第10話 私の名前、なぜ覚えていたの?
『明日、また話したいけど都合どう?』
『午後二時過ぎたら大丈夫』
『ありがとう! 明日また連絡する』
『りょうかい』
昼間、小泉観賞魚店で思い付いたアイデアを、紙に書き出してみた。
手書きで数枚ほどだが、いくつか疑問が浮かんできた。もし陽子ちゃんのお店との取り組みを、モデルケースにするならば、週末のうちに少しでも解消しておきたい。
そこで思い切って連絡をしてみたのだが、時間が貰えたので嬉しかった。
夕飯が出来たと呼ばれ、ダイニングへ行くと、姉以外は揃っていた。
「お姉ちゃんは?」
「夕飯食べてから帰って来るって」
「あっ、鰹のタタキじゃん!」
「初鰹だな」
「お姉ちゃんが居ないから余計に食べれるよ」
「昨日は何を食べたんだ?」
「スパゲティかな。あとはサラダとか、おつまみだから」
「今度、機会を作って、いつでも連れて来ていいからな」
「昨日は課長と飲んだんだよ。目標にするような仕事の出来る女の先輩」
「そ、そうか… 課長の家に泊めてもらったのか。タクシーの事といい、面倒見がいいんだな」
「うん、そうだね」
お父さんは、案の上、夕べは彼氏と一緒に居たのかと探りを入れてきた。学生の頃は娘の安全を心配してだったと思うが、最近は期待が混ざっている気がする。
「あのさ、明日も午後から散歩に行ってくるね」
「ええ、どうぞ」
「小学校のそばの小泉さんちに行ってくる」
「ペットショップの?」
「そう。仕事で関わりがありそうでさ、話を聞いてくる」
「もう、休日にのめり込むような仕事が出来たのか」
「うん、まあね。楽しい」
「そうか、それは良かったな」
お父さんとお母さんの顔が、どこかほころんだような気がした。
確かに、前の会社を辞める前までの半年間ぐらいは、愚痴ばっかりこぼしていたと思う。
二人の思いに感謝しつつ、鰹を頬張った。
翌日、予定を確認すると小泉観賞魚店へ行った。
レジにはお父さんとお母さんの姿が見える。
扉を開けると、陽子ちゃんがすぐに迎えに来てくれた。
私は言われたとおり先に二階に上がると、コーヒーを持って陽子ちゃんも来てくれた。
「なになに、どんな話するの?」
陽子ちゃんも楽しみにしていたようで、紙と筆記具が取り出される様子を見ている。
「それほど、大した話じゃ無いんだけどさ」
「いいの、知恵ちゃんとコラボ出来るってだけで楽しいから」
私は持ってきた紙を順に説明しながら、パラパラとめくった。
昨日、考えているうちにどんどん楽しくなってしまい、紙の中には池での飼育を始めるにあたってのスターターパッケージ商品の案や、メンテナンス用機器の販売、更には定期的なろ材送付サービスまで書いてしまった。
すべて、どこかしらにある売り方の二番煎じだが、何か次のアイデアへのヒントが含まれているかも知れない。
ひと通り説明を終えると、紙を机の上に並べた。
それを陽子ちゃんが手に取って一枚一枚よく目を通していく。そして資料から目を話すとこう言った。
「この件の関係者一覧が欲しいね。それぞれが何をするのか役割分担を明確にしておきたい」
私はカバンから別の紙を取り出して、陽子ちゃんの前に置いた。
「そう、こんな感じのやつ。お客様への提供体制と、お互いの契約関係が分かるやつ」
その後、陽子ちゃんは少し黙り込むと、また話を始めた。
「それでさ、知恵ちゃん。少し言い辛いんだけど、このパックは数は見込めないよ。それとやり始めたら八年から十年はサポートが必要だよ。単品で機械を売るだけなら、そんな事まで期待を受けないけど、お店を構えているとさ、逃げられないからさ」
確かにそのとおりだ。自社商品だけなら私も考慮無用だが、パック販売となると、製造物責任や代替品の提供などについて、他社分も困らないようにしておきたい。
