第二十話 策謀




天文十八年(1549) 八月上旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 武田 晴信




「御屋形様、ご無事のお戻り何よりにござりまする」

「待たせたな。龍王丸殿の出迎えご苦労であった」

広間に入ると、部屋で待っていた馬場民部少輔が頭を下げた。儂と民部少輔の他は弟の左馬助がいる。

「龍王丸殿はどうされている」

「はっ、六日前に久遠寺へ着到して某と合流、久遠寺にて一泊の後、四日前に甲府入りし、この三日間は城下町を散策されておりまする」

「城下町?」

「はっ、菓子屋、細工屋、八百屋に米屋と区別無く訪れておられます。特に昨日は市が開かれ申しましたので、龍王丸様は興味津々のご様子で」

「その方は常に傍らにおったのか。不審な点はあったか」

「いえ、何にでも興味を持っているだけで、不審な点は見当たりませぬ。滞在されている大泉寺をお出になる時は常にご一緒させて頂きました」

そうか。龍王丸殿は内政家だからな。甲府の物の値でも調べているのかも知れぬ。


「草からの報告では駿府の進発は七月の二十日では無かったか?久遠寺に着くまでに随分と時を要したな」

「怪しいですな」

左馬助が訝しんでいる。駿府から久遠寺は二十里も無い。三日も掛ければ到着するはずだ。

「龍王丸殿の事だ。何かしていたに違いない」

左馬助がまた疑念を投げ掛けた。左馬助は、河東の戦いで武田が今川に上手く利用され、その原因が龍王丸殿だと分かってから龍王丸殿の事を厳しく見ている。


「左馬助の申す事も一理ある。確かに遅すぎる」

儂も疑念を伝えると、民部少輔が観念したような顔をして口を開いた。

「これは龍王丸さまに口止めされておったのですが、大量の兵糧をお持ちになっており申す」

「大量の兵糧?」

「はっ。某が迎えに出向いた所、龍王丸様が率いる今川勢が、軍勢に不相応な荷駄を連れており申した。龍王丸様に伺うと兵糧も援軍すると仰せでござりました。三千の兵の内、千もの兵が荷駄部隊でござりましたぞ。ただ、御屋形様を驚かせたいから謁見の時まで内密にするように釘を刺されておりまする」

「ハッハッハッ。そうか、それほど大量の兵糧を持ってきているか。豪気だな。礼を申さねばならぬ」

「御屋形様、我らに財力を見せつける策かも知れませぬぞ。それに甲斐は駿河の良き交易相手、このぐらい貰っても罰は当たりませぬ」

「左馬助は厳しいの。ま、気持ちは分かる。斯様なことをされては今川への礼をどうしたものかの。それにあの小倅に驚かされるよりは驚かせて見たいものよ」

「御屋形様…」

儂が存念を申すと、民部少輔が困ったようにしている。

「某に良き案がありまする」

左馬助が不敵な笑みを浮かべて儂の顔を見ている。どれ、策を聞いて見るか。明日の謁見が楽しみになってきた。




天文十八年(1549) 八月上旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 今川 龍王丸




「大膳大夫様におかれましては、信濃にて軍の指揮の所、躑躅ヶ崎館にてお出迎え賜り、この龍王丸、恐悦至極に存じます」

「いやいや、こちらこそ今川の嫡男たる龍王丸殿自らの援軍、痛み入りますぞ」

「勿体ないお言葉、某こそ感じ入ります。ささやかではありまするが、陣中見舞いの品を持参致しましたゆえ、お受け取り下さい」

俺の言葉を受けて、後ろに座していた三浦左衛門尉が目録を差し出す。武田側は左馬助が受け取り、晴信に渡した。


広間には晴信、左馬助、民部少輔の他に何人か武田の家臣がいるが、留守居役だろうか。河東で会った事があるものはいない。


「ほぅ…刀、弓だけでなく、このように沢山の兵糧を頂けると…。援軍に来てもらった上に兵糧まで貰っては些か申し訳ないの」

……。晴信が驚いてはいるが、想定の範囲といった反応を示した。目録にある兵糧の量を見たにしては驚きが少ない。…これは知っていたな?


