第十二話 狐橋の戦い




天文十四年(1545) 八月中旬 駿河国富士郡狐橋 武田軍本陣 武田 信繁




今川と北条が槍部隊で交戦し合っている。消極的な戦いだ。どちらも兵を失わないよう形ばかり掛け合っているようにも見える。

「左馬助、予想通りだな。北条は形ばかりの後詰めを出している。ここは今川の勝ちだ。長久保城辺りまで今川が押したら和睦を仲介するのがよかろう」

「そうでござりますな。どちらも刈り入れ前に落とし処を探しているはず。第三者たる武田の仲介を欲しておると思いまする」

御屋形様に応えると、横に控えている勘助も頷いた。昨年駿河から流れてきた浪人だが兵法に詳しい。家中で一部反対があったが、御屋形様が少なくない禄で迎えた。今のところ的確に助言をしてくれる存在だと思っている。


しばらくすると今川勢の動きが慌ただしくなった。

「今川の動きが慌ただしいな」

ぼやくように御屋形様が呟いた。“そうですな”と相槌を打っておいたが……。確かに動きがどうもおかしい。本陣を畳んでいる?


「……馬印が前進している!?…まさか!?もしやこれは総攻めの動きでは無いのか?」

御屋形様が声を荒げた。

「確かに!中央の本陣だけでなく両翼も前進しておりまする!これは力攻めの動きでございます!」

どういうことだ。皆が驚きながら前線を眺めている。


「御屋形様。恐れながら申し上げまする!今川は北条と長期戦を覚悟したのかも知れませぬ。某の読みが甘くござりました!」

戦況を眺めていた勘助が申し訳無さそうに頭を下げた。

「ここで北条を大きく叩いて、和議を有利に進めようとしているだけではないのか?」

「いえ、ここで叩く程度ならば富士郡と駿東郡の旧領をやり取りする交渉となるだけでしょう。条件はさほど変わらぬと存じまする。それならば血を流す必要はありませぬ。なれど東に攻め続けるのであれば、韮山、熱海まで落とせば伊豆が手に入りまする」

勘助の言葉に、陣内が更にざわついた。

「だがそれでは刈り入れには到底間に合わないだろう。場合によっては冬を越す長期戦になるぞ」

教来石民部少輔が話に入ってきた。他の重臣も頷いている。民部少輔はまだ若いが、御屋形様の初陣から共に戦っている強者だ。


「はっ。だからこそ今川は長期戦を覚悟したのだと思いまする。刈り入れの対策も兵糧の対策もついておるのでしょう」

「ならばなぜ我らに仲介を願ったと言うのだ?独力で戦うのであれば不要であろう」

民部少輔が納得していないとばかりに食い下がった。

「それは北条を油断させるためかと。北条も今の今まで今川が総攻めしてくるとは思っておらなんだと思いまする」

確かに、勘助の読みを正とすると辻褄があう。ならば我らは今川にまんまと利用されたということか!

今川勢が全軍で北条を押し始めた。中央の圧力が強い!損害を無視した総攻めだ。北条も対抗しているが押されている。これでは長く持たない!


「御屋形様!一刻もはやく今川へ使者を出し、和睦の仲介をすべき…」

“御免!”儂の言葉は急いで陣内に入ってきた使い番に遮られた。


「火急の用にて申し上げます!今川様の陣より御使者として雪斎殿がお見えでございます!」

早いっ!してやられた!これでは我らが和睦を促すという事実が作れぬ。

「お通しせよ」

御屋形様が使い番に指示を出された。会わぬ訳にはいかぬ。雪斎殿ともあろう方だ。我らが欲するような話はしてくれまい。もう終局までの道筋が見えていよう……。


「失礼致しまする」

雪斎殿が御屋形様の前に進まれた。臨済宗の高僧で在られるが、戦場にあるせいか修行僧のような格好…あれは常衣といったか。漆黒の格好をしている。

「これはこれは雪斎殿。よくぞ参られた。戦の最中に如何された」

御屋形様が先ほどまでの喧騒を忘れさせるような穏やかさで応じた。

「武田勢の圧迫のお陰もありまして、我が今川が優勢に戦を進めております。我が主は武田殿のお力添えに感謝しておりまする。ささやかではございまするが、ここにお礼を持参致しました」

