第百四十一話 5月7日/帰宅後ログイン……できなかった



5月7日金曜日は、悠里にとって概ね平穏な一日だった。


授業は退屈で給食はおいしくて、部活では三年生の佐々木先輩の意地悪な言葉や態度に怯えつつ、夏のコンクールの課題曲と自由曲の楽譜のコピーが配られて嬉しかった。


全体練習ではアルトサックスのセカンドとして、アルトサックスのファーストの要の隣に座れたことも嬉しかった。……反対側の隣には佐々木先輩がいて怖かった。

佐々木先輩はテナーサックスのファーストだからこの席順になるのは仕方がないとわかってはいるけれど……。


帰り道は小雨が降り、悠里は折り畳み傘を広げて晴菜を招き入れ、二人で仲良く帰った。


家に帰った悠里は手を洗ってうがいをした後、すぐに自室に向かう。

制服から私服に着替えている最中にスマホが鳴った。

悠里は急いで着替えを終えて、スマホを見た。


「はるちゃんから直電?」


家に帰ったばかりなのにどうしたんだろう?

悠里はスマホを手に取り、タップした。


「はるちゃん? どうしたの?」


「『九星堂書店』が『アルカディアオンライン』で『九星堂工房』を開いたって書店の公式SNSでアナウンスがあったの!!」


「そうなんだ」


読書と紙の本が大好きな晴菜は『九星堂書店』の大ファンで熱量がすごい。

だが、読書といえば漫画で、紙の本より電子書籍派の悠里の反応は薄い。


「そう!! 『アルカディアオンライン』のゲーム機器、なかなか届かないから本当にちゃんと申請できてるのかなって不安になる。あー!! あたしも『九星堂工房』に行きたい!!」


「私もゲーム機器が届くまで時間かかったよ。声紋登録の電話はすぐにかかってきたけど」


「そうなんだよね。その電話で、ゲーム機器は近日中に届くって言われたけど、近日中っていつなのよ……」


「わかる!! 私もそう思った!!」


「『九星堂工房』は港町アヴィラの職人ギルドの建物の近くにあるらしいの。ああ、行ってみたい!! お兄ちゃんのゲーム機を使えたらすぐにゲームを始められるのになあ……」


「ゲームに興味がないはるちゃんが、珍しく熱いよね」


「だって『九星堂書店』の公式SNSのフォロワーさんが続々と『アルカディアオンライン』にログインするって言ってるし。羨ましすぎる……っ。『九星堂工房』っていうのも気になるしっ。なんで書店じゃなくて工房なの!? またなんかわけのわからないことをやり出した感じがして不安……っ」


「はるちゃんは『九星堂書店』のお母さんみたいだねえ」


「お母さんみたいになるわよ!! 本当に心配ばっかりかけるの。『九星堂書店』は!! そもそも『九星堂書店』の創業者社長で今の会長は自分自身に莫大な保険料をかけて『書店の経営が悪化した場合は、自分の死亡保険金で社員とアルバイトの退職金を賄うつもりだから後のことはよろしく頼む』と家族に宣言して離婚されたという書店愛が行き過ぎた人なのよ」


「うわあ……」


自分の父親がそんな人だったら絶対に嫌だと思いながら悠里は窓の外を見つめた。

雨はまだ、降り続けている。


「『九星堂書店』の公式サイトでは『アルカディアオンライン』に出店するのはリアルで絶版になった良書を『アルカディアオンライン』の世界に広めるためっていう話が掲載されていたのに、なにがどうなって『工房』になったのよ!! ああ。気になる……っ」


「早くはるちゃんの家にゲーム機器が届くといいね」


無料で楽しく遊ばせてもらう以上『ゲーム機器が届かない』というクレームを入れるわけにもいかない。


「ねえ。悠里。『九星堂工房』の様子を見てきてよ。それで、あたしに教えてくれない?」


「ええっ!? 私、職人ギルドとか行ったことないよ。圭くんにお願いすれば?」


圭は職人ギルドの建物の外観を知っていた。だからたぶん、行ったことがあるのだろう。

悠里の言葉を聞いた晴菜はため息を吐いた。


「お兄ちゃんはもうゲーム中なんだよ。ご飯でもお風呂でも悠里からの直電でもないのにゲームを中断させたら怒られる」


ため息を吐きながら言う晴菜に、悠里は少し迷ってから言葉を紡ぐ。


「わかった。行けるかどうかわからないけど、行けたら『九星堂工房』の様子を見て、はるちゃんに伝えるね」


「ありがとう!!悠里……!!」


「行けなかったらごめんね」


今、悠里の主人公のマリーは領主館にいて、借金返済をするために頑張っている。借金返済の期限は迫っていて、時間がない。

どこにあるのかわからない職人ギルドを探してさまようのは、あてもなく武器屋を探して結局たどり着けなかった過ちを繰り返すことになるから、とりあえず圭……じゃなくてウェインに『職人ギルドの場所を知ってる?』というメッセージを送ってみよう。


「こっちこそ無理を言ってごめんね。じゃあ、もう切るね」



「うん。バイバイ」


悠里は晴菜との通話を終えた。スマホを机の上に置いて、伸びをする。


「ゲームしようっ」


悠里は充電器からヘッドギアとゲーム機を外してコードで繋ぎ、ゲーム機とヘッドギアの電源を入れた。ヘッドギアをつけた後、ベッドに横になる。

目を閉じようとしたその時、部屋のドアが開いて母親が入って来た。

今、まさにゲームを始めようとした悠里を見てまなじりをつり上げる。


「学校から帰って来たばっかりなのに、おやつも食べずにゲームばっかりして……っ」


「いいじゃん。頑張って勉強して頑張って部活やってきたんだから、息抜きに楽しくゲームしたいっ」


「じゃあ、悠里の分のコーヒーゼリー、お母さんが食べちゃうからねっ。お祖母ちゃんがおいしいコーヒーでコーヒーゼリーを作ってくれて、生クリームも泡立ててくれたのに、食べなくてもいいのね?」


「食べる……」


悠里はヘッドギアを外してゲーム機とヘッドギアの電源を切った。コードは繋ぎっぱなしにしておく。

そして母親と共に一階に向かった。

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