第十六話 松平 広忠の死




天文十八年(1549)二月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 龍王丸




「御屋形様、正四位上参議への叙任、誠におめでとうございまする」

「「おめでとうございまする」」

重臣で家老職を務める三浦左衛門尉が言祝ぐと、広間に集う皆が唱和して平伏した。

「うむ。此度このような機会を得ることが出来たのは皆の力によるところが大きい。礼を申すぞ」

父上の言葉に皆がかしこまった。


今回、父上が正四位上参議に叙位叙任された。正四位に叙位されるのは今川家では初めてらしい。父上も満足そうにされている。確か、義元は史実において従四位下だったはずだ。地方の大名の中では従四位下でも位階が高い方だが、今回は破格の位階だ。領内が潤って蔵に財があふれているから、史実よりも献金を大分積み増した成果かもしれない。


参議というのが肝だ。通常は三位以上が公卿とされるが、参議だけは位階に関わらず公卿と見なされる。これで父上は公卿補任にも名が刻まれるということだ。嬉しくもなるだろう。


まぁ参議は定員が多いからな。朝廷としては、今川に一席与えたところで痛くも痒くもないだろう。それに今川は地方にいるから朝廷の施策に物を申せるわけでもない。これは多額の献金に対する朝廷のしたたかな礼とみるべきだろうな。だが家臣たちは高い官位に叙位される名門に仕えていると思えて自尊心が満たされているようだ。蔵で眠るよりはよほど良い金の使い方だな。


評定が行われる広間には、いつも評定に参加している重臣だけでなく、遠方の家臣たちも集まっている。召集が掛けられたからだ。朝廷からの叙位は偶然重なったに過ぎない。


「参議に任じられた今、余は公卿の一人として、畏くも主上の御宸襟を安んじ奉る為に三河平定を成し遂げねばならぬ」

絶妙な言い回しだな。義元には、いや父上にはやはりカリスマ性がある。人の心を擽るのが上手い。この辺りは学ばねばならん。


「三河衆並びに遠江衆には全軍に軍令を発する。雪斎の指揮に入るように。駿河衆は庵原安房守と三浦左衛門尉に軍令を命じる。龍王丸の指揮に入れ」

“おぉ”と場が騒がしくなった。初陣では無いが俺が大将をやるのは初めてだからな。


「三月十日をもって府中を進発する。十三日に曳馬城を進発、十五日に岡崎城入城の予定である。寄親の者には別途子細を伝える。寄子は寄親の指示に従って二日前までに各地へ参集するように。以上だ」

父上の令を受けて皆が一斉にひれ伏した。


三河、遠江、駿河で召集が掛けられる。二万に迫る大軍になるな。今回は安祥城の攻略と渥美半島平定が目的だから短期決戦だ。動員兵力が多くても兵糧は何とかなる。


俺は初めての大将だ。庵原安房守が帯同してくれることになった。雪斎が庵原氏の出自のため、昔から安房守とは会う機会が多かった。安房守は頼りにできる人間だ。俺としても側にいてくれれば安心できる。色々勉強させてもらおう。


それから、目付の後任として三浦内匠助正俊が着くことになった。その影響で父親の三浦左衛門尉義就も参陣して帯同することになった。左衛門尉は父上の側近を長年務めている。戦場の経験も豊富だ。庵原安房守と三浦左衛門尉だと左衛門尉の方が席次は上になるが、左衛門尉が“自分の参陣は後から決まった事。それに某が行くのは倅を鍛えるためですから”と申したので軍師は安房守のままとなった。気が使える奴だ。


親衛隊は迷った末に置いていく事にした。下田の部隊は防衛があるし、府中の部隊は歳が若すぎる。あと二、三年は掛かるな。


渥美か…。義元とのやり取りを思い出すな。今回の出兵に関する策を話している時に、つい何時もの癖で他人行儀な素振りを取ってしまった。どうも義元とは上司部下という関係に感じていたんだよな。


だが義元、いや父上にあの後個別に呼ばれて

“その方はまだ元服前ゆえ存念を思ったまま言えばよい”

“もっと父を頼って良いのだぞ”

と諭された。


何だかな。急に義元が近く感じたわ。子を想う好い人だった。今からでも少しずつ近くなれたらいいと思っている。幸い俺は家督争いする相手もいないからな。父上が大事にしてくれている。


