第二十五話 海道一ノ弓取リ
天文十八年(1549)十二月下旬 伊豆国田方郡熱海村熱海湊 塚原 卜伝
「塚原殿、某たちはこちらで失礼致しまする」
「ご丁寧な見送り、心より礼を申し上げますぞ。参議様と龍王丸殿によしなにお伝え下され」
儂が礼を伝えると、伊丹権太夫殿が"必ずや"と応じた。
龍王丸殿に伊勢で別れを告げた後、儂と弟子たちは今川の水軍が熱海まで送ってくれることとなった。
大湊を立った後は、御前崎湊、下田湊を経由して熱海に入り、今しがた船から降りたところだ。
権太夫殿が船を降りて陸まで付き合ってくれている。駿府からはじまり、船にて伊勢まで、また船で熱海までと、長くはないが短くもない関係だ。いささか名残惜しいものだと思っていると、権太夫殿がおもむろに懐から書状を取り出した。
「塚原殿、これは龍王丸さまからの書状でござる。手形とお聞きしており申す。北条領の手前にある今川の砦では、これをお見せになれば最大限の待遇を受けられるはずでござる。最近の今川と北条は敵対関係には無いゆえ、北条領でも身分を証明する証にできると思いまする」
相変わらず龍王丸殿は若いのに気が利くな。有り難く受け取っておこう。
「これは忝ない。くれぐれも龍王丸殿によしなに」
「かしこまってござる」
別れの辞を告げると、権太夫殿が船に向かって船員達に大きな号令を掛けた。瞬く間に船員が船の岸辺側に整列し、今川式の敬礼を行った。陸戦隊と言ったか、あの部隊だけが特別かと思ったが、水兵達もやるのだな。今思えば、船の上では末端の船員に至るまで軍規が徹底していたと思う。丁重に権太夫殿達に別れを告げて、箱根方面へ向かった。
「御師匠様、あと少しで今川方の砦が見えるはずでございます」
「左様か。まだ大して歩いてもおらぬのに早いの」
「熱海からだと誠に近くござりますね」
門下の林崎甚助が砦の方向を指差している。先を見やれば、ゆらゆらと今川の旗が靡く建物が見えた。近いな。これでは足が鈍ってしまうと苦笑するほどに。
「御師匠様、砦はすぐに通過されますか?」
「そうだな。水軍が熱海まで送ってくれたお陰で疲れて等おらぬ。すぐに北条領に行くとしよう。鹿島で新年を迎えたいしな。急げば何とか間に合うであろう」
「そうですね。では今日は小田原を目指すこととして、すぐに参りましょう。熱海が今川の地でようござりましたね。駿府から歩いていたのでは、鹿島につくのは越年してたでございましょう。聞けばこの辺りは最近まで北条領だったとか」
「四年程前だったか。河東の戦いで大勝利をした今川が余勢を駆って攻め込んだのだ。その時の攻勢は湯河原まで達したらしい。和議で今の国境が定められたと聞いている」
儂の話を聞いて甚助や他の弟子達が驚いている。気持ちは分かる。関東にいると、北条の勢いを感じずにはおられぬ。北条は伊豆から、相模、武蔵と勢力を広げ、今は上野にまで侵攻しようとしている。四年前の当時、関東管領から攻められた時は、さすがの北条もこれ迄かと思うたが見事に打ち破った。
だが、関東管領の上杉に対する勝利も、今川との和平が無ければどうなっていたか分からぬ。
「今川の参議様は、海道一の弓取りと呼ばれるだけあって流石でありますね」
弟子の一人である野口一之進が感心している。一之進は参議様を贔屓にしているようだ。駿府の賑わいに対する感動と、参議様が稽古の様子をご覧に見えた時、一之進が手合いをしていて誉められたからだ。参議様には中々の威厳がある。その様な方に誉められて嬉しいのは分かるが…。
「一之進は参議様が弓取りに見えるか」
「……?見えまするが…どういう意味でございましょうか」
儂のふとした問いかけに、一之進だけでなく他の弟子達もぽかんとしている。いかぬな。戻ったら座学にも力を入れるとしよう。
「確かに参議様は傑物であろう。だがの、龍王丸殿は御父上を越えられる存在になる。儂はそのように思うておるぞ」
「龍王丸さまが?変わったお方だとは思いましたが…。剣も筋がよろしいし」
甚助が腹に落ちぬような物言いをした。
「左様か。ま、人の批評を声高にするものではない。この事、一切他言無用であるぞ。良いな」
"はいっ"弟子達が一斉に返事をした。
経験の少ないこの者達には、短い期間を共に過ごしただけでは分からぬか。誰が何を成しているのか、深く考えさせることを教えなければならぬな。
しかし……龍王丸殿か。面白い御仁であったな。あの若さであそこまで醒めて、だが気迫があり、覚悟の決まった剣を持っているとはの。
“フッ”
ふと、あの面白い弟子との対戦を思い出して、つい笑みがこぼれた。
あの時は凄まじい気迫で迫って来たな。後で聞いたら“二之太刀不要”のつもりで攻めたと申しておった。中々面白い。いや、実に面白い。今少し彼の身体付きができておったら、この儂がやられておったかもしれぬ。
海道一の弓取りの息子は、海道だけでは済まぬかもな。また次に会う時は、我が剣術の一之太刀を授けるか。次に会うのが楽しみよ。
天文十八年(1549)十二月下旬 山城国下京今熊野 今川邸 草ヶ谷 之長
「まこと久しいな、内蔵助。息災であったか」