教来石…じゃなかった。名が変わったのだったな。馬場民部少輔の顔を見ると罰が悪そうにしている。史実では鬼美濃と呼ばれる猛将も腹芸はできぬようだ。いや、若さ故かも知れぬ。


それにしても狸め。手土産の内容を知っているということは、駿河から甲斐入りの遅さを疑っている可能性が高い。手土産の内容だけを聞かれたのなら、こちらの意を汲んで民部少輔も黙っているだろう。


手土産を大量の物資にして正解だったわ。まさか道中の測量まで行っていたとは思わぬだろう。


「お気遣いなさらずに。父の参議からも、大膳大夫様は大事な盟友。出し惜しみするなと言われておりまする」

「左様か。なれどこのように多くの手土産を貰ろうてはの、どのように報いればよいか検討もつかぬ」

「お気持ちだけで十分にございまする」

「そうじゃ、丁度良いものがある。しばし待たれよ」

晴信が後ろに控えていた小姓に何か話している。話し終えると、小姓が急いで下がって行った。

"龍王丸殿はこちらへ。供の方々も参られよ"

晴信の先導で縁側のある部屋に案内された。


しばらくすると、先程駆け出して行った小姓が馬を轢いてやって来た。随分大きいな。サラブレッドとまでは行かないが、木曾馬にしてはかなり大きいと感じる。


「大きいでござろう?大鹿毛おおかげと名付けておる。今回の礼に龍王丸殿に進呈しよう」

ほぅ。これをくれるのか。ここまで大きい馬はこちらの世界ではまだ見たことが無いな。種馬として良いかも知れぬ。中々良いものをくれるじゃないか。礼を言おうとすると、晴信が続けて話し出した。

「どうであろう?今川の大切な御曹司を前線に出すわけには行かぬ。だが、馬の慣らしに谷戸城辺りまで出馬頂けぬだろうか。小笠原に対する牽制にもなるだろう」


甲府から俺を離させるのが目的か。

……狸め。谷戸城にいても甲府に居ても牽制の効果など大して変わらぬわ!……だが反対する理由が無い。ここは晴信の要請を受けておくか。

「最前線にお連れ頂けぬのは残念でござりまするが、某の身を案じて下さるせっかくのご厚意なれば、有り難くお受け致しまする」

俺が笑顔で応じると、晴信がにこやかに"うむ。頼みますぞ"と頷いた。横を見やると、控えている左馬助が能面の様な無表情をしていた。


そうか、こいつが仕組んだのか。




天文十八年(1549)九月中旬 甲斐国巨摩郡逸見筋 谷戸城 今川 龍王丸




"後背を龍王丸殿が抑えてくれたので心置きなく戦え申した。礼を申し上げますぞ"

信濃守護小笠原長時との戦いを終えて、谷戸城入りした晴信から世辞を受けた。晴信は論功行賞を早くに、俺は仰々しい祝宴を御免したかったので、早々に谷戸城で分かれる事にした。

晴信は"いずれまた礼を致す"と言って躑躅ヶ崎館へ帰って行った。


今川勢は谷戸城から南下して久遠寺を経由の後、駿府へ戻る手筈となっている。帰路も甲府には寄らないということだ。まぁいい。甲府の見たかった場所や市の具合は大体調べ終わっている。物の値段だけなら荒鷲に聞けば済む。


価格表からは見えない街の雰囲気が見たかった。その点で言えば、甲府は駿府に比べれば街が小さいながらも、思っていたよりは賑やかだった。内陸国のせいか、店や市における物の価格は総じて高い。塩や干し魚に至ってはやたらと高かった。駿府の四倍近いと言って良いだろう。


それでも街が賑わっているのは豊富に金を産出しているからだ。金山で働く鉱夫や軍役についている兵達が銭を落としている。


塩か…。晴信の泣き所だな。塩は越後も有名だ。だが、越後方面は途中にある北信濃の村上や小笠原と絶賛交戦中だから物が滞っている。駿河からか、美濃から運ぶしかない。順当に考えれば距離が近い駿河だろうな。


