第十話 動員令




天文十四年(1545) 五月下旬 山城国葛野郡 山科邸 草ヶ谷 之長




「内蔵頭様におかれましては、ご健勝のこととお慶び申し上げまする。此度は主命により都を離れることとなりましてご挨拶に伺いました。在京中には色々とご配慮頂きましてお礼申し上げまする」

平伏すると、ほほほと笑いながら内蔵頭様が話された。

「なんのなんの、麿は大したことはしておじゃらぬ。そちが離れること、龍王丸殿から文で知らされておったがさみしゅうなるの」


そこまでお聞きであったか。内蔵頭様には冷泉権大納言や尼御台様のご紹介を通じて色々とお世話になった。龍王丸さまも礼状をお書きになっていたので、それから定期的に文のやり取りがあるのだろう。

“ささやかではありますが… ”と包みをお渡しした。

「ほほほ、今川は……いや、龍王丸殿と言った方がよいかの。先日も龍王丸殿に色々ともろうたのに豪気であるの」


手ぶらでお会いするつもりはもとより無いが、この手土産も龍王丸さまのご指示だ。我が主君は根回しや心配りを大事にされる。内蔵頭様との繋がりを大事にされて幾度も包まれるのだろう。贈り物をされていやがるものもいまい。

“さてさて……”

寛いで話されていた内蔵頭様がおもむろに姿勢を正された。


「実は龍王丸殿から、その方に官位を用意することも頼まれておじゃってな、任官の件、無事に手続きが済んだぞよ」

「……!」

そのようなことが……。龍王丸さまからの文には何も書いてなかったが…。父上も突如として知らされたと驚いておじゃったから此度も同じかもしれぬ。龍王丸さまは人を驚かせることがお好きだ。

「龍王丸殿からはその方に適当な官位をとだけで、希望は無かったのでな、麿の方で決めさせてもろうた。正六位下内蔵助じゃ」


……内蔵助か。さすがだな。内蔵頭様の強かさを感じた。律令体制が崩壊し、武家が官位を求めて久しい中、官職は形骸化したと言って良い。武家が左京大夫をもらったとて、京など守らぬのだ。その中で、朝廷の財政を司る内蔵頭を支える内蔵助を麿に与えると言うことは……。


「ありがたくお受け致しまする。家臣の身ゆえ微力となるかと存じますが、尊皇の念を持って朝廷をお支え致したいと思いまする」

我が意を得たりとばかりに内蔵頭様がお笑いになった。

「ほほほ、今川の主君は大樹であり、大樹の主君は主上でおじゃる。忘るる事なきよう頼むぞよ」

平伏してお応えすると、少し間があってから内蔵頭様が問い合わせてきた。


「ところで高辻には出向いたのでおじゃるか」

「…いえ、まだでおじゃります。今さら麿のような枝葉が挨拶に伺ってもご迷惑かと」

これは本心だ。百年以上前に都落ちした遠い一族が急に来ても高辻は迷惑だろう。それに利用されるだけだ。

「そうでおじゃるか」

こちらの気持ちを察したようなお顔で卿が息をはいた。


「もはや我が家は今川と共にあります。家司から堂上家になられた例もありますれば、我が家の生き方はそれにならうかと」

宮家や摂関家の諸太夫が公卿になることは先例としてある。公卿でもない今川とともに昇るのは難しいかも知れぬ。だが高辻が何かしてくれるとも思えぬ。我が家は高辻ではなく草ヶ谷として、今川と共にあるのだ。


「ほほほ、山科は今川とは縁戚じゃ、此度は嫡男の重臣とも官職でつながった。期待しておるぞ。龍王丸殿にもよしなに伝えてくりゃれ。いつか会いたいの」

「必ずや。我が主も同じ気持ちかと思いまする」

内蔵頭様は公家にも大名にもお顔が広い。親しくしておいて損は無い。帰国したら礼状を書くとしよう。




天文十四年(1545) 六月上旬 三河国幡豆郡 西尾城 吉良 義安




「今川家臣、草ヶ谷内蔵助と申します。此度はお目通りがかないお礼申し上げます」

「うむ。面を上げられよ。此度はよく参られた。儂が東城吉良家当主、吉良上野介だ。こちらが儂の弟でもあり、西城吉良家当主の吉良左兵衛佐殿だ」


お初にお目にかかりますると内蔵助殿が言いながら頭を下げた。十代の後半だろうか。まだ若い男だ。それでも儂より五つか六つは歳が上だろう。珍しい格好をしている。これは…そうだ、布衣だったな。格好のおかげも加わってか、ひどく落ち着いているように見える。

