第6話 社長ヒアリング
朝が来た。春のぽかぽかと暖かな日差しがカーテン越しに入ってきて、自然と目が覚めた。
アラームが鳴るまでには、まだ十分ほどあるが、気持ちが早く起きたがっている。
布団をまくり、体を起こすと、大きく伸びをして、首を左右に回した。
夕べのうちにシャワーを浴びておいて良かった。すでにお酒は抜けていて、体はいつも以上に軽い。
課長がお店からタクシーで送り届けてくれたおかげだ。ぐっすりと眠っていたから楽なんだ。
そう思うと嬉しい。
お母さんが用意してくれた朝ご飯を食べて、髪を直し、メイクをすると、いつもよりも早く家を出た。
そして会社に着いたのは、始業時刻の二十分前。
鞄を席に置くと、社長室へ向かう。
扉はすでに開いており、部屋の灯りも点いているが、秘書が居ない。
一応、扉のそばへ行くと、話し声が聞こえてきたので、扉から離れてしばし待った。
ほどなくして秘書が出て来たので、用件を伝えると「今なら大丈夫ですよ」と教えてくれた。
取次がれずに直接行くのは、少しはばかられたが、大きめな声で挨拶し、中に通してもらった。
「失礼します!」
「どうぞー」
「失礼します。おはようございます!」
「おう、知恵ちゃん、おはよう」
「昨日のお礼を言いに来ました」
「そう、朝イチから律儀だね」
「ご馳走になりありがとうございました」
「こちらこそ、楽しかったよ。また行こうね」
「はい、よろしくお願いします」
「今日の十一時からも楽しみにしてるよ」
「はい、では失礼いたします」
社長に一礼して部屋を出た。悲しいけど、思った以上に固くなった。やはり飲んで喋るのとは勝手が違った。
自席に行くとパソコンの電源を入れて席につく。
頭の中は今日十一時からの社長との打ち合わせの事で一杯だ。
「もう、緊張してんだろ」
後ろから岡田さんが声をかけてきた。
私は素直に「はい」と返事をする。
「口火は俺が切るけど、社長に話して貰って、都度、質問を挟めばいいよ。下手に資料なんか出すと、これはなに?って質問受けちゃうからさ」
「分かりました」
指摘のとおり、何か資料を作らなきゃと考えていた。でも的確にまとまらなくて、手が止まっていた。
誰かが私の頭に手を置いた。振り向くと石田課長だった。
「藤原社長はね、野球が好きなのよね。今日は見逃し三振しなければいいわ。ホームランを狙う必要もないし。分かる?」
「気持ちはしっかりと前向きに、失敗を恐れるなってことでしょうか」
「そうね。ランチ一緒に食べましょうね」
意気込んでいる私を、二人ともほぐそうと、声をかけてくれたのはよく分かった。無駄な緊張を今からする必要はない。
定時になった。いつもどおり岡田係長、今村さつきさん、そして私の三人で朝のミーティングをする。
私以外の二人には仕掛り中の仕事があり、私は全社員販売コンテストの立案推進が主な今日の仕事だ。
そして、いよいよ時間になると三人で社長室へ向かう。
秘書に取り次いで貰うと、岡田さんから順に中へ入り、社長室内にある打ち合わせ卓に並んだ。
藤原社長もすぐに来てくれて向かい側の中央の椅子に座った。
私達も岡田さんを中央にして、椅子に腰掛ける。
そして、口火を切ったのは、なぜか、さつきさんだった。
「社長、今日はツイてますよ」
「おっ、そうかい」
「はい、どうぞ、期間限定のレア物です」
「この季節っていうと桜かい?」
「そうですね、色は少し桃色ですね。でもラムレーズンです」
「いつも悪いねー」
「いえいえ、海老で鯛を釣ってるだけですから」
「ハハハハッ! それを言っちゃ駄目だろう。じゃあ、遠慮なく」
さつきさんは何と貢ぎ物を持参していた。きっと毎回やってる。恐るべしだ。
社長はさっそく一つ取り出すと口に入れた。こちらまでラムレーズンの甘い香りが漂ってくる。
「うんっ! やっぱり美味しい。いつも美味しい物ばかり、ありがとう。これも手土産に喜ばれそうだよ」
「何よりです。秘書さんにお店伝えておきます」
「うん、よろしく」
へぇー、そういうことか。手土産のサンプル。
今のやり取りを聞いているうちに、すっかり意識はその話に飛んでいて、社長ヒアだなんて緊張は解れていた。
