「ふっざけんな──ッ!」と、誰も居ない教室でイケ好かないギャルの机を蹴飛ばしたら──。ぼっちで陰キャな俺の日常は目まぐるしく変化した。もう戻れない、あの頃には──。
第7話 群れからハグれたライオンと遭遇したのなら(前編)
第7話 群れからハグれたライオンと遭遇したのなら(前編)
「……はぁはぁはぁっ!」
超高速で教室の掃除を終わらせ、さらに駅まで猛ダッシュ!
ここまで二十分弱の出来事──。
皮肉なことに、伊達に自分が『お掃除大好き人間くん』と呼ばれるだけのことはあると、思い知らされた。
考えるよりも早く、思うよりも先に──。体がテキパキと動きやがるんだ。頭や心ではなく、体が覚えてしまっている。
洗練された無駄のない雑巾がけは凡人のおよそ三倍。床を箒で掃かせたのなら消しゴムのカスさえも残さない。
一人で四人分の掃除当番をこなしてきた男は、立派なお掃除大好き人間くんに成長を遂げていたんだ。
悔しいけど、今回に限っていえば救われた。
今日までお掃除をがんばってきて良かったとさえ思ってしまった。
なぜなら俺はいま、一秒でも早く家へと帰らなければならないからだ!
こうしている間も、楓が玄関の前で『伏せ』をして待っていると思ったら、急がないわけにはいかないんだ!
だ、だって! 母さんがパートから帰ってきたら、どう考えてもまずいから!
玄関を開けるのは俺が先か、それとも母さんか……。果たして、楓が“ちんちんのポーズ”で出迎えてしまうのは、どちらが先なのか……!
母さんだったら大変だ。一大事どころの騒ぎでは済まされない。楓はもう『ワンコ』で居ることを辞めてしまうかもしれない……。
玄関で待つのを辞めろとメッセージを送ろうとも思ったけど、『ワンワンワン、ワンッ!』と、ひたむきにトレーニングに励まんとする元気の良い返事を見たらできなかった……。
……だったら俺が早く帰ればいいだけの話!
自分を変えようとがんばっている妹の歩みを、兄として止めさせはしない!
だから、俺! 急げ! 急ぐんだ! 母さんよりも早く家に帰るんだよ!
(くんくんくん。くんくんくん)
どれだ。いったいどれなんだ!
くっ……。さっぱりわからん! こんなところでもたついている暇はないっていうのに!
(くんくんくん。くんくんくん)
時間がない中で、駅前のドラッグストアに寄った俺は判断の難しい状況に直面していた。
本日行うトレーニングの必需品。
軽井沢さん御用達。三限目の体育後に音霧さんにあげた汗拭きシートの調達に難を極めていた。
俺は必死に“香り見本”を嗅ぎ続けた。
(くんくんくん。くんくんくん)
されども答えへは辿り着けない。
口呼吸に徹していたせいで、実のところあまりよくはわかっていない。
こんなことになるのなら、恐れずしっかりと音霧さんのハレンチな匂いを嗅いでおけばよかった。
嗅ぐチャンスは日常の至るところに転がっていたというのに……。
後悔、先に立たず──。
どうしてこうも、俺は間違えてしまうのだろうか……。
と、諦めかけたそのとき!
「あ! お掃除大好き人間くんだぁ!」
ハレンチな香りが……現れた! 奇跡だ……。奇跡が起こった! よしっ!
鼻呼吸、限定解除!(すぅぅうううう)
……ふむ。
端から2番目。桃の香りと断定。直ちにレジへと直行する! 長居は無用。ハレンチな香りの虜にされてしまう! この匂いは男をダメにするけしからんやつ!
「なぁにしてるのっ?」
って、……あ!
俺は声を掛けられていたのか。
「ど、どぅも……!」
しかし音霧さんは不思議そうな顔で俺を見入ってきた。
「あれぇ、お掃除はどしたのぉ?」
なるほど。俺が掃除当番をサボって此処に居ると思っているのか。凡人なら今頃はまだ、掃除に励んでいる時間だもんな。
つまり、“お前、掃除サボってなにしてんだよ?”ってことだ。
「そ、それはもうバッチリと……! 消しゴムのカスひとつ残さない完璧ぶりで終らせてきたょ……! だから安心して大丈夫……!」
「おぉー! さすがお掃除大好き人間くん! ってよく見たら汗すごーいっ! そんなになるまでがんばってくれたんだぁ! ありがとねっ!」
いやべつに。音霧さんのためにがんばったわけじゃないんだけど……。
なんて思っていると──。
カバンの中からハンカチを取り出し、それで俺の額の汗を……ふ、拭いた?!
「ご苦労ご苦労ぉ~!」
「ど、どとど、どぅもです……!」
ちょ、え……。どういう状況なんだ……。
いや、そんなことよりも……このハンカチーフめっちゃハレンチな匂いがしよる。
脳内に……ハレンチが侵入してくる…………。
……ハッ! なんで俺は当たり前に鼻で呼吸をしているんだよ! 音霧さんが近くに居るのなら口呼吸しないとだめだろ! ハレンチに飲み込まれるぞ!
──鼻呼吸。封印!