まぁ俺も昔見たアニメじゃないが、見た目は子供、中身はオッサンだからな。ほどほどに甘えさせてもらおう。




天文十八年(1549)三月上旬  駿河国安倍郡府中 今川館 友野 宗善




龍王丸様が点てられた薄茶を頂く。美味だ。まろやかで、奥が深い。この茶は赤鳥堂が出している最高級のものだな。


龍王丸さまは赤鳥堂という屋号で茶を売り出している。表向きは駿河の茶農家が今川御用達になり、屋号を賜ったとなっているが内実は龍王丸さまの直営だ。今も京では草ヶ谷内蔵助様が差配されているのだろう。


赤鳥堂の茶は手をかけているだけあって評判はかなり高く、京のお公家様や豪商に人気だ。茶は分かるが、この器は何だろう。淡い青磁が美しい。大陸の…、南宋の青磁だろうか……。


三月になって少しずつ暖かくなってきてはいるものの、まだ冷え込んでいる。今日は特に寒い。部屋の中でも息が白くなるほどだ。お心遣いか大服の茶に身体が温まる。


「結構なお手前で…。見事な器ですが、いずこのもので」

茶を聞くのは愚問だと思い、茶器を尋ねた。龍王丸さまが微笑みながらお応えになった。

「内蔵助が堺で手に入れてな。送ってきたのだ。友野屋にはいつも世話になっている。一番に見てもらいたいと思うてな。使わずに取っておいたのだ」

相変わらずの人たらしよ。だがお気遣いは率直にうれしい。


「お気遣い下さり嬉しく思いまする。手前は南宋の青磁に似ていると思いました。この柔らかな色合いがなんとも言えぬ美しさをもっておりますな」

「ほぅ。さすがだな。まさしくその通りよ」


南宋か…。堺には明からの密貿易船が時々来るという。琉球を経由して貿易をしているようだ。堺の豪商達は大きな利権を持っている。

「堺の商家達はこのような物が手に入って羨ましいの。大きな儲けを得ているに違いない」

龍王丸さまが呟かれた。心を読まれたか。


「仰せの通りかと。幕府による明との貿易は久しく途絶え、表立っては大内家が執り行っておりまする。なれど堺の商家達は堺独自で交易をしているようでして」

「そのようだな。堺の会合衆は軍備も揃えて大名の介入も許さぬという。それが出来る程に有力者どもはみな豪商のようだな。その方よりも大きいか」


「それは分かりませぬが、お陰様で手前どもも昔より大きく儲けさせてもらっております」

堺の豪商と友野屋か、どうだろうな。一軒だけで比べれば友野屋の方が大きいかも知れぬ。今は龍王丸さまのお陰で我らも随分と大きくなったからな。


「で、あるか。ならば矢銭でも徴収するか」

「いいでしょうとも。矢銭以上の利を下されば」

ハハハと龍王丸さまが笑われた。龍王丸さまは冗談をよくおっしゃる。それだけ我らを信頼してくださっていることの証だと思っている。


「ところで友野屋、一つ頼みがある」

今日は茶器の見物だけではなかったか。わざわざ火急に呼び出されたのだ。何かあるとは思っておったが…。"何なりと"と応えると、龍王丸さまが居ずまいを正されて仰せになった。


「堺だ。堺の商人と繋ぎが欲しい」

「堺の商人でございますか」

「そうだ。少し先になるだろうが、俺は上洛をしたいと思っている。上洛が叶えば堺にまで足を伸ばして、明船が駿河にまで来るように、堺の者達と話をつけるつもりだ」

なるほど。だが堺の商家達に取って大切な利権だからな。上手く話が進むだろうか…。

「堺の者達にもその方にも利があるような仕組みを考えておく。案ずるな」

いかぬ。儂としたことがまた龍王丸様に先を越されてしもうた。

「かしこまりました。手前どもで堺の会合衆に掛け合ってみまする」

「うむ。頼むぞ。明船を駿河に呼ぶことが出来れば、南蛮船も呼ぶことが出来るかも知れぬ」

「南蛮船…でございまするか」

「そうだ。明船が駿河にやって来れば、堺に行くよりも駿河の特産品が豊富に手に入る。利があると思えば駿河に進んでやってくるだろう。やがて明でも話に上がるはずだ。そして明に既に来ているという、南蛮の耳聡い者達も興味を持つはずだ」

「そして自ずと駿河にやってくるというわけですな」

"うむ"と龍王丸さまが頷かれた。


確かにあり得る。我々商人は利がそこにあると分かれば動かずには入られぬ。

「確かに…。まこと、龍王丸さまはお武家様にしておくには惜しいですな」

「誉め言葉として受け取っておこう。頼むぞ、次郎兵衛尉」

"ははっ"と頭を下げると、"それと"と声が掛かった。頭を下げたまま伺う。


「松平の当主、次郎三郎殿がつい先日暗殺された」

「!」

「家臣に刺殺されたようだが、織田弾正忠の謀略かと思っている。いずれにしろ亡くなったのは確かだ。この情報をその方がどう判断するかは任せるが、三河の物の値段が動くやもしれぬな。…それと今川は予定通り動くぞ」

