第十四話 平穏な一時




天文十七年(1548) 三月中旬 駿河国安倍郡府中 臨濟寺 今川 龍王丸




“観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時……”

般若心経の読経が始まった。今日は妙心寺霊雲院の大休禅師を招いて、先代の当主である今川氏輝の十三回忌を行っている。氏輝は病弱で若くして死去したというのは前世からの記憶にあるが、もう十三回忌というのには驚いた。何歳で死去したのかまでは分からないが、父上の兄上だよな?父である義元がもうすぐ三十になるところだからかなりの早死だな。


他の大名がどうか分からないが、今川家では回忌の法要を大事にしている。祖父にあたる氏親の回忌もしっかりあった。戦乱の世にあるからこそ、こうした行事を大事にしているのかも知れない。


洛中は妙心寺からお招きした大休禅師は老師と言っていいご老体だ。臨済宗におけるかなりの高僧らしいが、確かに貫禄がある。雪斎とはまた異なる存在感だ。妙心寺と言えば臨済宗内では最大派閥だ。いや、この時代ではまだ違うかもしれないな。とはいえ臨済宗の高僧をわざわざ府中までお招きできるとは今川家の外交力が垣間見えるな。


それにしても般若心経か。前世でも俺の家は臨済宗だった。しかも妙心寺派だ。法事で何度も聞いている経だが、相変わらずほとんど意味が分からぬ。サンスクリット語だったか?漢文の経が高尚と言えば聞こえはいいが、今少し分かりやすい方が有難みもあるのではないかと思うわ。


そう言えば前世には坐禅和讃があったな。白隠禅師が作られた和讃だ。白隠禅師は江戸時代の人だったか?となるとこの時代にはまだ存在しないのか。あれは分かりやすかった。庶民にも分かるように仏の教えを噛み砕いて作ってあった。


前世では必ずと言っていい程、般若心経の後に坐禅和讚が続けて読まれたな。この時代は学が無い民がほとんどだ。ああいった経があったほうが民も安らぐだろう。雪斎が帰国したら相談してみるか。


雪斎と言えば、今三河へ出兵中だ。尾張の織田信秀が攻めてきたので援軍として出兵しているらしい。義元が法要の責任者のため出兵できないのは分かるが、総大将が僧侶っていうのもどうかと思う。家中がまるで異議を唱えないのが不思議だわ。無いとは思うが、目の前に敵兵が現れたら、あの爺さんは敵を切るのだろうか。


荒鷲からの情報によれば、織田は四千程の兵力で攻めに来ているようだ。一方、雪斎は一万の兵力で出陣していった。松平の兵力と合わせれば織田の三倍はいるだろう。まず負けることは無いと思うが……。




天文十七年(1548) 六月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 龍王丸




"ザザー"と大粒の雨が降っている。

梅雨の鬱陶しい季節がまたやってきた。

安倍川の治水工事は伊豆介の統率もあって、昨年から今年にかけて予定していた部分が無事に終わった。梅雨の長雨で川を流れる水量が増しているが、全く問題無さそうだ。

治水はすぐに終わるものでもない。引き続きやっていくつもりだ。


今回行った大規模な治水工事は、史実において徳川家康が行ったものを真似た。晩年に大御所として駿府に君臨した家康が、薩摩藩を中心に普請させて、薩摩土手と呼ばれる堤防を作った。近代に入って一部は取り壊しされたが、引き続き堤防としての役割を果たしており、国の管理下に置かれて利用されていた。四百年にわたって使用されるようなインフラ事業には素直にすごいと感じる。


治水工事のために集めた人夫たちは、引き続き雇用して屋敷街の工事等にあたらせている。専門的な仕事は難しいが、人手が必要な地ならし等の単純作業に重宝している。治水によって得た新たな区画の半分は農地とし、残りには、下向している公家や上級武士、富裕層の屋敷を建てるつもりだ。


人夫たちは手に入れた銭を飲み食いに使っている。その影響もあって、今駿府は空前の好景気だ。元々府中は物があふれ、治安もよく景気が良かったが、一大事業が好景気に拍車をかけている。上方や他領からの行商も一層増えている。