龍王丸さまがお声をかけてくださった。頭を上げて主の御顔を伺うと、随分と大きくなられた龍王丸さまがいらっしゃった。十代はじめだと思うと、年の子供に比べてかなり大きくなられていると思う。久々に見た供回りの皆も一回り大きくなっている。懐かしくも、月日の流れを感じた。
「誠にお久しゅうおじゃります。無事にお迎えできまして安堵致しました」
「うむ。北畠殿が領内で便宜を図ってくれたのでな、さほど労せずこれた。山科からは左近衛将曹もおったゆえ大して労しておらぬ。道中の差配、大儀であった」
頭を下げた後、中央の情勢や洛中、堺での商いの状況等、細かくご報告をした。赤鳥堂等で儲かりに儲かっていると報告すると、龍王丸さまは大きくお笑いになった後、引き続き頼むぞと仰せになられた。享禄屋の業績は内々に行っている事である故、この場でご報告は拙い。お呼びがかかった時にでもするとしよう。
「その方の父である少納言は府中でよくやってくれている。本当は上洛させてやりたいのだが、少納言無しでは府中がまわらん。痛し痒しだ」
龍王丸さまが父の心配をしてくださった。父はまだ若い。上洛はしたいだろうが、急がずとも機会はあるだろう。父からの文もよく届くが、昔に比べて上洛を口にしなくなった。府中での生活が充実しているのだろう。
“カーン”
“カンカンカンッ”
工事の大きな音が聞こえてきた。龍王丸さまが在所の折は音の小さい作業のみを命じていたはずだが…。
「左近衛将曹から、その方が俺に気を使って工事に制限をしていると聞いてな。俺が構わぬと伝えたのだ」
「左様でございましたか。…これは、出過ぎたことを致しました」
「よい。二、三日の滞在ならばそれも良いが、此度は長い滞在となる。工事をわざわざ止めるのは要領が悪くなる。だが、確かに大きい音だな」
龍王丸さまが苦笑いを浮かべられた。工事を命じられたということは、こちらに見えるまでに現場をご覧になったということか。
「弟が工事の状況を案内しましたか」
隅に控えている弟の顔を見ると、頷く仕草をしている。
「うむ。昨日山科で見取り図を改めて見せてもらってな。気になってしまったゆえ、先に案内してもらった。西門から一の丸、二の丸の道は良いな。この屋敷に来るまでに大分息が上がったぞ」
西門からお越しになられたのか。それも見るだけでなく実際に歩かれたとは。
「壕を掘っているところもあるゆえ、起伏が激しくお疲れになられたでおじゃりましょう。次からは北門をお使いになられませ。裏門が最も早く外に出れますが、大層狭くなって通り難い通路でありますゆえ」
「うむ。その裏門も左近衛将曹に案内してもろうたぞ。石段で歩きやすいがかなり細い作りだったな。あれならば槍衾で守れば、敵の侵入は許すまい」
龍王丸さまが笑みを浮かべられている。屋敷の作りに大分ご満足頂いているようだ。小まめにご報告しながら進めてはいたが、実物をご覧いただいてご満足を頂けたようで安堵した。
「通常の来客は北門を使うはずだが、客人を呼べるようになるにはまだ時がかかりそうだな」
「北側は池を造成する予定もおじゃりまするゆえ、まだ半年はかかろうかと」
「相分かった。後の事は委細任すゆえ抜かりなきように。そうだ。内蔵助、左近衛将曹をしっかりと褒めてやれよ?番匠たちをよくまとめていたぞ。それに屋敷の所々にある仕掛けの発案は、将曹からの案も少なくないようだな」
「承知仕りました。弟は昔から悪戯好きの悪童でおじゃったのですが、龍王丸さまにお褒め頂けるとは恐悦至極におじゃりまする」
「悪童か。良いではないか。相手の嫌がる仕掛けが多くあって、俺は満足している」
あの弟が褒められるとはな。確かに、この屋敷の所々に弟の案が活かされている。敵を破るためとはいえ嫌らしい手と感じる所もあるが、龍王丸さまはお気に召されたようだ。弟は番匠達とも仲が良い。気さくに打ち解けている。昔は外で遊び呆けたり、剣術を倣ったり、兵法書を読んでばかりと自由奔放の限りで将来を心配していたが…。麿としてもうれしい事だ。父上にもご報告しておこう。
「ところで雪斎は洛中入りしておるか?」
「はっ。禅師は一昨日前に妙心寺へと到着されておりまする。龍王丸さまの洛中入りは、すでに使いを出して伝えておりまするゆえ、今日にでもこちらへお見えになろうかと」
「あいわかった。今後はどういう予定になっているか」
「明日は山科邸、年が明けて三日は近衛邸、その後は洛中の名所巡り、それから堺を視察したいと考えておりまする」
「明日?内蔵頭殿は晦日の訪問でよいと?」
「はっ。なるべく時が経つ前にお会いされたいと」
「で、あるか。内蔵頭殿には世話になっているからな。府中より持参した手土産を持参しよう。太閤殿下や内府殿との関係も重要だ。ということは、明日からは忙しくなるということだな。皆も疲れたであろう。今日くらいは我らで楽しくやろうではないか」
龍王丸さまが盃を飲むふりをされた。横で井伊平次郎殿と伊豆介殿が嬉しそうに笑みを浮かべている。……やれやれ、今日は大分清酒が無くなりそうだな。まぁ日頃大儲けしている。皆の士気を上げるためにも、たまには利益を吐き出した方が良いだろう。
我が主はまだ酒をおやりにならないが、相変わらず酒の使い方がお上手だ。前と変わらぬお姿に自然と嬉しくなった。
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