第十八話 天文通寶




天文十八年(1549)五月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 龍王丸




「ほぅ…これが天文通寳でおじゃるか」

「永樂と天文の文字が異なる他は重さも大きさもほとんど同じでおじゃりましてな」

冷泉権中納言と草ヶ谷少納言が話している。俺は知らなかったが、二人は結構仲が良いらしい。よくお茶をする仲のようだ。権大納言の体調が優れない中、権中納言も気落ちしているだろう。気楽に話せる相手がいるのは良いことだな。


権大納言はあの時からしばらくの後、再び体調を崩して伏せっている。権中納言も覚悟はできていると言っていた。とはいえ邸宅で塞ぎ込むのも良くない。ちょうど聞きたいことがあったので、相談にのって欲しいと館へ連れ出した。俺が峰之澤の鉱山に作らせた今川独自の通貨“天文通寳”について意見をもらうためだ。


冷泉権中納言は民部卿も兼ねている。民部省は財政を司る大蔵省程では無いものの、租税や戸籍を扱う省庁のため銭金と縁のある省庁だ。そのトップの意見を聞けるのは有難い。

一方の少納言には、俺の所領を管理する大蔵方として試作品の段階から携わってもらっている。少納言の他には友野屋にも見てもらった。友野屋は好意的だったな。銭を使う取引は増えているのに肝心の銭が不足している。見た目もこれだけ永樂銭に近くて、今川が永樂銭と天文通寶を等価交換するという条件があるのならば、導入をしても市中の混乱は少ないだろうと言っていた。


「問題無いと思いますぞ。ただ、朝廷に諮っても判断に困ろうな。今川の領内で使うということであれば諮る必要も無かろうて」

「困ると言うのは?」

「朝廷が銭の発行を行ったのは六百年も前の事でおじゃる。こう言っては何じゃが失策でおじゃった。それ故に朝廷内で銭の検討は避けられておじゃる。相談されても判断出来ぬのじゃ。右往左往するでおじゃろうな」

なるほど。そういうことか。

「かといって銭の不足を認識していない程、今の状況に疎い訳でもおじゃらぬ。ま、黙殺というところでおじゃろうな」


権中納言が言う通り、飛鳥時代の末期から平安時代の中期にかけて、日本でも唐にならって貨幣が作られた。皇朝十二銭と呼ばれるものだ。和同開珎等の初期銅銭の質は悪く無い。だが貨幣の意味が分からぬ当時の民にとっては価値が分からなかった。中々流通せず、朝廷は蓄銭叙位令という愚策を施行する。金を貯めたら量に応じて官位を与えますよという施策だ。


この法令によって銭を蔵に溜め込む者が現れ、銭を供給しているのに市場では不足する状況になった。当時の鉱山技術が低い事もあって、次第に新たな銭を作る銅不足にも悩まされた朝廷は、鉛の含有量を増やしつつ、大きさも小さくした銭へと改鋳を繰り返した。改鋳時には銭の質が悪化しているにも関わらず、デノミ、つまり新銭の価値を高めて旧銭の価値を著しく下げる施策を行ったため、貨幣経済は混乱を極めた。


簡単に言うと百円玉を百枚持っていたのに、明日から百円玉一枚を新一円玉と交換しますよと言われる訳だ。それなら百円玉を溶かして銅として売った方が儲かるという状況になってしまった。市場の動きを無視した朝廷の施策は尽く失敗したと言う訳だ。


こんな状況だったので、勝手に銭を作る私鋳銭も横行した。公的には私鋳銭は今でも禁止されている。私鋳銭の鋳造は官位剥奪や斬罪が適用される厳しい罪だ。権中納言が言った黙殺と言うのはこの事だろうな。俺が銭を作っても咎めはしないだろうという意味だ。


だが、いくら咎められないと言っても気持ちの良いものではないな。近衛太閤や山科内蔵頭にも献上して理解を求めよう。ただ天文通寳の生産は始めておくか。峰之澤の粗銅生産量から推測すると、月産千三百貫の銭生産を見込んでいる。一地方大名の財源としては中々の量だろうな。年換算すると一万六千貫近くなる。織田信長が堺の会合衆に矢銭二万貫を要求したが、それに近い銭が毎年手に入ることになる。フフ…笑いが止まらぬな。


これでもかなりの量に思えるが、徳川幕府が発行した寛永通寳は三百万貫以上作られたらしい。前世で父親が古銭を集めていた。寛永通寳が紐に括られて大量に金庫に入っていたな。その時に雑学として聞いた記憶がある。単位が桁違いだわ。


「内蔵頭殿や太閤殿下、それと近衛左中将殿に意見を伺ってみまする」

「それが良いでおじゃるな。麿も文をしたためよう」

「ありがとうございまする」

俺が礼を述べると、冷泉権中納言が笑みを浮かべて頷いた。少し元気が出てきたようだ。人に必要とされるのが嬉しいのかも知れない。


やはり上洛をして公家衆の意見を聞いてみたいな。積極的な賛意が得られなくても、反対をしなかったという事実が作れるだけでも良い。まぁ最悪は永樂銭を模倣してこっそり作るかだな。




天文十八年(1549)六月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 龍王丸




俺はこいつを殺す。

だが、仕損じればこいつは俺を殺すだろう。

考えろ。上からくるか。腹からか。いや、下からくるか。


ずずっと足を前にして中段気味に構えた。

相手は正眼の構えを崩さない。

睨み合いが続いている。我慢比べだ。


相手が動いた!

