第二十一話 竹千代
天文十八年(1549) 十一月中旬 三河国渥美郡堀切村 今川 龍王丸
「ほぅ。見事な池ではないか。短期間の間によくここまで作ってくれたな」
「ありがとうございまする。龍王丸さまからお借りした工具のお陰もありますれば」
「謙遜せずとも良い。途中とはいえかなりの水瓶になっておるではないか。上野介からも褒めてやれ」
俺と上野介が労うと、吉良左兵衛佐が照れくさそうにした。
甲斐への出兵から帰国し、菅ヶ谷村と峰之澤を視察の後、浜名湊から伊丹権太夫に船を出させて伊良湖湊から渥美半島入りした。
伊良湖村から少し歩いた堀切村で、吉良左兵衛佐に命じて作らせていた溜池の工事具合を見に来ている。
「権太夫もかなり骨を折ってくれたようだな。何度も船の往復と荷揚げで苦労したであろう」
「なんの、塩作りで培った経験がありまするゆえ大した事ではござりませぬ」
単純に穴を掘って池を作るよりも、底に粘土質の土を敷き詰めた方が水捌けが悪くなって池の水が貯まってくれるのではないかと思い付いた。
そこで、清水湊につながる川で、巴川という頻繁に洪水を起こす厄介な川があった。川を太くしたり、遊水地を造成したりすることで、氾濫を抑える治水対策を実施すると共に、掘削した粘土質の土を船で渥美半島まで何度も運んだ。
権太夫は大した事では無いと言ったが、かなりの労力が掛かったはずだ。
お陰で巴川流域では耕作区域が広がり、堀池村では溜池が作られ、農作に不可欠な水が確保された。
渥美半島は二、三百米級の小高い山が点在しているが、それ以外はなだらかな平地だ。水さえ確保出来れば、一大農業産地になる。あまり知られていないが、前世では渥美半島の大半を治める田原市は、市町村としては全国一の農業生産額を誇っており、酪農も盛んな地域だった。
稲作は来年になるが、大根は今からでも作れるな。自然薯もやらせてみよう。稲は水を大量に使うからな。出来れば薩摩芋とかサトウキビとかを作りたいのだが、まだ日本に無いのだ。もう少ししたら入ってくるはずなのだが…。サトウキビは明では作られているはずだ。琉球の人間が人を明に遣わして技術を持ち帰ったんだよな。それなら今でも出来るかも知れぬ。
渥美半島は湊から近い南部の開発で二、三年はかかるだろう。中部の開発の頃にサトウキビがあるといいな。もっと早くに気づいていれば良かったと口惜しいが、悔やんでも何も起きない。僧侶がいいかも知れぬな。漢文ができるから意思疎通ができるかもしれない。修行に来たと言えば怪しまれることも少ないだろう。野心的な僧を探して明に送りつけるか。伊豆介に命じておこう。
「土地はかなり広い。そう考えると水瓶はまだまだ必要だな。この辺りと…ここもだな」
「御意にござる。先に仰せのあたりは既に仕掛かってござりまする」
俺が二ヶ所の三角州を指し示すと、左兵衛佐が一ヶ所は既に作業途上と言う。いいね。出来る奴だ。
「うむ。ではその二か所ができた後は、引き続き其処彼処に小さくてもよいから溜池を作ってくれ」
「御意にございます」
万が一に備えて駐屯させていた吉良勢は、すっかり開発部隊の役目をこなしてくれている。渥美半島南部の開発が終わったら報いてやりたいが、三河は渥美以外に俺の所領は無いからな。飛び地でも喜んでくれるだろうか。禄で良いならくれてやれるが…。ま、落ち着いたら上野介に聞いてみるか。
「龍王丸さま」
「如何した。新次郎」
元服してからも引き続き近習を勤めている井伊新次郎直親が傍に寄ってきた。
「はっ、荒鷲の弥次郎殿が目通りを願っておりまする」
「通せ」