「ねぇ、紙を一枚貰える?」
陽子ちゃんに真っ白な一枚を渡した。するとそこへ縦横の線を書き、表にすると、マス目の中へ書き込み始めた。
「よしと。こんな感じかな」
「ラインナップ表?」
「そう、縦軸が池のサイズ。横軸はその構成品、で最後にセット価格。知恵ちゃんの会社の循環ポンプは吐水量別に三種類。だから池も大中小サイズ。そこに少し加飾品を加えたりしたの」
「すごいね…」
「金魚の飼育セットとか、こんな感じだからさ」
それにしても構成が整理されて見やすい。
「先走って色々と書いてきたけど、陽子ちゃんのお店で、お薦め商品を組み合わせて、販売するのが一番良さそうだね」
「スタータープランは、見せ方として分かり易いし、定期メンテナンスは、うちも取り組みたいと考えていたの。バラバラで販売すると、知恵ちゃんの会社の売上げ拡大には、ほとんど貢献しないけど、考えてみたいよ」
「そうかな、ありがとう。そう言って貰えると嬉しい」
「ねぇ、錦鯉、観ていかない?」
「うん、そうする」
資料を片付け、カップを持つと一階へ降りた。
そして、奥のスペースに向かう。
扉を抜けると、そこは壁というよりかは、簡易な囲いに覆われた広い場所で、大きな箱みたいな中に錦鯉がたくさん泳いでいた。
「店内に紹介ボードとサンプルを置いて、質問を受けたらこちらへ誘導したらどうかなって」
「うん、それいいね」
「ちょっと話は逸れるけどね、飼育用具で選択肢が不十分なのは、クーラーと殺菌装置かな。知恵ちゃんの会社の強みってどんなところ?」
「元々はポンプとモーター。羽根車を回して水を流す装置と、その動力源となる装置。だから飼育用具も残ってるの」
「なるほどねー」
「その装置は使われている場所が多くてね。それぞれ大手メーカーがいるんだけど、うちは他社製品に組み込まれる形で使われているんだ」
「そうなんだー。じゃあ、今回は飼育用具だから、営業の人もあまり乗り気にならないかもね」
「そこは分からないけど、意識改革担当として頑張るよ。だからまた連絡するね」
「うん、待ってる」
その後は陽子ちゃんのお店の錦鯉を一匹一匹教えてもらい、最後に写真を撮って錦鯉部屋を後にした。
それからお店を出て、さよならをしようかという時、聞きたかった事を思い出した。
「そうだ… あのさ、初めて会った時、私の名前をフルネームで覚えていたよね。同じクラスになった事も、話した事も無かったと思うんだけど、どうして?」
見送るつもりで、足を揃えて私のほうを向いていた陽子ちゃんが、照れ臭そうに微笑んだ。
そして、私に近付くと突然抱き着いてきた!
「どう? 思い出した?」
私の頬に彼女の頬が触れていて、柔らかくて温かいその場所が、とても気持ちいい。あぁ…… 誰かに抱き締められるってこんなに気持ちいいものなんだ……
そこに身を委ねるように、そっと目を閉じた。
「どう、知恵ちゃん…」
何にも思い付かないけど、このままでいたら…
「… 何か思い出すかも…」
それは何も考えずに口からこぼれた、思い付きの台詞だった。
だって、ずっと求めていた温もりだよ…
私からも手を回そうとした時、陽子ちゃんが私から離れた。
「何も考えて無いでしょ?」
「うん…… 気持ちよくて……」
「何だか恍惚としてるよ」
目を開けたら手で口を隠しながら、陽子ちゃんが笑っている。
その顔を見た時、何か頭の奥で閃いた気がした。
でも、だんだんと爆笑し始めた陽子ちゃんに釣られて、私も笑い始めたら、すっかり忘れてしまった。
二人でひとしきり笑った後、改めてさよならをして、私は家に帰った。
(つづく)
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