄上の妹……麿にとっては姉上になるが、その姉上が大御所の正室なのだ。兄上が将軍家の肩を持つのは致し方あるまい。

「出来る限りは致しましょう。なれど今川は一地方大名に過ぎませぬ。それに支援をしたところで意味の無い使い方をされたのでは、支援の甲斐も無いというもの」

「龍王丸殿、意味の無い使い方とは此度の献金を指しておるのか?その方の献金もあって奉公衆は意気軒高と京への進軍を準備しておるぞよ」

三淵弾正左衛門尉が近江坂本を発ったかと思うと、五百貫の銭を持って意気揚々と凱旋した。弾正左衛門尉は“今川の御嫡男殿が上様のご寛恕と、洛中への御復帰を祈念して矢銭を献金なされた”と申しておったが……。


「寛恕を得る由はその通りでありまするが、軍備のために献金はしており申さぬ。五百貫で集められる兵などたかが知れておりまする」

「左様に申すが、三千程の幕府軍に加えて近江守護の六角家が兵を出す予定じゃ。丹波の波多野も呼応しようとしておじゃるぞ」

「兄上の仰せの通りじゃ。江口の戦いでは後れを取ったが、此度は万全の準備を持って攻め込むのじゃ。三好も苦しかろうて」

「幕府軍が万全の体制ということは、三好も万全の体制を整えているはずでござりまする。六角も管領代殿が上洛にどこまで気乗りされているか分かりませぬ。波多野とて呼応しても守ることが一杯でござろう。洛中へ攻めるほどの余力はありますまい。一方の三好は本国の讃岐と阿波に摂津、和泉、山城を加えて旭日昇天の勢いにござる。公方様の上洛は一時上手くいったとしても長くは続かぬでしょうな」

どこまでも醒めた様子で龍王丸殿が応える。麿も兄上も言葉を失っている。


「龍王丸は、幕府がどうすべきであると考える」

内府が問いかける。

「堪え難きを堪えるのが正解でござりましょう。管領代殿とて、近江坂本にまで三好勢が攻めてくれば全力で押し返そうとするはず。公方様は三好が出てくるのを待ちながら、攻勢に出る力をつけ、時を待つべきかと存じまする」

「ふむぅ……」

兄上も麿も言葉を続けられずにいると、聡子と美代が茶を運んできた。部屋の重苦しい空気が変わる。二人は我らが難しい話をしているのを察して早々に辞して行った。


「ところで聡子が下向する日取りが決まったと聞いたが」

兄上が話を変えられた。気を紛らわしたいのかもしれぬ。お顔には笑みも戻っている。

「来月の上旬に龍王丸の帰国が決まりましてな。聡子も共に下向する予定でおじゃりまする。その折には麿も共に致しまする」

「先日、某が上洛する一の目的であった銭に関して、朝廷よりお返事を賜りました。上洛の目的をまずは果たした故、そろそろ帰国の途に着こうかと思うておりまする」

内府と龍王丸殿が続けて応える。


「銭の件は内蔵頭から文をもらった故に存じておる。残念であったの。正式に認める流れになりつつあったところに関白や右府が止めに入ったと聞いている」

麿もその件は内蔵頭から聞いている。大方問題なしとして、数百年振りに天文通寶を法定の通貨とする方向となったが、二條関白と一條右府が重要な案件ゆえ審議保留を訴えたと聞いている。


「その通りでおじゃる。審議は継続して行うこととし、内裏修理の名目で天文通寶を献上させ、それを朝廷が受け取ることで落ち着いておじゃる」

内府が少し怒りを含んだ声で応えた。

「玉虫色の回答でおじゃるの。二條さんと一條さんは近衛と今川が近づくのを疎んだのであろう」

麿の言葉に溜息をつきながら兄上が頷いた。


「時間がかかることは覚悟の上でござりまする。まずは朝廷にお受け取り頂けただけでも良かったと思うておりまする。皆々様のお骨折りに感謝しておりまする」

再び重くなった空気を龍王丸殿が晴らした。幕府と三好の話では冷徹で厳しい御仁かと思うたが、中々気配りのできる御仁ではないか。

「うむ。そうじゃな。婿殿、麿は幕府と三好の戦いもある故下向は叶わぬ。聡子をよろしく頼むでおじゃるぞ。父として娘の幸せを願いたい」

「はい。不束者ではござりまするが、誠心誠意大事に致しまする」

真剣な面持ちで龍王丸殿が兄上に頭を下げた。うむ。聡子は良き縁に結ばれたようだ。自然と笑みがこぼれた。




天文十九年(1550)三月下旬 山城国上京 近衛邸 今川 龍王丸




「禅師、此度はおめでとう」

「ありがとうござりまする。愚僧には勿体ない事にて戸惑っておりまする」

雪斎が妙心寺から紫衣を許された。その影響で、今日は黒衣の宰相殿が紫色の品のある衣を着ている。

「左様な事もあるまい。よく似合っておるぞ」

雪斎が微笑する。


「御師匠、これは俺からの祝いだ。受け取って欲しい」

「ほぅ、龍王丸さまからのでございまするか。はてさて何でござりますかな」

大きめの袱紗に包んだ木箱を渡すと、雪斎が中をあらためる。

「これは……。金剛子念珠でありませぬか」

「そうだ。紫衣を許される程の身なのだ。良い数珠を持っておくのもよかろう」

「かように高価なものをありがとうござりまする」

「なに、御師匠の貴重な説法に比べれば安いものよ」

「足らねば幾らでも致しますぞ」

雪斎が低く笑っている。雪斎の説法が有難かったというのは本心だ。雪斎にはこちらの世界で必要な知識、教養、軍略に至るまで幅広く手習いを受けた。雪斎は俺が早くに成熟していたから大したことはしていないと謙遜するが、この頼りになる宰相が側にいなければ、俺の第二の人生はもっと過酷だっただろう。


雪斎とのこうした穏やかな一時も、帰国すればしばらくお預けだろうな。互いに忙しい身だ。


「来月には府中にお戻りになるとか」

「そうだ。一先ず上洛して成したいことは終えた。十分な収穫よ」

「帰国の途には拙僧もお供致しまする。拙僧も京での所用を終え申した」

「で、あるか。あい分かった」

雪斎の所用は父上からの主命だろう。恐らく三河の統治に関する事であろうが深くは聞かない。父上も雪斎も必要があれば俺に話す。


「龍王丸さまの元服と婚儀が終わり次第、御屋形様は兵を動かすでしょう」

「尾張攻めか」

ゆっくりと、だが力強く雪斎が頷いた。

「はい。少なくとも三河と遠江の全軍が動員されるものでしょう」

三河衆と遠江衆の全てか。俺の直轄である渥美半島と吉良を除いても二万近くが動くな。いよいよ尾張攻めか。ここから桶狭間に至るまでじわりじわりと織田を追い込んでいくはずだ。


「京ともさらばか。目まぐるしくも楽しき日々であった」

「左様ですな。しかし、龍王丸さまにはいずれまた京にお越しになる機会もありましょう」

「で、あるかの」

「近衛の姫をもらうのです。上洛の機会もありましょう。それに、あなたさまのご器量ならば、細川や大内のように今川が京に上る機会もありましょう」

「これはまた大きな期待だな」

俺が笑いながら応えると、雪斎も“はい”と笑みを浮かべて鷹揚に頷いた。




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