「そして、知恵ちゃん達の相談は全社員販売と販売コンテストの話だね」
「はい、そうです。従来の営業担当者だけでなく、製造や事務まで全員に販売とコンテストを拡大する。そして販売代理店向けにも拡大するというお考えをお持ちと聞きました」
「そう、常に全員に商品とお客様に意識を向けておいて欲しくてね。岡田くんは分かっているだろうけど、だいぶ社内の分業が進んで、どこの誰のおかげでお給料が貰えるのか分かりづらくなってる。それと、ここにならうちの商品が使えるんじゃないかっていう意識を持っていない社員も多くいる。そこを意識改革したい。そのためになる事をやりたいので、考えて欲しい」
私は社長の言葉をメモりながら、この会社の中の状況を想像していた。
「各事業所は、販売から工事保守や事務まで一体だから、それほど心配はしていない。問題は本社と工場だな。解決方法はコンテストが絶対だとは思っていない。何か取り組んだ社員に還流出来る仕掛けが組み込まれていれば、方法は問わない。」
「そして、検討の結果、すぐには何もしないという事でも構わない。例えば組織変更が伴う結論になれば、すぐには出来ないし、人事も入れないと話が進まないからな。ただ、小さくてもいい、さざ波しか立たなくてもいいから、何かしたいというのは本心ではある」
藤原社長の率直な話を聞いて、大切な魂の部分がよく分かった気がする。
「こんなところかな。さあ、聞きたいことはどんどん聞いてくれ」
岡田さんと、さつきさんの二人は私の顔を見た。私の質問から優先させてくれるようだ。
「勉強不足ですみません。うちの商品に家庭向けのような製品があるんですか?」
「そうだな。あるよ。売上は小さいけどね。ポンプとモーターが小型一体化されてるやつ。色々と作ったけど、今のラインナップは僅かだな。競合が強くてね」
「じゃあ、営業以外の社員が売る物ってありますか?」
「商品ラインナップだけ見ると、難しいだろうな。そこが知恵の絞りどころだよな」
「正社員以外はどうしますか?」
「直接雇用契約がある人達には、参加して欲しいけど、それ以外は相手先次第だろうな。でも参加しないから不利益をこうむるとか、そんな雰囲気にはしたくない」
「以前にも、計画したことありますか?」
「うん、頭の中で考えたことはある。でも不必要だという結論で見送った。もちろん、当時のメンバーとは意見交換したよ」
「全社員販売と野球応援は、同じ土俵ですよね?」
「うん、そうだよ。自分の会社の姿を外から意識出来るってことにおいてはね。それ以外の効果は、違うよね」
社長は、一度大きく表情を崩すと、前のめりになっていた体を伸ばし、背もたれに寄りかかった。
「この話、考え出すと、想像が尽きなくてね。でも初めは小さな一歩でいいよ。全部比較検討して、絞り込むなんて手法はいらないよ。決定に関係者は少ないから口頭で大丈夫。何度でも話をしよ。メールで検討状況を投げ込んでくれてもいいから。なっ!」
「社長って二代目ですよね?」
「そうだよ。製造の前は商社勤務だった」
社長には明確なビジョンがあるに違いない。そこへ向けたロードマップやマイルストーンもあるのだろう。だからといって全てを押し付ける事はしないタイプなんだ。
「さぁ、少し早いけど、お昼ごはん行かない?」
「そうしましょう。どちらにしますか?」
「いつもの定食屋かな」
「いったん戻って、もう一度来ます」
「いいよっ! 払うからこのまま行こ! 資料は置いてさ」
社長と岡田さんが立ち上がった。私達も立ち上がり、そのまま外へ出た。
歩きながら、課長にランチを誘われていた事を思い出したが、三人とも戻らないし、勘がいいからすぐに察してくれるだろう。
社長とのお昼ごはんを済ませて席に戻ると、石田課長からメッセージが届いていた。
開くと、『一人で寂しく食べに行くよ』と書いてあった。待たせちゃったなと少し申し訳なく思っていたら、皆とわいわいしながら課長が戻って来た。
その様子を見て、安心した私は、返事を書いた。
『社長とご一緒しました。すみません』
『知ってる、秘書に聞いた。夜は付き合ってね』
振り向くと課長がニコニコしていた。
