第11話 私の名前、なぜ覚えていたの?_後
「初めてだったんだよ、覚えてなぁぃ?」
「う、うん、ごめん」
私がこんな台詞を聞く羽目になるなんて、考えたこともなかった。
月曜日の朝を迎えた。今日からこの職場での二週目にはいる。でも、もうすでに馴染んでしまった気がして、エレベーターに乗ってもフロアを歩いても、どこか他人の家のようで落ち着かない、といった感覚は無い。
これはきっと、夜までみっちりと詰まった濃い時間を、丸々先週の間、過ごしたからだろう。
それと、土日での収穫。これをあとで上手に社内プレゼンして、継続検討のゴーサインを貰うのが今日の目標だった。
荷物を置き、PCの電源を入れるとコーヒーを注ぎに行く。
「さつきさん、おはようございます」
「知恵さん、おはようございます」
「コーヒーは当番制?」
「はい、若手四人で二人ずつ、隔週交代してます」
「そっか、美味しいコーヒーをありがとう」
「はい、そんなストレートな愛も好きですよ」
愛や好きなんて、ドキッとしそうな言葉も、さつきさんが普段の声色で、さらっと言ったので、言外の意味など考えなかった。
でも後になって思えば、もう月曜の朝から何か思うところがあったのかも知れない。
九時になり、担当三人で集まると、今週の大まかな予定と今日の予定業務などを共有し、庶務的な事項も共有を図る。
「えっと、福利厚生のレク券だけど、申込期限が木曜日までだから、忘れないように気をつけてな」
「すみません。どこから申し込むんですか?」
「社内サイトのトップにニュースが表示されてるんだけど、四月一日頃のお知らせを見てごらん」
「はい、ありがとうございます」
「あの、知恵さん、いくつか選択肢がありますけど、TDRのパスポート四枚をお勧めしますよ。私と行きましょう!」
「そうだな、提携旅館割引券とかもあるけど、遊園地がいいかもな」
「よし、あと、その他。言い漏らしとかあるか?」
「はい、今日の午後、相談したい事項があるので、皆さんのお時間をください」
「空いてるとこ、入れてください」
「おお、場所もおさえてな」
「じゃあ、本日もよろしくお願いします」
椅子に座るとさっそく二人の予定をおさえる。
念の為、課長もおさえてメモ欄に概要を書いた。
そして打ち合わせ卓をおさえると、資料の作成に取りかかった。
お昼休みまでの時間はあっという間に過ぎて、途中、電話を数本取り次いだだけで、それ以外は資料の作成に費やした。
資料の体裁は、社内の企画書を模していて、検討項目に過不足は無いと思われ、実施効果と波及効果については、思っている事を素直に書いた。
もちろん、効果に対するデータの裏書きが無いと指摘されればそのとおりなのだが、私の案を叩き台として、精度をあげて完成させれば良いのだと思う。
お昼休みになった。今日は簡単に済ませて、資料作りを続けたい。
岡田さん達にそう伝えて食事に行ってもらった。
そして、大体の資料が完成した時、時間はすでに十三時を過ぎていた。
その終わった様子に気付いた岡田さんに言われて、遅めの食事を済ませると、ふたたび資料作りに取り掛かり、打ち合わせまで没頭した。
時間前になり、編集中だったファイルを閉じると岡田さんとさつきさんに声を掛けて、先に打ち合わせ卓へ行き、準備をした。
そして、二人が揃ったので、打ち合わせの目的と資料の概要を喋り始めた。すると、ちょうどその時、課長も来てくれた。
それでは、資料の流れに沿ってご説明という段になって、なぜか社長がそばに来ると椅子に座った。
「お、お疲れさまです!」
「おう、気にしないで喋って」
そう言われても凄く気になるが、そうも言えず、画面に目を戻すと説明を始めた。
「拡大した現在の会社に関して、一体感を醸成するために、全社員による販売を行うという案がありますが、販売といっても様々なプロセスがあると思います」
そのタイミングで私は皆の顔を見る。もちろん皆、頷きながら私を見返してくれているが、社長だけは腕組みをしながら俯いて目を閉じていた。
「全社員販売として、全員で売り込みをかけるというのも、一つの方法かと思いますが、弊社にはあいにくと個人向け商品が限られています。つまり売り込もうにも商品が無いのです。また、販売経験を持つと、本当に一体感が湧くのでしょうか。相手を思いやる気持ちは双方の仕事を知るほうが良いのではないかと思います」
ここまで喋ってひと呼吸置いたが、社長は寝ているようだ。
「そこでお願いになるのですが、まずは私に販売経験を持たせて頂けないでしょうか。具体的には次のページです」
そこからは鯉などの飼育用具であるポンプをお店と組んで販売し、うんぬんと説明をした。
そしてひと通りの説明を終えると、岡田さんのほうを見た。
「全てが、ほかの社員のひな型になるとは、思わないけど、近藤さんが営業プロセスを知っておくにはいい機会かもな」
「はい、ありがとうございます」
岡田さんが課長を見た。
「良いわよ。早く着手して早く何か見つけて欲しいわ。それと、さつきちゃんを加えて欲しい。いいチャンスだわ」
「ありがとうございます。では、さつきさんの稼働もお借りします」
「藤原さん、いかがでしょう」
課長が呼んだ社長のほうを見ると、いつの間にか腕組みを止め、目も開いていた。
「知恵ちゃんは土日に働いたんだね。楽しんでるみたいだし応援する。ただ、同じ経験を持つ以外に、同じ方向を向くという方法も、一体感醸成に繋がると思うから忘れないでね」