雪斎殿の後ろから甲冑を着ながら三方を持った兵が二人現れ、御屋形様に献上した。


御屋形様と雪斎殿が目を会わせる。雪斎殿に促されるように御屋形様が三方に乗った小さな風呂敷を広げた。

“おぉっ!”と陣内の将から声が上がる。金塊だ。小粒ではあるが、両方の三方にぎっしりと金が盛られている。

「三貫ずつ、合計六貫程ございます。残りは戦が終わり次第追ってまたご挨拶に伺いましょう」

冷静そのものの物言いで、雪斎殿が御屋形様に述べた。

「我らはもはや不要ということでござるか」

「不要等と…。十二分にお力添え頂き申した。刈り入れが近づく中、これ以上お力添え頂くは忍びないと我が主、治部大輔は申しております」

本当に忍びないという顔で雪斎殿が述べた。

「分かり申した。お気持ち有り難く頂戴致す。治部大輔殿に良しなにお伝え下され。貴軍の活躍を祈っておりまするぞ」

ここまで言われ、手土産まで用意されては引かざるを得まい。



雪斎殿が帰ると、“今川殿は気が利く”、“豪気だ”などと声が上がった。嗜めようとも思うたが、分からぬものから見れば、武田は同盟に基づいて威力出兵をし、その謝礼を得た。それも多くを。御屋形様の決断で武田に富を作ったと言える。これで求心力が上がったと思うしかあるまい。むしろ其の程度しか今回の果実は無くなった。


背を気にしながらの信濃攻めか…。後で御屋形様や勘助と軍議だな。

今川治部大輔義元……。ただの公家被れではないな。今回の差配が誰を中心に行われたのか草を使って調べなくてはならぬな。必要ならば駿河の先代様を使うか。




天文十四年(1545) 八月中旬 駿河国富士郡狐橋 今川本陣 今川 龍王丸




“申し上げます!右翼、孕石主水佑様の部隊が北条の守りをこじ開けましてございます!孕石様は引き続き敵を押し続けるとの由!“

“よし!勝てるぞ”と本陣にいる武将たちから声が上がった。

「あい分かった!朝比奈備中守!本陣の千を率いて主水佑に合流し、右翼から一気に北条を崩せ!これで決めるぞ!使い番は主水佑にその旨を伝えよ!」

「ははっ!北条に目にものを食らわして参りまする」

朝比奈備中守が意気揚々と陣を出ていった。


俺は使い番の若者に対して、竹筒に入った薄い塩砂糖水を渡して点数稼ぎだ。“汗をかくと水分を取らぬと倒れる。疲れてると思うがこれを飲んでもう一踏ん張り頼むぞ”と渡すと、感激した顔で受け取り、右翼の陣へ向かっていった。


戦は今川が全力で攻勢に出たことで、北条が押され始めている。敵の左翼が崩れた。義元が的確に判断して増援を送った。中央も今川の本陣がかなり押している。勝負あったな。初陣で本格的な戦さを見ることができたのは良かった。


ただ、本音を言えば先ほどからか・な・り気持ちが悪い。総攻めによってあたりは怪我人が増えてきた。死体も転がっている。先ほどは随分遠方の上、敵兵であったものの、ストーンと綺麗に首が飛ぶ瞬間を見た。3D映画かと思うわ。


グロテスクさは救命病棟◯◯時といったテレビ番組の比ではないな。まぁ二十一世紀の日本に首の無い死体なんてそうそう無いからな。

昨日から食事を抜いておいて正解だった。いつも通り食べていたら間違い無くリバースしてたな。


家督を継ぐ者がリバースするなんて格好が付かない。もしそうなっていたら、それをまた体内に戻すために飲み込んでいるかもしれない。リバリバってカードゲームじゃないんだから。

さて、次は城攻めか追撃か。北条の崩れ方次第だが…。




天文十五年(1546年)一月下旬 相模国足柄郡箱根 早雲寺 今川 龍王丸




寒い。暖房器具がないからなのか、小氷河期と呼ばれる戦国時代が寒いからなのか分からんが、こちらの冬はとにかく寒く感じる。只でさえ前世から寒がりだったのに、さらに寒いこちらの冬の、それも雪の中を行軍するのは凍える。俺は陣の留守を守ると言ったのに!義元が一緒に来るように言うから供をすることになった。雪をかき分けながら和睦交渉の場となっている早雲寺を目指す。