きっと秘書からチャットで、打ち合わせ終了を聞いていたのだろう。
上手いこと、夜のお供にされてしまった。
『残業しますよ』
『駄目、許可しかねる』
思わず目が点になったが、確かに残業するほどの作業量は見積れていない。
でも、素直に分かりましたと返すのは、少し癪だった。
『努力します』
そう返すと一旦、席を離れた。
午後は、午前中分の簡単な記録を作り、既存の販売コンテストに関する資料に目を通し、対象商品のリストから、私のように顧客を持たない社員でも、販売可能な商品を探した。
そして、至った結論は、そんな商品は、やはり無いという事だった。想像はしていたけど、本当に何も無い。
私は商品リストを閉じると、別のリストを開いた。こちらには見知った商品が並んでいた。
でもこれで、目的を達成出来るのか。そこに疑問が残る…
私は席を立つと、岡田さんのそばに行った。
「岡田さん、各部署の様子を見学したいんですけど」
岡田さんが作業の手を止めて、私の方へ振り返った。
「俺か課長か、同行者はどっちがいいかな」
「新人挨拶の体で回りたいので、どちらでも構いません」
「で、実際は何したいの?」
「フロントとバックヤードの間に、どのくらいの溝があるのか、知りたいです」
「それ、どうやって知るの?」
「電話の内容や会話でとか」
「商品知識テストでもやってみる?」
「教材があるなら、それもありだと思います」
「やり方は確かに自由なんだけど、もう少し準備が必要かな。ただでさえ本社企画部が来たら、疎まれるんだしね」
「販売に意識を向けることで、一体感を作ろうと思うと、まず現状分析をして、課題をもとに計画を修整しながら進めたくなるんですけど」
「まあ、ぶっちゃけ、現状分析は、こうであると思われるって仮説でもいいよね。本当に全社員販売したら、一体化されるならね」
「そこもなんですよ。うちには普通の社員が扱うような商品が無いんです」
「そうだね。無いね」
「じゃあ、どうやって!?」
「それはさっき、見てたじゃん。それでアイデア出たでしょ」
「はい、取次代理店さんの商品を、逆にうちでも販売するんですよね」
「そう、大手ホームセンターなんかだからね。その中のどの商品を選ぶかはあるけど、売るって行為は出来るよね。ただ、自家消費分を買うだけで終わりにはしたくないけどね」
「そうなんですよ。そのやり方じゃ目的が達成されないと思うんです」
「それで、なんで現場に行きたいんだっけ」
「えーっと、出直して来ます」
「いつでもおいで」
全社員販売という方法を捨てるとしても、納得させられる理由と、代案があれば大丈夫だろう。
では代案はなんだろうか。与えられた案が無くなった途端に、プレッシャーが増してきて、頭が回らなくなってきた。
こんな時、以前の会社なら、業務改善に関する様々な売り込みが他社からあり、施策の内容、効果予測、費用の見積もりが揃っていて、実施の依頼が簡単に出来た。
でも今の会社で外注を前提に考えたら、自分から動かないと相手にされないだろう。
それでも、その以前の経験から思い付いたアイデアがあった。
私はさっそく考えた事を、簡単な図にまとめた。そして一旦、保存する。
これは、一晩寝かせてから、また明日見直して、抜け漏れを確認してから岡田さん達に見てもらおう。
冷静を装っているつもりだったが、我ながらいいアイデアが浮かんだと、だいぶ頬が緩んでしまう。
ああっ、午後はずっと座っていたんだ。机を離れるとコーヒーを注ぎに行った。砂糖とミルクを混ぜると一気に飲み干す。
もう今日は、大きな仕事を乗り越えた気分だ。気分がいい。でも疲れて体が重い。
残りの一時間ほどは、アイデアの具体化をしながら過ごし、定時になるとパソコンの電源を落とした。
そして課長席に行った。
「楽しかったけど、疲れた、そんな顔してるわね」
「はい、そのとおりです。ありがとうございました」
「でも連れていくわよ」
「はい、お付き合いします」
私は石川課長について、会社の外へ出た。
そのまま駅のほうへ向かう課長に静かに着いていく。
でも、定期券を取り出したので、声をかけた。
「あの、今日はどこで飲みますか?」
