第十五話 濃尾同盟




天文十七年(1548) 十二月上旬  駿河国安倍郡府中 今川館 今川 義元




「美濃の斎藤と尾張の織田弾正忠が縁組をしたようだ」

忍から報告された内容を伝えると、母上が驚かれた。雪斎も眉が少し動いた。これは…面倒なことが生じたなと思っておるな。龍王丸は平然としている。荒鷲とかいうお抱えの忍から既に聞いていたか?相変わらず頼もしい奴よ。


「背を固めた織田弾正忠が再び三河へ攻めてくることになりましょうや」

「雪斎が小豆坂で叩いたばかりゆえ、積極的に打って出てくる可能性は低いでしょう」

余がご懸念を払うと、母上が安堵されたような顔を浮かべた。雪斎も頷いている。龍王丸は…静かにしているな。どれ、存念を聞いてみるか。


「龍王丸はいかが思う」

「……父上の仰せの通りかと。濃尾同盟と言えども、尾張は勢力が乱立しておりまする。織田伊勢守に織田大和守とお互い隙を伺っておりまする。一枚岩ではないのです。弾正忠は昨年雪斎に敗れて足元がぐらついておりますゆえ、三河に打って出る余力は無いでしょう」

…打てば響く鐘だな。余の手前、気を使って静かにしていたと見える。この顔合わせでおる時まで気を遣わずに良いものを。愛い奴じゃ。…それにしても三河方面の話になると龍王丸はいつも静かだな。単に関心が無いだけか?


「そうだな。余もそう思うぞ。余が弾正忠ならば尾張国内を固めて力を貯めようと思うはず。ならば今川はどう出るべきと考える」

小さな軍略家殿にお知恵を授かるのも面白いの。この面子じゃ。何を言ってきても諭してやれる。考えておらなんだか、関心が無いのか…ここは試してみるとするか。


「東三河、特に渥美半島は国人領主どもがまだ独立している状態で御座いまする。このままでは織田の力が増せば簡単に織田に靡きましょう。某に兵三千と、今橋周辺の国人を参集させる権限をお与え下さい。渥美半島を完全に平定してみせまする」

「ま、待て。その方が出陣するというのか」

龍王丸の思いもよらぬ返答に驚いた。

「大将とな?さすがに早い。それに危のうございますよ」

母上も驚かれている。雪斎はあまり動じていないな。もしや同意か?顔を向けると雪斎が口を開いた。

「拙僧は良き案と思いまする。ただ、出陣は年明けがよろしいかと。これからの時期は雪が降らぬとも限りませぬ。渥美の奥地で凍えては地の利がある敵が有利にございます。年明けの雪解けを待って制圧しましょう」


「御師匠の懸念はもっともではあるが、お借りする三千の兵に吉良の四百を連れていくつもりだ。渥美半島の国人は総出で来たとしても千に届かぬだろう。十分な兵力差だ。それにこの時期だからこそ織田も後詰はせぬだろう」