狐橋の戦いは今川の大勝利となった。北条勢は総崩れし、散り散りになって後退した。我らは余勢をかって興国寺城を攻め落とした後、伊豆方面への南下か、東へ進むか意見が別れた。俺は軍を三隊に分け、北東の御殿場方面に四千、東の熱海方面に本隊四千、南の韮山方面に二千とし、南は韮山城前まで、南以外の二方面で速やかに、かつ全力で進むべしと進言した。進言が取り入れられて、北は足柄城まで、東は湯河原まで攻め落としている。兵力が手薄な韮山方面は韮山城を前ににらみ合いを続けている。


韮山城は北条幻庵を守将として千五百の兵が籠っているらしい。元々千程度しかいなかったが、狐橋の落伍者を吸収したようだ。伊豆介から適宜報告が来ている。


俺はというとずっと本隊にいて戦況を見ていた。本隊の攻勢は、駿・相の国境を越えた辺りで年が開け、雪が強くなったので湯河原に陣を構えて停止している。


冬の陣となったが、着実に前進していることもあって軍の士気は高い。本陣にいる重臣の中には、このまま小田原まで攻めると言っている者もいるくらいだ。さすがにそれは難しいだろう。我らは三河方面にも戦場を抱えている。よしんば小田原を落としたとしても、北条はまだ東に領土を持っている。東に進み続けなくてはならない。どこかで切り上げる必要がある。


そうしている内に北条と水面下での交渉が始まった。感触は悪くない。最低限の確認をして、具体的なことは早雲寺で行うことになった。この寺はまだ敵の防衛ライン内だ。そのため二千の兵とともに行くこととなった。


早雲寺につくとすぐに本堂へと案内された。まだ三十歳くらいの精悍な顔立ちの武将が鎮座していた。氏康かな?戦国大名人気上位の偉人に会うことにテンションが少しばかり上がった。


「わざわざお越しいただいて申し訳ない。北条左京大夫でござる。こちらは覚があるかもしれぬ。今は北条一門だが元は福島の出の刑部少輔でござる」

「冬の行軍は堪えるが北条殿にも事情があろう。構わぬ。余が今川治部大輔でござる。これは嫡男の龍王丸だ。刑部少輔か。いつぞやは世話になったな。兄弟がいただろう。息災か」

シーンとした冷たい空気が流れた。刑部少輔が居づらそうにしている。

福島と言えば、義元と異母兄の玄広恵探が当主の座を争った花倉の乱で玄広恵探側についた重臣の一族だ。ということは北条綱成か?某ゲームで戦闘力無双の猛将じゃないか。見た目は優男のイケメン君だが…。ん?綱成はこの時期だと河越で山内上杉の大軍と戦っている最中じゃないか??

「…兄は今河越におりまする。某は兄左衛門大夫綱成の弟で綱房と名乗っておりまする」

気まずそうに綱房が口を開いた。そうか、弟クンか。少し残念だなと不謹慎な事を思った。

「龍王丸にございます。お会いできて嬉しゅうございます」

戦国の名君、北条氏康に会えた喜びを込めて笑顔で挨拶した。義元の嫌味で出来た冷たい雰囲気も消えたと思う。氏康は少し戸惑った顔をした後、にこやかに応じた。

「さて、本日お越しいただいたのは他でもない。当家は今川家と和睦したいと思っている」


「……条件は?」

少し間をおいて義元が問いかけた。

「韮山以南の北条領は明け渡す。代わりに今川家が相模において占拠している地域はお返し頂きたい。その上で伊豆と相模を国境とするはいかがか」

悪くない条件だな。はじめから正直にカードを切ってきた感じだ。ほぼ下準備のすり合わせ通りでもある。義元がどうするか目で問いかけてきた。予め思うところを発言して良いと言われている。そのために連れていくとも。

どれ、ちょっと勿体ぶって吹っ掛けてみるか。こっちは破談になってもいいんだ。


「概ね同意できる条件かと。ただ、一つ付け加えたき条件がございまする」

「何事か」

警戒感を露にして氏康が応じた。

「ここで和議を結んでは、長期戦に備えて仕入れた兵糧が無駄になりまする。それ故に、我らが仕入れた兵糧を北条様に買って頂きとうございます。兵糧が無くては戦に成りませぬ。これは和議の印にもなりまする。それに北条様にはまだ兵糧が入り用でしょう」

