第十一話 初陣




天文十四年(1545) 八月上旬 駿河国富士郡吉原村 善得寺 武田 信繁




「これはこれは大膳大夫殿。よくぞ参られた。今川治部大輔でござる」

きらびやかな鎧を着た若武者が出迎えた。 その後ろには雪斎殿と童と言っていい位の子供がいた。

「なんのなんの。治部大輔殿、こちらは弟の左馬助でござる。よしなにお頼み申す」

兄の御屋形様が頭を下げられたので、俺も同じように頭を下げた。

「左馬助殿、治部大輔だ。よしなに頼む。こちらは雪斎と息子の龍王丸だ」

「こちらこそよしなに願いまする」

嫡男の龍王丸殿か。紹介を受けて頭を下げる童を、俺だけでなく御屋形様も関心をもって見ていた。まだ十の手前といったところだろうか。体つきは大きい。


駿河は海産物が豊富で気候も穏やか、大きな戦乱もなく豊かな国だ。その駿河が龍王丸殿の手腕により一層豊かになってきていると草の報告にあった。実際、駿河から甲斐に流れる特産品の種類が明らかに増えている。


武田では、奨励施策の成果もあって金の産出量が増えている。ただ、増えた金の多くは駿河に流れている。塩、茶、綿、石鹸、駿河細工と枚挙にいとまがない。戦が起きれば、武田は米等の兵糧も駿河経由で買うことが多い。

金の流出は武田にとって大きな課題だ。


武田でも治水工事を行う等して石高の向上に努力している。我らも年を経る毎に発展している自負があるが、今川のそれは桁違いだ。それをこの童が成しているとは驚きを禁じ得ない。


挨拶を交わしたあと、寺の奥にある広間に案内された。

床机が置いてある。甲冑姿にはありがたい。部屋には甲冑姿の治部大輔殿と今川の重臣、それと狩衣姿の龍王丸殿がいる。


「これより当家は吉原城攻めを行う。まもなく相模より北条の本隊も出張って来るだろう。大膳大夫殿には援軍として武田勢を率いてお越し願いたい」

治部大輔殿が御屋形様に依頼された。足利一門という名門の自負だろうか。依頼とは言っても要請に近い。


「今川殿は大事な盟友。国に戻り、すぐに手勢を率いて参りましょう」

謙虚に申された御屋形様の申し出を受けて”うむ”と治部大輔殿が頷いた。武田は信濃攻めに忙しい。本当は援軍に出るのは気が進まぬが、後顧の憂いを絶つためにも今川に恩を売っておく必要がある。今川が一押しして北条と和議を結んでくれれば万々歳だ。それも武田の仲介でな。無論、そのような事を考えているなどとは見せないが。


当主同士のやり取りを横にして、龍王丸殿は全く動じていない。ほとんど無表情だ。あれだけ内政で近隣に名を轟かせているのだ。話の中身が分からぬということも無かろうが…。もしや我らの魂胆を図っているのか……?いや、今のところ武田の申し出に不信な点は無いはずだ。買い被りすぎだろうか。まったく不気味な童よ。


今川の兵力は駿河と遠江を中心に一万といったところか。尾張、三河にも火種を抱えているから三河の兵は動かすまい。北条は相模を中心に、本隊が六千から八千といったところだな。兵力が今川より少ない上に、後ろに上杉を抱えて気もそぞろな北条が圧倒的に不利だ。


武田としては信濃方面に抑えの兵を置いても、短期であれば三千か四千は動かせる。その兵を今川の陣の近くに布陣させ、今川が北条をひと叩きしたところで講和の仲介だな。何といってももうすぐ刈り入れだ。面子が保たれるのであれば、誰も長期戦は望んでいまい。丸く収まるはずだ。