ただ、ここに来て一つ課題が出てきた。銭が無くなって来たのだ。金や銀はある。銭が無いのだ。


この時代、巷で流通しているのは宋時代の古銭や永楽銭と呼ばれる明の通貨だ。永楽銭は織田信長が旗印にして有名な銭だが、人夫たちに日当を渡す度に蔵の銭が減っていった。金や銀でまとめて渡す方法もあるが使い難くて人夫達が困るだろう。


蔵の銭が枯渇するのを避ける対策として、堺に出入りしている貿易船等に特産品を売って上方の永楽銭を吸い上げている。堺の享禄屋からは、特産品の販売で相当の永楽銭を手に入れていると報告があった。順次駿河に運ばれるだろう。


だがこれは対症療法に過ぎない。貨幣経済が急速に発展しているこの時代、貨幣が圧倒的に不足している。そもそも、永楽銭の様な銅銭だけでなく、金や銀にも国産通貨が無い。延べ棒や粒の秤計算で取引されている。


武士に取って銭は賎しいものらしい。日明貿易で大儲けしている大内家でさえ、現当主の大内義隆が幼少期に銭に触れようとした折りに守役に叱られたらしい。当主になる者がそのような汚れに触れるなとな。そんな考えだから幕府も通貨鋳造といった施策に取り組まない。動いたところで力がないからどこまで出来るか分からぬがな。


その点、織田信長は大したものだよ。早くから銭の価値に気づいて旗印にまでしてしまうのだから。まぁ銭の理解については俺も恵まれている環境だ。祖父の氏親が砂金を使って朝廷や幕府を上手く使っていた。父の義元も出家時代の経験か、雪斎の教えか分からないが、金が無ければ何も出来ないことをよく分かっている。俺の銭稼ぎは褒められる事はあっても叱られる事は無い。


これは…そうだな……。作るしか無いな。商家や朝廷がどのような反応を示すか不透明だが無い袖は触れぬ。幸い峰の澤は銅山でもある。銅は採れるのだ。永楽銭と同じような意匠で価値も同等、申し出があれば今川が同量の永楽銭と取り替えるとでもすれば混乱は避けられるだろう。


甲斐の武田は既に甲州金と呼ばれる独自通貨を作っているはずだ。今川が作ってもおかしくはない。だが今川は足利一門だからな。幕府に無許可も不味いのか?雪斎に意見を求めるか。


雪斎だが、三月の三河出兵後、三河国の額田郡小豆坂で織田勢先鋒・織田三郎五郎信広と激突した。野戦観察した荒鷲からの報告によれば、信広は兵力が少ないことを認識して防戦に努め、一瞬の隙を狙って攻勢に出た。押され続けていた織田がいきなり反転攻勢に出て来て今川勢は混乱し、一時は敗走しかけたらしい。


だが最後は雪斎が配置していた伏兵が機能して織田を押し返した。織田弾正忠信秀は信広を安祥城に守将として配置して撤退した。岡崎城の西側に矢作川と呼ばれる大きな川があるが、今はこの川を挟んで西の安祥城、東の岡崎城でにらみ合いを続けている。


織田信広と言えば、織田信秀の庶子で信長の兄にあたり、信長に謀反を起こした後に降伏して、そのあとは可もなく不可もない並武将という認識だったが、結構な猛将だったんだな。

今川家中でも信広侮り難しと声が上がっている。


戦線はしばらく膠着しそうだ。雪斎は戦後処理が終わり次第帰国する予定と聞いている。

次の本格的な戦いは来年だろうな。ここは膠着状態をむしろ好機ととらえて、別方面を攻めるべきだな。

岡崎の松平が服属しているとはいえ、東三河の全土が今川に服しているわけではない。渥美半島は国人たちで未だに半独立状態だ。先に渥美半島の平定を優先するべきだ。


俺は三河方面の戦いに関心は無いが、渥美半島は別だ。あそこは水源の問題さえ何とかすれば、とんでもない石高になる可能性がある。国人達が治めているということは切り取って直轄地にできるかも知れぬ。