弥次郎か。伊賀から来た上忍の一人だ。今は西部方面の組頭になっている。荒鷲の大物が自ら来たか。左兵衛佐やその供の冨永伴五郎が下がろうとしたが、"構わぬ"と言って残した。
しばらくして弥次郎が近くに寄ってきた。
「久しいな弥次郎」
「お目通りがかない有り難く存じまする」
「うむ。その方が自ら来るとは、安祥で決着あったか」
「はっ。御味方大勝利にございまする。安祥城は陥落、城主織田三郎五郎殿を生け捕りましてございます。城攻めでは松井勢が活躍されました」
「そうか。五郎も初陣を飾ったか」
俺が目付役だった五郎宗親の動向を尋ねると弥次郎が頷いた。
「雪斎はこの後どうすると申しておる」
「はっ。織田三郎五郎殿と竹千代君を交換するため、織田弾正忠様と交渉されるとか」
よし。ここは史実通り順当に進んでいるな。
「戦線はどうなった」
「織田勢は苅屋城まで撤退し、猿渡川を挟んで睨みあっておりまする」
「で、あるか。かなり押し込んだな。三河平定もまもなくかも知れぬ。抑えはどうしている」
「井伊内匠助様と天野安芸守様が安祥城の守備を命じられておりまする」
「あいわかった。今後は尾張に人を多く入れるように。津島や常滑も忘れずにな。伊豆介には俺から伝えておく」
弥次郎が自ら来たと言うことは、今後の方針を確認したかったからだろう。そう思って方針を伝えると、"恐れ入りまする"と頭を下げてきた。
お、正解だったかな。
竹千代がいよいよ駿府に来るか。さぁてどんな人物かな。どう接するべきか迷うな。
渥美半島の開発指示も出来たことだし一先ず駿府に戻るとして、懸念の西部戦線が落ち着いたのだ。父上に上洛願いを今一度してみるか。
天文十八年(1549)十一月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 龍王丸
「余が今川参議義元である。竹千代、よく参った」
府中に在府している今川重臣らが並ぶ中、上段の間から父の義元が威厳を持って言葉を掛けた。
上段と下段の間にある御簾は上げられている。父上は威厳を保ちつつも、竹千代に親しく接しようとされている。
「松平次郎三郎が子、竹千代にございます。参議様にお目通りがかない嬉しく思いまする」
「うむ。苦しゅう無い。皆面を上げよ」
竹千代が面を上げた。まだあどけなさを残した少年だ。数え八歳だったか。竹千代に続いて、松平から供として付いてきた者達も面をあげた。供達は竹千代よりも後ろに控えている。
「尾張はどうであった。非道な扱いは受けなんだか」
「はい。織田の方はみな、竹千代に優しくして下さいました」
「そうか。誰ぞ親しくなったか」
「はい。織田三郎様が良くして下さいました」
「ほぅ。弾正忠の跡取りか。どうじゃ、世に聞く通りのうつけであったか」
「いえ!三郎様は面白い方ではありますが、うつけだとは思いませぬ。よく民のことを気遣っておいででした」
ハキハキと明るく竹千代が答える。
「民の事を気遣うとな」
父上が興味深そうに尋ねられる。
「はい。うつけと呼ばれるような格好で町に出ますが、かえって民は三郎様に親しく話かけておりました。親しく民に話しかけられ、民の状況、民の求めるものを知ろうとされております」
"ふむ"と父上が唸った。家臣の中には首を傾げる者もいる。信長の狙いが分からぬのかも知れぬ。だが父上は違うようだ。
「それで?三郎は他に何か申しておったか」
「はい。弾正忠家あって民があるのではなく、民があって弾正忠家がある。と仰せでした」
「ハッハッハ。竹千代は尾張で良い手習いを受けてきたようじゃ。弾正忠の倅自ら手習いとは、我が今川も応えなければならぬの。それにその方は随分と利発のようじゃ」
父上が高らかに笑われた。値踏みするように竹千代を見ていた家臣達も、今は感心するように見ている。