「考え事でありますかな」

庵原安房守がやって来た。後ろには三浦左衛門尉と狩野伊豆介が付いている。安房守は雪斎の同族という事で以前から近い距離だったが、最近共に出陣を行ったことでより距離が縮まった。

安房守が二間程距離を置いて座る。こいつは一々律儀なんだよな。

「うむ。もそっと近うよれ。如何致した」

「梨が手に入りましてな。甲斐の名物でござる。出立の前に喉を潤すのも如何かと」

「ほぅ、梨か。良いな。所望しよう」


"こちらで剥いても?"

安房守が訪ねて来た。あぁ、刃物を出して良いかと言うことか。承諾すると、小刀を胸元から出して、するすると、寿司職人が大根の皮を剥くように綺麗に梨の皮を剥き始めた。

「上手いものじゃな」

「器用でございますな」

左衛門尉や伊豆介が感嘆している。確かにな、これには俺もびっくりだわ。


意外と戦国時代の武士達は料理をする。家来衆に手料理を振る舞ったりもするのだ。前世で家康や伊達政宗が家臣に手料理を振る舞ったという文献を読んだことがある。主君の手料理の振る舞いを受けて家臣は感動するものらしい。俺も前世で料理は嫌いではなかった。いつかやってみようか。安房守も日頃から料理をするのかも知れない。


剥き終わると、安房守が片付けをしながら左衛門尉に目配せした。左衛門尉が軽く頷いたあと、"御免"と言って一切れ食べた後に"上手い!龍王丸さまもどうぞ"と言って来た。


毒味か。この顔合わせで毒味等要らぬのにな。お主らに殺されるようになったら命がいくらあっても足りぬわ。


ま、せっかくの気を使ってくれている訳だ。素直に受け取って労うとしよう。一切れ掴んで食べた。

「みずみずしいな。美味い。安房、左衛門尉、礼を申すぞ」

二人がにこやかにしている。

うん、これは本当に美味いぞ。ほのかな甘味と俺好みのシャキシャキ感だ。


「ところで伊豆介、北信濃はどうなっている」

「はっ、武田勢の攻勢は深志城を落として終わっておりまする。守護の小笠原家は本拠地の林城周辺を残すのみになっておりまする」

「で、あるか。信濃守護も持って来年までだな。今年は大膳大夫殿があえて残したやも知れぬ」

「敵がいる事でまとまる事もありますれば」

「そうだな安房守。誠、大膳大夫殿は軍略家よな」

左衛門尉と伊豆介が頷いた。

「来年は武田が独力で小笠原を潰すだろう。今川に声は掛からぬはずだ。今川としては三河攻めを粛々と進めるべきだな。帰国したら父上と雪斎に報告するゆえ、伊豆介は要点を纏めておくように」

"はっ"と伊豆介がかしこまった。


シャリシャリと口の中で音がする。

うん、美味いな。これは良いものを見つけた。残暑が厳しい中での茶席には菓子にも使えるな。それに…。


「安房、これは良いな。まだ幾分か用意できるか?」

「お気に召して頂けましたか。ご所望とあらば用意して参りまする」

「手籠で持てる程度でよい。冷泉家に持って行く」

俺が伝えると、納得したように安房守が頷いて承知した。左衛門尉と伊豆介も"なるほど"といった顔をしている。


冷泉権大納言が亡くなったと府中から知らせがあった。帰国したら線香を上げに行くつもりだ。その時にこの梨も持参しよう。


男四人で梨を食うのはむさ苦しいが仕方ない。何かしんみりさせてしまったな。いかぬ。


「しかし、誠に旨いな。それに安房の皮剥きも見事だ。恐れ入ったぞ」

場を和ませようと俺が褒めると、"いやまぁ"と安房守が照れくさそうにした。左衛門尉と伊豆介も話に乗っかってくる。

しばらく他愛ない話をして寛いだ。

たまには悪くないな。こういう時間も。


さてと、腹ごしらえも出来た事だし帰国の途に就くとするか。




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