第5話 課長との飲み会

 今日は夕方から石川 香織 課長と二人だけでお酒を飲みに行く予定だ。

 残業が出来ないと分かってからは、より一層集中して業務に取り組み、何とか定時に仕事の区切りをつけた。

課長のほうを見ると、すでに席を立ち、かばんの中身の整理をしている。

私も急いでパソコンを落とし、机の上の書類を袖机に片付けると、席を立った。


「さぁ、行きましょうか」

「はい、よろしくお願いします」


「みんな、悪いけどお先ね」

「はい、お疲れ様でしたー」


 二人一緒に階段を降りる。私達の職場は二階なので、台車に載せた荷物でも無ければ、原則階段を利用だ。

そして、下まで降りきった時、見覚えのある人と鉢合せした。


「香織ちゃん、お疲れさま! 飲み行くの? 入れて欲しいなー」


「藤原さん、良いですよ。仕事終わったら来てください。いつものお店です。先にたくさん食べときます」


「ははっ! いいよ、あの店なら。たかが知れてるから」


「君もお疲れさま! 新入社員の近藤 知恵さんだよね。もうサシ飲み要員なんだね」


えっ!? 社長が、ひらの新入社員の名前を覚えているの?


「あとで行くから待っててね。構えなくていいからね。そういう話は明日しよう!」


えっ!? 明日のアポに私がいるのも知ってるなんて…


「じゃね、終わらせてくる」

「お待ちしてます」


 石川課長に合わせて、私も慌てて会釈だけ出来た。本当に親しみやすい社長なんだ。


 以前の会社では、役員クラスは天上人のような扱いで、エレベーターは専用にあり、下々の社員が直接説明や質問をする機会は無かった。

 しっかりと階層化されているので、トップの役員と話をするのは部長クラス、そして資料の説明は課長クラス。

 一方で、ここではダイレクト。

きっと、課長が知らない話を、いきなり社長にして、後から課長に呼ばれて大目玉を喰らうなんて事も無さそうだ。

今のやり取りを見た限り、そんな事は想像出来ない。


 石川課長と共に馴染みのお店に入ると、奥の掘りごたつの座敷に通してもらった。

飲み物は最初から焼酎。

本日のおすすめを全部一皿ずつ頼み、他にも好きな物を頼んだ。


「じゃあ、藤原さんが来る前に、躊躇わずに、さん付けで呼べるくらい、飲むわよ」

「えっー! 飲まなくても社内ルールなら、さん付けで呼べますけど」


「それじゃあ、藤原さんが聞きたい話は出来ないわ、知恵ちゃん、理性的だから、本音が語れるように、少し緩まないとね」


 あまりよく意味が分からなかったが、いくら飲んだって、立場をわきまえて行動出来る。

とはいえ、藤原社長がなかなか来ない。

段々と石川課長の術中にはまり、社長が来た時に「お疲れさまです」の一言では終わらなさそうなほど、思考回路が壊れかけていた。


 小一時間ほど経ってから、藤原社長が来た。私はすでに入口へ背を向けており、到着には気付いていなかった。


「遅くなりました!」

「おぅ! お疲れっ! 少しおせーぞ!」


 誰だか気にもせずに、そう言いながら振り向いた。しかし、その姿を見て、一瞬にして酔いが覚めた。更には犯した失態のあまり、顔が青くなった。


「おう、良い具合に仕上げてくれたな! 香織ちゃん!」

「はいっ! 傑作ですね」


ところが、社長も課長も声をあげて笑っている。

私は社長に向き直り、正座をして青い顔をしている。


「知恵ちゃん、今のセリフはどこ仕込みだい?」


「はい、以前の会社で初期配属された頃、飲み会に遅刻すると、先輩からよく言われてました」


「そうだよな、新人の頃は可愛がられるよな。今日はそれだけ美味しく飲んでたんだな。やっぱり、香織ちゃんは出来る奴だな」


「申し訳ございません!」


「気にしてないよ。これさ、毎回やって、ギャップを楽しんでるの。こっちこそ、恐縮させちゃってごめんな」


「さぁ、飲み直そう!」


 それから社長とは入社してみての感想やら、気付いた事、そしてやりたい事などを話した。

 そのうえで前の会社の話などをして、企業文化の違いなども話に加えていた。


「なるほどなぁ、色々と窮屈な思いをしてきたんだなぁ」


 社長は頷きながら目を閉じると、何か考えているように頭を下に向け、体の動きを止めた。


「知恵ちゃん、やりたい事が出来るように、みんなと仲良くしてな」


「はい、わかりました」


「俺さぁ、実はさ、やりたい事があるんだよね」


 私は固唾を飲んで、その続きの話を待ったが、課長は手で口元を覆い、笑いを隠しているようだ。


「あのさ、野球チーム作りたいんだ」

「へっ!? 野球ですか?」


「そう、目指せ都市対抗野球大会って感じ。藤原コーポレーションのチームが東京ドームで試合をするの」


「あぁ、ありますね。そういうの…」

「以前の会社にもあったでしょ」


「もし、それがどうしても困難なら違う事でも良い。ただ、全社一丸となれる事がいい」


「それで全社員販売なんですか」

「まあ、入口としてね。いかに一丸とするかの仕掛けはどんどん盛り込んでいきたいけど、まずはきっかけ作りだね」


「他にも何かやりたい事、あるんですか?」


「電気自動車造り、レクリエーション施策」


「運動会とか、バーベキューとか」


「そうだね。社員が増えたし、これからも増える。どうしても他部署とは疎遠になる。だから組織横断的にプロジェクトチーム体制でやりたいんだよね。最終的には商品開発にも様々な部署の人間が関心を持つようにしたい」


「こういう仕事、どうかな?」


「上手くいって、会社の成長に携われていたら、誇らしいですね」


「だよね。そのために入社して貰ったんだよ」


「光栄です」

「こちらこそ、選んでくれてありがとう」


「何だか、教祖に口説かれて、藤原教に入信したみたいです」

「それ褒め言葉だね。嬉しいよ」


 それから再び、三人で焼酎を飲み始めた。

何だかんだと、これが三度目の飲み直し。最初にたくさん飲み、社長が来てから、もう一度飲み、そして話が一段落ついたところでの三度目だ。


 さすがに酔いが回るのが早い。というより、限界スレスレでこぼれずに堪えていた物が、三度目でこぼれ出してしまったようだ。

 その後、私は何か心地良い振動に揺られながら、柔らかくて温かい物に寄りかかり、眠っていた。


 うーん… なんだかほっぺたが冷たい…

寝ぼけたまま、冷たいところを手で触ると濡れていて、少し気持ち悪くて体を起こした。

 ぼんやりと前を見ると、ここはタクシーの中で、どこかへ走っていた。


「大丈夫?」


 声がするほうを見ると課長がいて、ふと視線を落とすとスカートに染みが出来ていた。


「ひゃっ!?」


「タクシーチケット貰って、今、あなたの家へ向かっているところよ」


「あのっ、染みが…」


「大丈夫。このままタクシーで私も帰るから。洗えば綺麗になるし」


「それに今日のお金も…」

「明日、朝イチで社長に言って。全部ご馳走になったから」


「あの…」

「大丈夫。楽しく飲んでただけで、何もやらかしてないよ。次はうちで飲もうね。じゃね」


 課長が運転手さんに声をかけると、扉が閉まり、車は走り去って行った。


 私はそれを見えなくなるまで見送り、ベタつく口に触った。

そこにはよだれがべっとりとたくさん。

それじゃ、課長のスカートも!


 もうあんなに飲むもんかと、出来ない誓いをたてながら、家に入った。


(つづく)

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