今川と北条に恩を売りつつ背を磐石にする。ククク、俺も兄上も悪よの。居丈高な治部大輔殿に別れの礼をしつつ、今後の事を考えて溜飲を下げた。




天文十四年(1545) 八月中旬 駿河国富士郡吉原村 今川本陣 今川 龍王丸




“わーわー”

“かかれぇー”

所々喧騒の聞こえる中、今川と北条の戦いを眺めている。遠くには武田の旗が見える。武田は機を見て打ってでるとか申して、北条勢に対面するものの戦には加わらないらしい。虫のいいやつらよ。義元は頼りにしているというか、利用しているつもりのようだが、これは完全に利用されているな。山本勘助の策か?善得寺ではいけしゃあしゃあと響き良いことを言う晴信を見て、無表情を装うのが精一杯だったわ。若いのに立派な狸だったな、あれは。さすがは将来の信玄だと思った。


戦は今川一万と北条七千が正面でがっぷり戦っているように見える。だが実情は生ぬるい交戦だ。ずるずると北条が少しずつ後退しているのが分かる。槍を形ばかり交差しあっているだけだ。


北条としては、吉原城が今川に攻められたので後詰めを出したが、関東では関東管領の山内上杉に攻められている。兵を失いたくないのだろう。かといって後詰めを出さないのは家臣の忠誠が一気に離れる。形式的な戦だなこれは。そういう意味では、今川は攻めるべき時に攻めることができていて、勝てる戦をしていると言える。だが…


「ぬるいな…」

「龍王丸さま、いかがされましたか」

隣にいた雪斎が、つい漏らした俺の独り言を受けて顔を向けてきた。

「攻めが手緩い。北条の動きは明らかに消極的な後詰めだ。ここは総力をもって攻め押し、敵を叩き潰すべきだ」


俺が語気を強めていうと、血気盛んな若者を諭すような語り口で雪斎が話し出した。

「龍王丸さまのおっしゃる通り、北条は形ばかりの後詰めを出しております。ここで力攻めせずとも今川は勝利し、吉原城は近く陥落するでしょう。むやみに兵を失う必要はありませぬ」

眼光鋭く雪斎が俺の目を見て返してきた。本陣の中にいる義元や重臣も、戦場に目線を置きつつ、俺たちのやり取りを聞いている。

「それがぬるいと言っておるのだ。この戦の目的はなんだ。吉原城を取ることか?富士郡を取ることか?」

「吉原城を取ることであり、富士郡を取ることであり、駿東郡を取ることであります」


「ではそれをどのようにして成そうと思っているのだ。攻めとるのか、和議をしようとしているのか」

「ここで一押しし、和議に持ち込むつもりでございまする」

雪斎は"言わずもがなだ"といった口調で答える。だからそれが温いと言うんだ。気を悪くするなよ?

「北条が和議に応じるか否か、それは誰にも分からぬ。北条左京大夫にしかな。左京大夫とて迷っておろう。北条は関東に上杉を抱えて苦しいはず。これは事実だ。だが苦しいから和議に応じるだろうというのは希望的観測に過ぎない」

雪斎の眉がわずかに動いた。

「…では龍王丸さまは如何様にすべきだと?」

「総力をもって北条勢を叩いて押し返し、その勢いで吉原城を攻め落とす。これは今の兵力差と士気の差から可能だろう。その後は東へ進み、韮山城を攻める。これもこの狐橋で勝てるなら続けて勝てる戦だ。和議はこの時に交渉だな。北条が和議に応じるなら伊豆と相模を国境とし、伊豆を差し出させる。応じぬなら韮山を拠点として北からの北条に備えつつ、南下して伊豆を切り取る」


「…龍王丸さまの意見は、取りうる策であれば取りたいものです。なれどできぬ理由がありまする」

「刈り入れと申すのであろう」

分かっているならよろしいと言った顔で雪斎が応じた。

「左様。今は八月の半ば。我らも北条も短期に戦を終わらせなければなりませぬ。これは龍王丸さまの申される言でいうところの”事実” 。刈り入れ時に国へ帰れぬとなれば、我らの兵の士気も下がりまする。兵糧も心許なくなる」