龍王丸が早期出陣を主張した。雪斎に異を唱える者は今川家中ではほとんどいない。余も頼みにしている。雪斎は久しい反論を受けてどこか楽しげだ。ニヤリとして話し出した。


「龍王丸さまの仰せになる通り今出陣をしても勝てるでしょう。だができれば田原制圧は安祥城陥落と時を同じくしたい。織田の衰微を世に知らしめましょう」

「……なるほど。それぞれを単に落とすよりも効果があるか。さすがは御師匠殿であるな。後学としよう」

龍王丸もニヤリと笑みを浮かべた。まるで老獪な翁二人が策を練りあっているようだ。


「よかろう。今回は雪斎の策を採る。雪解けを待って雪斎は安祥方面、龍王丸は渥美半島へ出兵だ。龍王丸には念のため軍師を付ける。庵原安房守が良いだろう」

安房守ならば経験が豊富じゃ。どのような状況になろうとも助けになろう。目付として傍におってくれれば、父としては安心よ。母上も致し方無いといったお顔をされている。


それにしても龍王丸が自ら出馬を願うとはな。三河方面の話には静観しているかと思うていたが…。

「珍しいの。その方が出陣を願うとは」

「渥美半島は当家が西に進むにおいて抑えるべき重要な場所でございます。陸の面でも航路の面でも。それに渥美は…」

龍王丸が理路整然と理由を述べている。……だが余には分かったぞ。渥美半島が欲しいのじゃな。素直に欲しいと申せばよいものを。

「相分かった。無事に切り取れたらその方にくれてやろう。渥美半島なぞ一万石程度だ。航路を活用できるその方ならばまだしも、拝領して喜ぶ家臣はあまりおらぬだろうしな」

余が決を下すと、龍王丸がかすかな笑みを浮かべて“父上、ありがとうございまする”と頭を下げた。




天文十八年(1549)一月中旬  駿河国安倍郡府中 今川館 今川 龍王丸




「明けましておめでとうございまする」

「「おめでとうございまする」」

草ヶ谷少納言が祝いの言葉を述べると、部屋にいる皆が唱和して頭を下げた。

俺の自室に直臣や供回りが集まっている。残念ながら内蔵助だけは京で朝廷や公家への挨拶に忙しいため欠席だ。

「おめでとう。今年もみな頼むぞ。今日は無礼講だ。楽しんでくれ」

一通りの挨拶をした後、“乾杯”と言って杯を掲げた。皆も“乾杯”といって杯を掲げて唱和した。今日は貴重な清酒が飲み放題だ。すぐに場は賑やかしくなった。ちなみに俺が飲んでいるのは“どぶろくの様に見える甘酒”だ。


「旨い!清酒に刺身は最高よ」

「左様でござるな。この刺身とたまりの相性もたまらぬ」

井伊彦次郎と平次郎が大きな声で騒いでいる。気持ちは分かるぞ。俺ももう少し歳を重ねておれば酒を飲んで刺身をつまんでおるわ。


「ッ!さびをつけすぎたわ」

涙を目に浮かべて伊豆介が訴えている。そうそう、今日は梅ヶ島の手前にある有東木の山葵わさびをふるまってやった。有東木の山葵は、史実において徳川家康が絶賛して門外不出とした山葵だ。俺は門外不出なんてしない。いいものはどんどん作ったほうがいいからな。有東木のブランドは高級品として大事にしつつ、近隣の地域でも作らせている。山葵は最近売り出したばかりの新たな特産品だ。


醤油も特産としたいのだが作り方が分からない。複数の味噌の蔵元に、たまり醤油を大量に作る方法を考えて欲しいと丸投げしている最中だ。たまりは濃厚で醤油よりも旨いかもしれない。でも量が確保できない。やはり醤油を生産できるようにしたい。新鮮な駿河湾の海産物に醤油と山葵。最高だよな。


「彦次郎、近う寄れ」

「ははっ」

俺が声を上げると、すぐさま彦次郎が前に出てかしこまった。わいわいと騒いで酔っているようでも主君に呼ばれるとすぐにかしこまる。さすがは戦国の武将だな。顔は赤いが。

「なに、伊豆方面の守備を労おうと思うてな。俺が一杯注ごう。その方には苦労を掛ける」

“ありがたき幸せ!”と大きな声で言いながら杯をこちらに向けてきた。並々と清酒を注いでやる。


「北条に動きはないか」

「龍王丸さまのご指示で築かれた真面之要塞に恐れをなしてか、全く動きがありませぬ。攻めてきたら来たで某が一刀の下、返り討ちにしてくれまするっっ!!!」

「で、あるか。頼むぞ!」

……。とりあえず彦次郎に合わせて俺もあえて声高に反応をしておいた。しかしやたらと声がデカいな…。いるよな。酒を飲むと声が大きくなるタイプ。まぁ場が明るくなって良いが。それにしても人が真面之要塞マジノようさいと言うのを聞くと恥ずかしいな。