…欲しいな。渥美半島攻めの際は参陣を申し出るか。いや、そもそも攻略案を具申するところからやるか。




天文十七年(1548) 八月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 定恵院




「龍王丸殿。また……御屋形様に上洛願いを申し出たようですね」

久しぶりに龍王丸が会いに来てくれています。龍王丸は複数の所領、月日を経る事に増える家臣の対応、お家の重要施策への関与等多忙のようです。その影響からか、最近では滅多に私や娘たちの所に来ることができません。今日は少し落ち着いたのでしょうか。


「はい。西も東も膠着状態になったので良い頃合いかと思ったのですが、父上にも雪斎にも反対されました。三河が不安定ゆえ認められぬと」

龍王丸が少し残念そうな、仕方ないという顔と仕草をしました。


息子は内政の成果に軍功を加えて、家臣達から畏敬の念を抱かれつつあるようです。大人びた仕草や物言いがそれに拍車を掛け、中には畏怖する者もいるようですが、私の前ではこうしておどけたところを見せてくれます。可愛い大切な息子です。

「御屋形様はあなた様を心配しているのですよ」

「分かっておりまする。だからこそ仕方ないと思うておるのです」


「兄上が上洛される時は私も連れていって下さいね」

長女の嶺姫が龍王丸に願い出た。この子は龍王丸に似て活動的なところがあります。次女の隆姫はいつものように静かにしています。

「その方は物見遊山に行きたいだけであろう。俺は遊びに行くわけではないぞ」

「そんな事ありませぬ!歴史ある洛中の土産屋や菓子屋を視察して府中の発展に活かしたいと思っています」

“ハハハ、お嶺は口が達者だな”

“土産を買ってくるから許せ”

“お隆にもちゃんと買ってくるからな”

龍王丸が娘たちと談笑をしていると夕餉が運ばれてきました。


「また鮎か…お肉が良かった」

嶺姫が呟いた。嶺姫は、龍王丸が以前勧めてきた肉料理を好んでいます。この二人は嗜好が似ているようです。隆姫は私に似たのか肉はあまり好みません。獣だったと思うとどうも気が引ける…。


「斯様なことを申すでない。その方の言葉に料理番は気落ちするのだぞ。事によっては咎められるかも知れぬ。今日の魚は旨かった。次は肉にしようと言えば良いのだ」

龍王丸が嶺姫を諭しています。この子はこうした気配りを覚えるのが本当に早かった。いや、どこで覚えたのだろうかと思う程です。私の代わりに妹たちを叱ってくれています。


「母上もお隆もですぞ。静から聞くところでは、いつも牛乳をお残しになられるとか。身体が丈夫になりませぬぞ」

あら、私や隆姫に矛先が移ってしまった。

下座で侍女の静がクスクスと笑みを浮かべています。


「申し訳ありませぬ。牛の乳を飲むと牛になると言いますし……。どうも気が引けるのです」

「本当に牛になるのならば、某などとうになっておりまする。安心して召し上がって下さい」

息子が心配してくれている。確かに、牛の乳も気にせず飲む嶺姫と、ほとんど口にしない隆姫とでは身体の線が違う。隆姫は私に似て線が細い。龍王丸に至っては年の頃の子達に比してかなり大きく思えます。

「お魚を頑張って食べますので許してください……」

隆姫が龍王丸に許しを乞うています。隆姫がこういう仕草をするととても愛らしく見えます。本当に皆可愛い私の子供達です。


御屋形様もいらっしゃればいいのですが、生憎領内を視察していてしばらく館にいらっしゃいません。また家族が揃って団欒できるのはいつになるでしょうか。十月に予定されている月見まで無いかも知れません。

この戦乱の世において、こうして子供達と楽しい一時を過ごせるだけでも私は果報者なのでしょう。ずっとこの時間が続いて欲しいと心から思います。



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