これは堺の件を頼むという手付金代わりか。真のお心積もりは分からぬが…。

龍王丸さまはつい先日とおっしゃった。それほど時は経っていまい。これは上手くやれば大きく儲かる。商人の宿命だな。そこに利があるのならば動かねば。


「…火急の用件が出来致しました。見事な茶を頂戴している中で、甚だ名残惜しくは存じますがご無礼の程、平にご容赦を」

龍王丸さまが"うむ。また会おう"と仰せになった。




天文十八年(1549)三月中旬 三河国渥美郡堀切村 今川勢渥美半島方面軍吉良隊 吉良 義安




一昨年に松平の子息である竹千代殿を、戸田弾正少弼康光が織田に売り渡した。その弾正少弼の弟である戸田庄右衛門光忠が、一族郎党を集めて堀切村にある砦とその麓に鎮座する富之神社に立て籠っている。


戸田弾正は、竹千代を織田に渡したのが露見すると、直ちに御屋形様が制圧された。だが依然として弟の庄右衛門や残党が渥美半島の至るところに散っていた。戸田氏は渥美半島一帯に長年影響力を持った国人だ。拠点である田原城を落とした位では戸田の影響力を全て排除できていなかった。


なれど今回は違う。渥美半島方面軍の今川勢三千四百が五百の戸田勢を最南端の最後の砦にまで追い詰めている。ここで討ち果たせば渥美半島は完全に今川家のものとなるだろう。


当初、今川勢が渥美方面へ向かった時に、戸田庄右衛門は使者を出して恭順の意思を示してきた。だが、龍王丸様は"獅子身中の虫はいらぬ"と一言だけ、冷淡に仰せになって使者を返した。


半島を進むと、所々で小さな抵抗はあったが、敵のほとんどは堀切にある砦に集結して立て籠った。今は隙間なく今川勢が砦を囲んでいる。某は龍王丸さまから吉良の陣に行くよう命じられた。命令というよりは龍王丸さまのお気遣いだろう。"積もる話もあろう"と仰せになられていた。


「兄上」

西条吉良家当主の左兵衛佐義昭が声を掛けてきた。すぐ後ろには譜代の冨永伴五郎が付き従っている。儂が龍王丸さまのお側にいるため、吉良勢四百は弟の左兵衛佐が率いている。


「お厳しかったですな。龍王丸さまは」

砦を囲んで間もなくした頃、降伏を願う庄右衛門の使者が陣へと参った。だが、龍王丸さまはお会いにすらならなかった。左兵衛佐はその時の事を申しているのだろう。

「龍王丸さまが敵で無くて良かったと思うておる。此度の事、我が事と思うて戒めにせねばならぬ」

儂の言葉に左兵衛佐が黙って頷いた。


吉良は龍王丸さまにお仕えして本領が安堵された。それに儂の支度料として五百石の禄も頂いている。龍王丸さまはお仕えしにくいお人では無い。むしろ公明正大な方だと感じる。お側にお仕えして学ぶ事も多い。


「左兵衛佐、龍王丸さまは必ずや大を成される。間違った事は起こすなよ。庄右衛門のようになるぞ」

「心得ておりまする」

左兵衛佐が力強く頷いた。伴五郎も頷いている。

日が傾いて来た。本格的な戦は明日からだろうと思っていると、砦の門が開けられた。甲冑を着た武者が出て来て今川方の本陣を見ている。


「我こそは戸田弾正少弼康光が弟の庄右衛門光忠である!今川の御曹司殿に物申す!!」

あれが庄右衛門か。大きな声が出ているな。中々の大将ぶりよ。


「今川殿の我らへの仕置きたるやお見事! 事、ここに至っては刃を交える他無し!御曹司殿に情けの心あらば、我らに最後の戦場を与えられたし!行くぞーー!!」

口上が終わったかと思うと、戸田勢が門の正面にいる今川勢に向かって突撃を開始した。庄右衛門の近くは動きが早い。あれは一族朗党だろうな。さすがに後ろの方はまばらに続いている。雑兵の類かも知れぬ。


砦門の正面にいる御味方は本陣に続くが、守りが最も固いところでもある。あの人数で破ることは到底叶わぬだろう。


庄右衛門の様にならぬようにせねば。

そう思うと同時に、武士として美しい散り際だと思うた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る