「はい、ありがとうございます」
社長は私達に手を上げて挨拶すると、自室のほうへ歩いて行った。
「よし、じゃあ、打ち合わせは終了でいいかな」
「あっ、あの。営業担当者をご紹介頂けないでしょうか」
「岡田さん、任せていい?」
「はい、大丈夫です。いい奴付けて貰うように頼んどきます」
これで、この打ち合わせはお終いだった。私はさつきちゃんと今後の予定を共有し、ひとまず今晩、お店に行くつもりである事を伝えた。
「じゃあ、私もお供します。いる物は名刺と筆記具ぐらいですよね」
「そうね、残業申請しておくね」
残り時間で議事録を書くと、社長からのコメントを、今までの経験や知識と結び付けながら考えた。そして浮かんだアイデアをメモすると出発の支度をした。
そして定時になると、さつきさんと一緒に外出した。
「こっちのほうへ来るのは初めてです」
「特に何も無いからね」
「どんな関係の幼馴染なんですか?」
「同じ小学校だったの」
「その他には?」
「そのほか? っなに?」
「無二の親友だったとか」
「何も無いよ、話した事も無いからね」
「そんな相手なんですか!?」
「でもいい子だよ。楽しいし」
「ふーん、楽しいんだ」
「ほらっ、あそこのお店。小泉観賞魚店」
お店の扉を開けると、陽子ちゃんはレジの中に居て、私に同行者がいる事に少し驚いた様子だった。
「こんばんは。彼女は同僚の今村さん」
「初めまして。本件を一緒に担当することになりました。どうぞ宜しくお願いします」
きちんと腰を折って名刺を差し出しながらも、何か不遜な響きが挨拶の言葉に含まれていたような気がした。
陽子ちゃんは名刺を受け取ると、自分の名刺をレジの中から取ってきて、さつきさんに渡した。
「私も今村さんも、今の会社で営業経験が無いから担当させて欲しいの。あと、私達のほかに営業担当者も一人つくわ」
「結構、おおごとみたいだけど、うちは構わないよ。コーヒー淹れるね」
「店内、見せてもらうわね」
さつきさんを連れて、一階を見ると、次に屋外の錦鯉コーナーを見て、最後に二階を見た。
「小学校にメダカとか金魚とか、それと玄関に伊豆のほうの学校からもらった魚が居ましたね」
「うちの会社で、池の水をバシャバシャと循環させるポンプを作っているんだって」
「商品知識はそれほど無いので、知りませんでした」
「お待たせしました。コーヒーお持ちしました」
「ありがとう、いただきます」
私がコーヒーを持ち上げた時、さつきさんが口を開いた。
「あの、突然申し訳ないのですが、循環ポンプって売れるんですか?」
「今、池を作ったり、置いたりする人が減ってるから、そうは売れないわね。同じ物がホームセンターにも売っているから、価格重視の人は買わないし」
「やっぱりそうなんですね。じゃあ、何で今回は協力するんですか?」
「懐かしい友達の話だからよ」
「売上げ狙いでは無いと?」
「そうね、ただ、常連さんへの話題提供になるし、新規のお客さんが声をかけてくれるかもと期待してる」
「ほかには?」
「言わせたいのね?」
「はい」
陽子ちゃんが私のほうへ向いた。
「初めてだったんだよ、覚えてなぁぃ?」
「う、うん、ごめん」
少し、陽子ちゃんの声色が丸くなったような気がするけど、私にはなんの事か、さっぱり分からなかった。
その時、陽子の頭の中には、小学校の体育館の中にある倉庫のことが思い起こされていた。
あの日は雨だった、だから校庭を使う予定だったクラスと私のクラスが、体育館を半分ずつ使うことになった。
「今日は一組さんと一緒に使います。お互いに半分ずつ使って、ドッジボールをします」
知恵ちゃんの居る三年一組、私の居る三年三組がクラスごとに、パスとキャッチの練習をした。
そして、クラスを四チームに分けるとそれぞれが試合をした。
「知恵ちゃん、小学三年の時、体育館を一緒に使った日のこと、覚えてない?」
「えっ!? ごめん、覚えてない」
***
あの日、ドッジボールの授業が終わった後、日直だった陽子はボールの入ったかごを倉庫へ片付けにいった。
倉庫の中に入り、あった場所にかごを収めた。するともう一人、かごを片付けに来た。だから少し横に避けたんだ。
そうしたら足元のマットの縁で転んじゃった。
あとから入って来た娘が手助けしようと私に近寄ったけど、その娘も毛躓いてしまった。
丁度、両手を後ろについて、体を起こそうとしていた私の上に、その娘がのし掛かるようになった。
そして、その娘の両手がマットについた時、私の唇にその娘の唇が押し付けられて、二人はそのままマットに寝転んだ。
「ごめん! 大丈夫?」
すぐに体を起こしたその娘に、そう聞かれたけど、驚きから何て答えたかは覚えていない。でも名札を見て、三組の近藤さんって名前は覚えた。
あとから廊下にある手提げ袋掛に名札を見に行き、フルネームを覚えた。
それが私のファーストキス。
そこまで思い出したところで、いま話すかどうか迷った。でも……
「それならいいや、今日はこのぐらい?」
「うん、ごめん。すぐに会って伝えたくて」
「ありがとう。でもこのあと、常連さん達が来始めるからね。ごめんね」
「ううん、美味しかった。ご馳走さま」
そう言って二人は帰って行った。
陽子は残ったカップを見ながら、ライバルの出現に微笑みを浮かべた。
相変わらず知恵ちゃんは、女子にモテるんだ。
(つづく)
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