「その方にはこの館から近くにある屋敷を与える。その屋敷の近くに智源院という寺があってな、住職の智短和尚には話を通してあるゆえ、日々手習いを受けるように」
「はい。御意にございます」
「うむ。時が許す限り、臨済寺で雪斎にも手習いを受けるように。雪斎、頼むぞ」
家臣達が竹千代への厚待遇に少し驚いている。
"ははっ"と雪斎が畏まった。
「松平の隆盛はお主の努力に掛かっている。まだ幼き年頃ゆえ寂しゅうもあろうが、府中を故郷と思い、余を父と思って励むが良いぞ」
「ありがとうございまする」
父の言葉に竹千代と供回りが深々と頭を下げた。
……やはり、人質のようで人質ではない。だが、人質なのだろうといった扱いだな。松平は竹千代の祖父である清康の頃は、短い期間であったかも知れないが三河統一をした家だ。今でも衰えたとはいえ五万石はある。今川家中でもそれほどの所領を持つ家臣はおらぬ。それなりに気を使っているのだろうな。
竹千代を育てて取り込み、三河を今川のものにする。父上の長期戦略だな。尾張を落とせば、松平は西も東も今川になる。今川に仕えることは必然になるわけだ。その時に優秀な将として力を発揮してもらうために育てていく。全く父上は強かだわ。
天文十八年(1549)十一月下旬 駿河国安倍郡府中 臨濟寺 今川 龍王丸
手習いの部屋に入ると、平伏している少年がいた。
「松平次郎三郎が子、竹千代でございます」
「うむ。俺が今川 龍王丸だ。よろしく頼む」
「こちらこそ手習いの場にお邪魔を致します」
雪斎からの手習いの場には、竹千代が同席することになった。迷っていた竹千代への接し方は、家臣と同じようにすることにした。竹千代は将来の天下人の可能性がある。だから丁寧に接するということも考えたが、史実の氏真ルートを考えると非現実的だ。史実の氏真は武田に攻め込まれて駿府を失うが、掛川城の朝比奈泰朝の所に逃げ込んで、泰朝が頑強に抵抗してくれる。徳川の厳しい城攻めにあっても陥落せず、氏真の命を保証する形で開城する。
その後は北条に世話になるが、この一連の流れを考えてみると、駿府から逃げる時に家臣に殺される可能性、朝比奈が受け入れない可能性、城が落ちて殺される可能性、北条が味方にならない可能性等、死ぬ可能性の枚挙に暇が無い。史実の氏真は良く生き残ったもんだ。細い細い糸をたどるようなものだったと思う。
それよりは今川の嫡男として今川を維持する方が賢明だ。今生の今川は俺が滅ぼさせない。であれば俺と竹千代の関係は主従でしか無い。過度な対応は家臣の反発を招くだろう。あくまで俺は今川の嫡男として振舞えばいいのだ。ま、その方が俺の性分にもあっているしな。
「それでは今日は、韓非という聖について学ぶとしますかの」
雪斎が俺と竹千代に向かって口を開いた。
お、今日は元祖法治国家論者の話か。面白そうだな。
「竹千代は、韓非を知っておるか」
「いえ、存じませぬ」
「左様か、では龍王丸さまはいかがでございますか」
「春秋戦国の頃の韓非であろう。名を知っている程度だがな」
「それは結構。…昔、唐にも戦乱の時代がありましてな。長きにわたって数多の国々が争いをしておった。その中に韓という小さき国があって……」
俺の隣では小さな竹千代が熱心に雪斎の話を聞いている。
昔、大〇ドラマでこんなシーン見たような気がする。不思議な感覚だ。
雪斎の手習いはかなり勉強になる。ここはこの時代の最高学府かもしれん。
竹千代に負けぬよう俺も頑張らねばならんな。
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