ふぅ。危ないところだった。
でもなんでひとりで居るんだろう。群れとハグれてしまったのかな。
「はいっ。これでおっけー! 汗をかいたらすぐに拭きましょお! 風邪引いちゃうからねぇ!」
その言葉、そっくりそのまま返したい……。
今日、汗だく体操着姿で俺の机に座ってたじゃんか……。
とは、もちろん言えず。
「ぅん。ぁ、ぁりがとう……!」
「どういたしましてっ! えへへ!」
な、なんだこの状況……。ボスはいったいなにをしているんだ? 早く来てくれないと困るんだけど?!
と、音霧さんが両手を膝につき前屈みの体勢になっているではないか!
開放された第二ボタンの隙間から推定Gはありそうなご尊顔が、パステルブルーの水玉模様を纏い、その姿を現す──。
ひぃ……。間が持たない。ボス早く来て!
しかし次の瞬間──。
「あ! それケイちゃんが使ってるのと同じやつだぁ!」
いったいなにを言いだしているのかと思うも、視線の先は俺の手元にあった。すぐさま今置かれている状況のヤバさに気づく──。
ここは女性用のコスメやあれやそれが所狭しと並べられている一角。そんな場所に男が立ち入り、あまつさえ汗拭きシートを手に取っているともなれば……。
うん。まずいかもしれない。
なにか、……なにかスマートな言い訳を……!
「い、妹にお使い頼まれちゃって……!」
あながち嘘ではない。この汗拭きシートは楓に使ってもらうために買うのだから!
「おぉ! なるほど~! 妹が居るんだ! 言われてみれば、お掃除大好き人間くんってお兄ちゃんっぽいかもー! へぇ!」
ほっ。どうにか乗り切ったか。
「じゃ、じゃあ──」
帰るねっと言おうとするも、
「え~! いいなぁ! お掃除大好き人間くんがお兄ちゃんだったら、いつでも部屋のお掃除してもらえるのにぃ! いいないいなぁー! 妹ちゃんが羨ましい!」
な、なにを言いだしているんだよ!
掃除なんてするわけないだろ! 俺は家政婦じゃないんだよ!
とは、もちろん言えるわけもなく──。
「あははぁ……!」
なんとなく話を合わせるように笑ってみせる。しかし透かさず!
「じゃ、じゃあ……妹が家で待ってるから……!」
ハレンチからの離脱──!
☆ ☆ ☆
で、なんかよくわからないけど音霧さんがついて来ちゃった。
えっと、あの……。ひょっとしてこれって、一緒に帰るとか、そんな感じになってしまっているんですかね……?
俺の不安を他所に駅の改札を通ると、音霧さんは「あっ!」と自動販売機を指差し、元気よく走り出してしまった。そしておいでおいでとしてくる。
その姿に絶望を見た。ついに俺は掃除当番を押し付けれられるだけでなく、次のステージに突入してしまったんだ。
“ジュースを奢らせられる”
正直、こんな日が来ることを最も恐れていた。だって断れないじゃん……。帰りたい。今すぐこの場から消えちゃいたい。……逃げたい。逃げたい!
よし! もういい、逃げる!
と、決心するも俺の足は音霧さんが手招きする方へと動くのみ。心底、自分が情けなくなる……。
だが、今はいい。今はまだ仕方ないさ。
汗拭きシートも買ったし、今日は濃厚なトレーニングが行える。ずっとこのままってわけじゃないんだ!
しかし不思議なことに、音霧さんは自動販売機にスマホをピッとかざすと──。
「ほらほら、喉乾いてるでしょ? 好きなの押しちゃいなよー!」
────?!
ば、馬鹿な……。俺が奢らせられるわけではなかったのか……? これは現実か……?
軽井沢さんがただの一度も奢ってくれたことのないジュースを、君は奢ってくれるというのか? ありえない。だって君は、ただの一度も俺にジュースを奢る約束をしていないじゃないか!
毎回約束している人間が奢ってくれないのに、どうして、君が……?
「どしたの? 喉乾いてないのかな?」
「いえ、カラカラです……!」
「それならお好きなのをどーぞっ!」
……ゴクリ。
なんかよくわからない。わからないけど……。
これは何度も夢見た光景だった。
走馬灯のように、掃除を押し付けられた三ヶ月間の記憶が駆け巡る──。
あれ、おかしいな。なんだかいま、報われたような気分になっている。……涙が出てきそうだ。
「さぁさぁどーぞどーぞ!」
「う、うん……! お言葉に甘えて……!」
そうか。そうだよな。こればかりは仕方がないよな!
──労働による対価を初めて受け取る、瞬間!
たかだかジュース一本。どこにでも売っているジュース一本。
けれども俺の人生に刻まれるであろう、思い出の一本。
と、なれば。慎重に選ばないとな! ……うーん。悩ましいけどブラックコーヒーかな?
この先、大人になって辛いことがあったときに、ブラックコーヒーを飲むたびに思い出すんだ。
苦い! けど、辛いことばかりじゃない! ってね!
よし。ブラックコーヒー! 君に決めた!
「おすすめはねー! これ!」
──ピッ!
あ、押されちゃった。
……つらい。
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