予想外の提案に、さすがの氏康も苦笑している。“今の相場で構わぬゆえ”というと、氏康がついに笑いだした。綱房は困った顔だ。

「ハッハッハッ。すまぬ。面白き提案だと思うてな。よかろう。今の米は相場が常の三倍になっておるが和睦の印として買おう。兵糧が入り用なのも確かじゃ」

「ありがとうございまする。ならば取引が成立次第撤兵致しましょう」

義元に同意を求めると“うむ”と応じた。

「失礼を承知で言えば、今川殿がこれほど全力で来るとは思わなんだ」

心情を吐露するように氏康が言った。

「河東には些か思い入れが強くてな。取り戻せて良かった」

ちょっと!大勝したからと言って余り刺激するようなこと言ってくれるなよ。伊豆まで手に入ってテンションが上がってるのは分かるけどな。

「勝敗は兵家の常。たまたま我らに運が味方したのかと存じまする。今後の北条様のご武運を祈っておりまする」

フォローの相槌をうつと、綱房が感心したように頷いた。氏康も心なしか俺を熱い目で見ている気がする。


その後は細かな事務レベルの調整を少ししたあと、誓約書を作成することになった。

早雲寺の住職が誓約内容を記した誓紙を二枚筆で書き、両当主が花押を入れる。早雲寺の角印で契印をして完成だ。


史実での河東よりもかなり良い形で終わったな。駿東郡と富士郡に加えて伊豆も手に入った。兵糧もかなりある。売り付ければ大儲けだ。義元からおひねりをもらって開発にあてよう。




天文十五年(1546年)一月下旬 相模国足柄郡湯河原村 北条勢本陣 北条 綱房




遠山甲斐守殿が幕内に入ってきた。

「殿、今川からの兵糧買い付けが無事に終わりました」

「左様か、量はどの程度になった」

「はっ、一万の兵が半年は動ける量がございました。蔵の金がかなり無くなりましたぞ」

甲斐守殿の報告に幕内の将が皆驚いている。それにしても半年分か……。領内へ持って帰る分もあるだろうから、かなりの用意をしていたと言える。

「滅んでは蔵の金も使えぬ。使うべき時に使えたと言うものよ。これより河越へ向かうぞ。よいな」

殿のお言葉に皆で頭を下げて応じた。


皆が自分の隊を引率しに幕を離れ出した。さて、某も向かうとするか。

「刑部少輔」

殿に呼び止められた。

「思いの外強かったな。ここまで敗けるとは思わなかったぞ」

苦笑いを浮かべながら殿が仰せになった。

「我らも驚いておりますが、武田も同じでしょう。我らと今川に恩を売りたかったはず。今川が上手でしたな」

「その今川よ。誰が動かしたのか……。治部大輔殿か、雪斎殿か、はたまた龍王丸殿か」

「龍王丸殿は…たしかまだ八つだったかと……。」

「あり得ぬと申すか?早雲寺での堂々とした物言いと気配り、とてもただの童とは思えぬ。条件もすかさず足してきた。和睦の証左などと言いつつ金儲けになる条件をな」

殿はどこか楽しそうだ。

「もし龍王丸殿が差配していたのならば末恐ろしきですな」

「そうよ。あれは大きゅうなったら化ける。将来に龍王丸殿と我が娘とで縁談を結ぶのも悪くない」

殿は真剣に縁談をお考えのようだ。

「まずは関東をどうにかしなくてはなりませぬな」

楽しげだったお顔が曇った。いかん、水を指してしまったか。

「そうだな。敵は大軍だからな。お主の兄者殿が大軍を前に頑張ってくれている。助けに行かなくてはならぬの。敵は八万と号しておるようじゃ」

「戦となれば、敵が如何程おろうとお家のため全力で戦いまする」

福島は今川を追放された後、北条に拾っていただいた。先代氏綱公は兄と某を気に入ってくださり、一門にまで取り立てて下さった。兄は先代の姫君と婚姻までしている。北条のためならこの身など惜しくない。

某の顔を見て“うむ、頼むぞ”と殿が頷かれた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る