「そうなると思うてな、兵糧は戦前に堺から買い付けてかなりの量を用意してある。刈り入れも駿河に残してきた我が兵を使えば良い。この一月は稲刈りの訓練しかしておらぬ」

雪斎が少し驚いた様子で俺の顔を見ている。説得の時や今だな。


“御屋形様”

義元の方を向いて、あえて仰々しく呼んだ。

「兵糧も用意しておりまする。刈り入れの用意もしておりまする。武田へ仲介の慰労金が必要ならば用意致しまする。ここは多少の損害を出してでも力攻めすべき時です。北条は刈り入れの時期ということと、関東に敵を抱えているということから、今川は足元を見て交渉に持ち込んでくると思っているでしょう。まさか全力で、それも長期戦を仕掛けてくるとは思いますまい。敵の裏をとってこそ大きな勝利がございまする。その勝利に必要なのは、あとは御屋形様のご決断だけにござりまする」

義元は急に話を振られて少し逡巡している。


「…雪斎はどう思う。問答の続きであっただろう」

義元が雪斎に問いかけた。

「龍王丸さまが兵糧、刈り入れという二つの問題を解決なさっておいでならば、仰せの通り攻勢に出るのが良かろうかと。武田に借りを作る必要もありませぬ。金を払って精算しておきましょう」

さすがは雪斎だな。自分の意見を否定された後でも、冷静に状況を分析している。


しばらく遠くを眺めて考えていた義元が俺たちを見た。

「あい分かった。ならば北条を全力で攻めることとしよう。その後は吉原、韮山だ」

義元の宣言に“ははっ”と 陣の中にいる将たちがかしこまった。


「…龍王丸、ほかにあるか?」

義元が俺に問いかけてきた。気のせいで無ければ、にんまりとした顔をしている。

「本陣を前に出しましょう。御屋形様が前線に出られれば将兵の士気も奮い立ちます。それから、総攻めが始まって我が方が押し始め次第、武田に使者を出しましょう。武田の使者が来てからでは向こうを立てなければなりませぬ。なれどこちらが先に話してしまえば構いませぬ。武田勢の圧迫もあって我が方の優勢に進んでいる、後は今川だけで何とかなるゆえ礼金をもって参ったとでも言って、お引き取りを願いましょう。これならば武田の顔も立てつつ、借りを作ることもありませぬ」

「良きご思案。龍王丸さまの策にこの雪斎も同意致しまする」

「分かった。龍王丸…中々の軍略であるな。大儀であるぞ。勝利の暁には褒美をくれてやる」

「はっ、お褒めに預り恐悦至極にござります」


義元の下知をもって本陣が慌ただしく動き出した。使い番が最前線の陣に向かって次々と出ていく。俺も配下の者たちに指示を出す。

「上野介。その方は府中へ戻り、井伊彦次郎、平次郎と共に親衛隊を指揮せよ。必要に応じて隊を分け、効率よく刈り入れを行うように。伊豆介は今川が長期戦を覚悟していると相模で噂を流せ。米も買い付けよ。高値でも構わん。相模から米を吸い上げるのだ。内蔵助は用宗に向かい、権大夫に伝えよ。用意しておいた兵糧を水軍で田子の浦湊へ運ぶようにとな。少納言とも連携して兵站が枯渇せぬよう長期戦の体制を万全にしておくようにせよ。そうだな、半年の出陣を見越しておけ」


指示を出すと、皆が”はっ”といってかしこまった。上野介が少し寂しそうだ。まぁそうだろうな。この年頃で戦場を前に稲刈りに向かえと言われれば残念にもなろう。後でしっかり文を書いて労おう。

本陣の解体が始まった。もうすぐここも戦場だな。左京大夫のお手並み拝見と行こうか。




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