「西と東、両吉良への大事な話しとのことで人を集めたが何用であるか」


内蔵助殿から少し前に突如文が来た。西と東のご当主にお会いしたいと。間をおかずして今川当主とその嫡男からも文が届いた。使者を派遣するので会って欲しいと。

今川は吉良からの分家であるが、今や日の出の勢いだ。この三河においても勢力を拡大している。その使者とあらば会わぬわけにもいかぬ。


儂も弟も親兄弟の多くを戦で亡くし、若年で当主になった。それ故に、今回は東西吉良それぞれの重臣も帯同して話を聞くことにした。いつもは広く感じるこの部屋も今日は手狭に感じる。


「今日は今川への服属を勧めに参りました」

なんと!無礼な!!と重臣たちから声が上がった。

「ご無礼を承知で申し上げますれば、今や吉良家単独で生き残るのは難しゅうおじゃります。西の織田、東の今川、このどちらに付くかが肝要かと。分家の今川に膝をおるのは屈辱かと存じますが、では織田に付くのがよいかと申せば然にあらず。今川の中でなら、名家としてお取り立ていただけましょう」

臆する事なく淡々と内蔵助殿が話す中で、誰を相手に申しておる!小僧が!と家臣たちが騒いでいる。


今川か織田か。何度も議論してきた話だ。核心になるといつも家臣達は名門吉良が!と吠え出す。うんざりだわ。かといって若年で実績も乏しい儂が強く出るのも難しい。家臣の気持ちを代弁するしかない。


「使者殿には分からないだろう。名門の矜持がな。それに長年戦ってきた我らを今川が取り立てるという確証もない」

諦めのような気持ちを吐露すると、使者の内蔵助殿が柔和な笑顔を浮かべて応えてきた。

「麿の家は菅原家から派生した高辻という家の支流でおじゃります。後醍醐帝の頃までは京にあって宮仕えをしておりました。その後、南北朝の争いになって駿河まで味方を探しに下向し、地場の狩野氏等と組んで今川と対抗しました」

それまで喧しかった家臣たちが食い入るように使者殿の話を聞いている。


「それで?」

先を促した。内蔵助殿の顔が少し悲しげなものになった気がした。

「寡兵よく勇戦力闘するも敗れ、京の本家からも見放され、庄屋の真似事と敵対していた今川から捨て扶持をもろうて食いつないでおりました。官位も僣称になり、百年にわたって惨めな生活を強いられておったところ、龍王丸さまに拾って頂きました。先般、龍王丸さまのはからいにより、朝廷より正式に官位と官職も頂いておじゃります」


なるほど、内蔵助とは妙な官職を名乗ると思ったが、出自が絡んでいたのか。少し低い官職とも思うたが、僣称でないというなら頷ける。

「龍王丸さまは過去にとらわれませぬ。今川のために尽くせば、必ず報いてくださりまする。それは麿が保証致しまする。今川のために尽くすは辛かろうと存じます。なれど家のため、吉良のためと思うてご納得いただけませぬでしょうや」

使者殿が深く頭を下げた。若いが筋が通る話をする。肝も据わっている。一瞬、このような人間に自分もなれるだろうかと思うた。騒がしかった家臣たちも黙って儂の方を見ている。

左兵衛佐も儂を見て任せるといった仕草をした。

よし、ここは腹を決めるか。


「…分かった…。服属しよう。だが今川にでは無い。我らは龍王丸殿に服属をする。内蔵助殿は龍王丸殿ならば過去に囚われないと申された。だから龍王丸殿にならば服属してもよい」

「急ぎ帰国し、我が主にお伝え致しまする」

龍王丸殿の、いや、もう龍王丸さまか。儂とほとんど歳が変わらないのに大変な内政家とお聞きする。領内を誰かに任せることができるならお側でお仕えするのもよいかも知れぬ。