駿・相国境に建設していた砦群が完成した折に、名をどうするかとなった。森の中に砦がいくつもあって防衛線を築いているなんてマジノ線みたいだなと思って、つい“マジノ線の様だな”と呟いてしまった。

呟いた程度だったが、家臣たちに聞こえていたようだ。仕方ないので真面目に敵の攻撃を防ぐ要塞、“真面之要塞”と名付けることにした。呟き一つも気を付けねばならぬ…。今後の戒めだな。


「そうだ、彦次郎。お主から願いのあった亀之丞の件だが、父上の裁許を得た」

「ま、まことでござりまするか!」

「うむ。元服の儀は改めて正式に行うが、これだけ皆が集まっている場も少ない。皆に伝えても良いか」

「それはもう願っても無き事!」

「で、あるか。井伊 亀之丞っ」

「はっ」

俺が呼びつけると、亀之丞がサッと機敏な動きで目の前にかしこまった。身体は大きくないが、しっかりと鍛えている動きだ。彦次郎に似て美丈夫だな。


「彦次郎よりその方の元服願いが出ていた。この度、御屋形様から元服の儀、執り行う旨の裁許を得た。追って正式に儀を執り行うが、目出度き事ゆえこの場にて伝える。皆に祝ってもらえ」

「は、ははっ!ありがたき幸せにござりまする」

亀之丞がうれしそうにしている。こいつも井伊谷騒動で色々と苦労したからな。無事に元服できるのはうれしいだろう。


「名は彦次郎と相談して決めた。俺がまだ元服しておらぬからな。一字くれてやりたいがそういうわけにもいかぬ。これよりは直親と名乗るがよい」

「あ……、ありがたき幸せに御座います。龍王丸さまのために励みまする!」

“おぉー”

“目出度い”

皆が次々に祝いの言葉をかけている。場が大いに沸いた。


亀之丞…いや、直親は数えで十三だったか。こいつは小さい頃から苦労しているせいかしっかりしているんだよな。武芸にも励んでいるし、気も効く。いい側近になりそうだ。


祝い事はもう一件あったな。だがこちらは祝いでもあり、寂しくなることでもある。

「松井 五郎 宗親!」

「はっ」

目付仲間である久能余五郎と飲んでいた五郎が前に来た。


「その方の叔父上である遠州二俣城主 松井兵部少輔から、その方を養子にしたいと申し出があった。ついては傍らで鍛えたいとな」

「……はっ」

兵部少輔から聞いていたのか、五郎の顔に驚きは無かった。兵部少輔は昨年の三河における戦いで獅子奮迅の働きをして父上が感状を出している。確か史実でも桶狭間で最後まで孤軍奮闘して戦死した猛将だ。既に三十代半ばになるが子宝に恵まれない。そこで甥にあたる五郎を養子に迎えたいと願いがあった。松井家には五郎と弟の八郎を供回りに出してもらっている。さすがに引き留めはできぬ。ここは精一杯送り出してやろう。


「今まで目付役の勤め大儀であった。その方のおかげで気づき、考える事が多々あったぞ」

「かようなことは…。拙者の方こそ、龍王丸さまのおかげで多くを学び申しました」

五郎の顔が陰った。別れを惜しんでくれているのか?うれしく思うぞ。

「で、あるか。ならば城主殿の養子になるのだ。松井を大きくできるように励め」

「必ずや」

五郎が深々と平伏している。

場はいつの間にか静まり返って、俺と五郎のやり取りを見守っている。


「五郎には今までの礼と、これからの活躍を期待して太刀を授ける。御屋形様が上方より招いてくれた刀工が打った刀ぞ。松井の家紋を入れておいた。受け取れ」

俺が傍らに置いてあった太刀を手に取って差し出すと、平伏していた五郎が驚いたような面持ちで顔を上げ、恭しく太刀を受け取った。

“寂しくなるな”と声をかけると感極まったのか涙を流しだした。

「目出度き事ぞ。皆祝ってやれ」

俺が声を張り上げて皆に言うと、場に喧騒が戻った。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る