第七百十一話 高橋悠里はアルトサックスのロングトーンの練習を頑張り、要と合流して家に帰る



1年3組の教室にメトロノームの規則正しい音とアルトサックスの音色が響き、そしてアルトサックスの音色が止んだ。


ロングトーンの練習をしていた悠里は、疲れて、アルトサックスを吹くのをやめ、ため息を吐いて教室にある時計に視線を向けた。

まだ4時20分だ。ひとりぼっちの部活は、時間が経つのが遅く感じる。

……要は、まだ現れない。


「……ひとり、寂しいなあ」


悠里はそう呟いてため息を吐く。

でも、愚痴をこぼしても仕方がない。

悠里は気を取り直してまたロングトーンの練習を始めた。

基礎練習を頑張って、要のように美しい音色を出せるようになりたい。


悠里が練習していると教室の扉が開き、要が現れた。

要はアルトサックスを吹いている悠里に歩み寄る。


「悠里ちゃん」


要に名前を呼ばれて、悠里はアルトサックスを吹くのをやめた。

要が来てくれて嬉しくて、悠里は要に笑顔を向けて口を開く。


「要先輩っ。球技大会の練習、終わったんですか?」


「うん。なんか、パトカーが来たのが見えたから、練習、途中で抜けてきた。ちょっとヤバそうな空気だから、もう帰ろう。明るいうちに悠里ちゃんを家に送り届けたい」


「はいっ。わかりました」


悠里は要の言葉に肯き、そう言って、アルトサックスを片づけ始める。

要は悠里を家まで送ってくれた後、一人で自宅に帰るのだ。絶対に、明るいうちに帰らなければいけない。


「俺、先にメトロノームと悠里ちゃんの楽譜を持っていくね」


「ありがとうございます。お願いしますっ」


要は悠里が使っていたメトロノームと楽譜を持って、教室を出て行く。

悠里は急いでアルトサックスをサックスケースに片づけ、不織布マスクをつける。

使い終えたマスクケースを教室のゴミ箱に捨てて、サックスケースと通学鞄を持って要の後を追った。


音楽準備室の楽器をしまう棚に悠里のサックスケースを片づけ、要と悠里は通学鞄を持っていない方の手を繋ぎ、足早に音楽準備室を出た。


「パトカーって、行方不明になった女子の件で来たっぽいですか?」


階段を下りながら、悠里が要に問いかける。


「そうかもしれないし、違うかもしれない。俺、失踪した子の件で、怖い噂聞いたんだよね」


「怖い噂?」


「うん。彼女の靴が、昇降口の靴箱に残ってたんだって」


「え……っ。それって上履きで外に出たとかじゃ……ないですよね……?」


「校内で行方不明になったって考えるのが自然だよね」


「通学鞄も教室にあったっていう話だし……怖い」


「学校ではなるべく一人にならないようにしよう。俺も気をつけるから、悠里ちゃんも松本さんと一緒にいてね」


「はい。……いなくなっちゃった子、早く帰ってくるといいですね」


「うん。俺もそう思う」


要と悠里は昇降口で上履きを脱ぎ、靴を履いて校門に向かう。

教員たちが使っている駐車場に停車しているパトカーに、男子生徒数人が群がっている。


悠里は怖い気持ちを振り払うように明るい口調で、クラスメイトの女子に『アルカディアオンライン』をすすめた話を始めた。

要は目元を和らげ、悠里の話を肯きながら聞く。

いつも通りの帰り道。……でも、悠里の胸の隅に凝った不安は消えない。


消えない不安から目を逸らしてお喋りをして、悠里の家に前に着いた。


「要先輩、送ってくれてありがとうございます。気をつけて帰ってくださいね」


「うん。じゃあ、また明日。明日は部活に行くからね」


「はい」


悠里と要は微笑んで手を振り、そして要は足早に彼が住んでいる駅前のタワーマンションに向かう。

悠里は要の姿が見えなくなるまで見送って、そして、家の中に入った。



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