天文十四年(1545) 七月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 龍王丸




父である義元とともに評定の間に向かう。今まで評定の間には別々に行くか、そもそも俺は不参加ということが多かったが、東西の吉良が俺に服属をしてから付き従うことが多くなった。全く、吉良上野介がややこしいことを言うからだ。将来のための繋ぎが出来れば良い程度に思って内蔵助に命じたが、まさか本当に服属するとは思わなかった。


服属だけならまだいい。今川でも、俺に服属をすると言い出した。領内を左兵衛佐に任せて俺の側で仕えたいとも。義元は笑いながら許可を出したが、これまた内心は分からん。家中ではあの名門吉良をお側に仕えさせた!などと勝手に盛り上がっている。皆の俺への評判はうなぎ登りだ。


俺への牽制のためか、俺を従えている姿を家中へ誇示して威を見せているのか、義元の心中は分からん。義元もまだ二十代半ばだ。面白くないと思っているだろう。付き従わせるのは雪斎の入れ知恵かも知れぬ。

腹の探り合いか…。懐かしいな。この感覚。

とはいえ俺は嫡男だ。相当の理由がなければ処断はできまい。まして今は結果を残しているだけで、反旗を翻しているわけでもない。過度な警戒は相手の警戒を生むからな。気を付けていこう…。


…………消すか。


ふと、邪な思いがよぎった。

いかんいかん、暗殺はリスクが大きい。ましてや相手は当主だ。なまじ力を手に入れると思考が短絡的になるな。実害もない今、消すのは悪手だ。自重自重っと。


評定の間につくと、いつもよりも多くの人間がいた。重臣だけでない。これは……大評定の定員だな。家臣たちと向かいあうことになる、いつもの自席に座る。皆の着座を待って義元が話し出した。


「この度、関東管領の山内上杉殿と連携して北条を攻めることとなった。北条に対しては、聖護院や武田を通じて和議を模索したが、北条が拒否して参った。力付くで河東を北条から奪還する。積年の雪辱を果たすのだ!」

おぅ!という掛け声が大きく上がった。

「駿河衆は全軍、遠江衆は東遠の者は出陣、西遠の者は三河方面の抑えとする。出陣は七月二十四日だ。各自準備の上で出陣の三日前には府中入りせよ。出陣前に子細と軍令を伝える。以上である」

義元の号令を受けて皆がかしこまって頭を下げた。


府中入りの期限まで三週間か。少し短いかもしれないが、今川家なら十分な時間だろう。今川の軍制はこの時代にあっては進んでいる方だ。寄親・寄子制度といって、会社で言えば「お前は戦の時はこの課長のところに何人の部下を連れて行け、お前は課長だからこの部長の下な」などと予め定められている。主力が農民を中心とした雑兵というのは他家と変わらないが、機動的に兵を集めて軍事行動が可能だ。通信網が脆弱なこの時代、何をするにも時間がかかる。予め定めておくというのは大事だ。


だが、主力が雑兵だから限界が来る。雑兵は田植えの時期や稲刈りの時期に動かしにくい。今回も出陣が七月二十四日だからすぐに稲刈りの時期だ。明らかに短期決戦を狙っていると言わざるを得ない。前世で大○ドラマを見てこのイベントの回の時に、何でもっと攻めないのか!と思ったが、大きな理由は時期だろうな。


では“なぜこの時期に軍事行動を起こしたか”だが、恐らく和議交渉が北条にずるずると引き伸ばされて、今軍事行動を起こすか、秋の稲刈り後に起こすか、稲刈りの後はすぐに冬になるから春になるまで待つか三択を迫られた。北条は今四面楚歌だ。戦線が一つでも減るのは大歓迎だろう。もう七月だから今年はやり過ごせるかもしれないと高をくくっているかも知れぬ。


史実ではこの後武田勢と合流し、武田の仲介もあって九月に停戦、十一月に富士郡と駿東郡を割譲させて正式な和議を結び撤兵する流れのはずだ。温いな。途中までは良いが、九月の停戦は頂けない。俺も出陣できるよう義元の説得が必要だな。後で会いに行くとするか。




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