「うちよ」
「課長のうちですか?」
「夕べも今日もそう伝えたでしょ」
冗談だと思っていたんだけど、本気だったらしい。
「家飲みだと、私、すぐに寝ちゃうかもしれません」
「明日は休みだから構わないわよ」
普段と違って、上半身だけ私の方へひねって話す課長に、違和感を覚えるが、課長も少し疲れているのかも知れない。
あとは何も言わずに、大人しく従うと、降りた駅で食材と飲み物を買った。
「課長、多過ぎませんか」
「大丈夫、優秀なコックもいるし」
「ねえ、もう業務時間外だから、香織さんて呼んでね」
「はい、そうですね」
荷物を分担して運ぶと、課長の家は案の定、マンションだった。エレベーターで最上階へあがり、部屋に入る。
冷蔵庫にしまいながら、部屋を見回すと、広いし、部屋数が多い。
「誰かと住んでますか?」
「まあね」
それは、優秀なコックと呼んだ人だろう。姉弟とか、姉妹とかかな。
課長の雰囲気だと歳下の家族と同居してそうだ。
片付けを済ませると、次は手を洗い、支度を始めた。
「グラスはそこ。お皿はその上。私はサラダを用意するからお願いね」
言われたとおり、グラスと食器を用意して、フォークを置いてみた。
課長は生野菜と生ハムにドレッシングをかけて、サラダにしてくれた。
その隣に、お惣菜を並べて支度が整った。
「じゃあ、入社一週間、お疲れ様でしたー」
二人でグラスを合わせると冷えたお酒を飲む。
「ふぅ、美味しい」
充実した一週間だった。そう思いながらぼうっとしていたら、課長がフォークを渡してくれた。
「食べよ」
フォークを受け取ると、取り皿にサラダをよそり、先にいただく。
「美味しいっ!」
「そう、良かった」
この場から離れていた意識が、だんだんと戻って来て、そばにいる課長への関心が頭をもたげてきた。でも何から聞けばいいか整理がつかない。
すると、課長が声をかけてくれた。
「今が楽しいなら、無理に話さなくてもいいのよ。私も楽しんでるわ」
課長の目元が緩やかで優しげな弧を描いている。
やっぱり課長は美人だ。
美人で仕事が出来て、人望があって… こんな人に憧れる。
「課長… じゃなくて、香織さんは憧れる人っていますか?」
「うーん、リアルには居ないかな」
「えっと、バーチャルなら居るんですか?」
「そうね、ドラマとかアニメの登場人物ならね、あと女優さんとか」
「誰ですか? 教えて欲しいです」
「何人もいるのよ。それにこのシーンが好きとかって感じだから、全部が好きって訳じゃないのよね」
「そうなんですね。私は課長に憧れます。課長みたいになりたいです」
「あれだって、演じてるようなものよ。ある一面でしょ…」
「それは丸ごと全部かどうかは分かりませんけど、仕事してる課長は格好いいです」
「それはありがとう。プライベートの香織は興味無いの?」
「うーん、上司ですからねー。共通の趣味でも無ければ、知る機会って無いですよね」
「凄いわね、打ちのめされたわ。はっきり言い過ぎよ」
「ごめんなさいっ。公私ともに同一視してるので、家では何してるんだろうとか、考えたことなくて」
「私は、知恵ちゃんの事、考えるわよ。楽しく働けているかなとか、ちゃんと眠れてるかなとか」
「それだって、仕事の延長線の上司目線ですよね」
「そんなこと無いわ、私はあなたの事、興味あるし、あなたに興味無いって言われて辛いもの」
課長が急にそんな本気っぽい話するので、驚いてしまい、言葉に詰まってしまった。
しばらく、課長に見つめられていたけれど、課長が目を逸らすと、サラダをよそってくれた。
「ありがとうございます」
「今日は泊まっていける?」
「はい、明日は休みなので」
「じゃあ、そばに居てね」
少し、課長の様子がおかしい。元気が無くなった感じがする。
「それからね、そろそろこの部屋の同居人が帰って来るわ」
そう言い終わった否や、玄関から鍵が回る音と、扉が開閉する音が響き、見知った顔がダイニングへ入ってきた。
「いらっしゃい」
「えっ!? あっ? お邪魔してます」
(つづく)
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