切り込んで来る!

上から振り下ろそうとする動きを見せた。ならば俺は腹だ。

ギリギリで俺が先に刺せるか!?

相手の攻めを避けるために少し屈みつつ、相手の腹を刺しに行く!


「そこまで!!」


戦いを見守っていた塚原卜伝が大きく叫んだ。

声を受けて動きを止めに入るが止めきれない。相手の腹に少し木刀がかかった。逆に相手の振り下ろした木刀が俺の肩に当たった。


「お見事」

相手をしてくれていた卜伝の弟子が呟いた。

「いや、まだまだだ。今のは相討ちだ。よしんば俺が先にその方を刺したとしても、お主も俺に傷を負わせていたであろう」

冷静に俺が思ったことを伝えると、卜伝の弟子が"まぁ、そうかも知れませぬな"と話した。今川の嫡子に気を使ってくれたのかも知れぬ。

相手の木刀が当たった肩の部分がジクンとした。痣になりそうだな。稽古中は着物を多めに着ているが、身体が重くなる上に防ぎきれない。この時代はまだ竹刀が無いらしい。竹刀は無いのかと尋ねたらぽかんとされた。竹刀や防具を作る必要があるな。このままでは身体中痣だらけだ。


今日は朝から塚原卜伝に剣術の教えを乞うている。先月に塚原一党が府中にやって来た。その前は伊勢にいたらしい。北畠家中に指南していたとか。確か北畠具教が剣術家だったな。某ゲームで剣豪の能力があったと記憶している。


伊勢とは最近になって大湊と伊良湖湊が定期的に結ばれている。伊良湖は浜名湊、浜名湊は焼津、用宗や清水の湊とつながっている。伊勢と駿河の距離は近くなった。伊勢は我が領で作られる特産品の上方方面への輸出拠点として重要な役割を果たすだろう。


卜伝は大勢の弟子を引き連れて全国を放浪し、剣を指南している。各地で駿河府中の賑わいを聞くようになり、近いうちに行きたいと思っていたようだ。父上が卜伝の入国依頼を快く受け入れた。しばらくは府中に滞在して定期的に剣を教えてくれる予定だ。朝比奈備中守等の武闘派の武将がここぞとばかりに卜伝の教えを受けている。ちなみに卜伝には公家屋敷の中にある屋敷が一時的に貸し与えられている。


「龍王丸さまは筋がよろしい。何より剣に覇気がある。覚悟を決めている剣ですな」

卜伝が俺の剣筋を誉めた。

剣術は朝比奈備中守から定期的に指南を受けている。自分を守る大事な術だ。疎かにせず真剣に取り組んでいる。

「龍王丸さまは体格にも恵まれておられる。剣を極めればその道でも名を残されるやも知れませぬぞ」

中々営業トークが上手いじゃないか。

確かに、俺は数え十二歳で身長が五尺近くある。肉も牛乳もよく食べたり飲んだりしてるのが効いているのかも知れない。前世も小さい頃から背が高かったな。小学校の高学年で百六十センチはあったと思う。もっとも、そこから伸びなかった。結局は百七十程度の平均的な身長に収まった。


まぁこの時代の平均身長は大体五尺と少しだ。そういう意味では既に俺は平均身長に近い。卜伝の弟子とも背格好は変わらない。卜伝が褒めるのも頷ける。


「剣の道は奥が深い。まだまだでござりまする」

俺は強くなりたい。自分で自分を守ることが出来る程度にはな。身に迫る危険があった時、最後に頼ることが出来るのは己の腕しかない。ならば相討ちではならぬ。勝てる腕を持たなければ。

気を抜けば死ぬ。相手の木刀は真剣だと思って再び構えた。


俺が構えると、好々爺の面持ちをしていた卜伝の顔から笑みが消えた。

「よろしい。それでは今度は某が相手を致そう。どこからでも良い。かかって参られよ」

卜伝が構えている。


今度は俺が攻めるのか。

卜伝は緩く構えている。隙だらけのように見えれば、全く隙が無いようにも見える。

ここは迷ったら負けだ。剣が乱れる。


戦国の世において、相手が剣豪だったから負けた等通用しない。

“常在戦場”これがもし真剣の戦いだったならば、戦場だったならば、生きるか死ぬかしか無いのだ。

よし!行くぞ!


「せぃやぁぁっ!」

裂帛の気合いで踏み込んだ。




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