第六十四話 マリー・エドワーズは井戸水を汲めない
ウェインの薬師ギルド登録を見届けたマリーは、ヤナを見つめて口を開く。
「あの、私、作業室を借りたいんです。鍵を貸してもらえますか?」
「ごめんなさいね。作業室はまだ使えないの。この前、地面が揺れたでしょう? その時にガラスの瓶や薬を作るための器具が床に落ちて割れてしまったの」
ヤナの言葉を聞いて、マリーは作業室で地震が起きた時のことを思い返した。
突きあげるような縦揺れがうねるような横揺れに変わり、棚が前後に揺れ、ガラス扉が開いて、中に置いてあった器材やガラス瓶が次々に床に落ちていった。
あの時は地震の恐怖に耐えることや、逃げることで精一杯で、作業室を片づけることなど全く頭に浮かばなかった。
「俺たち、薬を作りたいわけじゃないんです」
ウェインはヤナに、大量に余ったフォレストウルフとシルバーフォレストウルフをヒール草でもみ込んで焼いてみたいと話した。
「ヒール草を使うから薬っていうことで、薬師ギルドの作業室を使わせてもらえないかと思って……。おいしいお肉になったら『銀のうさぎ亭』の食堂で出したいんです」
マリーはヤナの目を見つめて訴える。
「薬草を料理に使うなんて、面白い発想ね。いいわ。作業室を貸してあげる」
「作業室の借り賃はいくらですか?」
ウェインの言葉にヤナは笑って首を横に振った。
「いらないわ。使えない作業室を貸して、お金なんて貰えない」
ヤナさん、太っ腹……!! と叫びかけてマリーは自分の口を両手で覆う。
女性に『太っ腹』は褒め言葉にならないかもしれない。体形を連想させる発言は慎重に行う方がいい。
「ヤナさん、太っ腹だな」
マリーがヤナの気持ちを慮って発言を控えたというのに、ウェインのデリカシーがない言葉がヤナに向けられた。
だが、ヤナは作業室の鍵を取りに向かっていて、ウェインの発言は耳に入らなかったようだ。
「ウェイン。女性に『太っ腹』とか失礼だからっ」
マリーは小声でウェインに注意した。
「マリー。全然失礼じゃないぞ。俺は『太ってる』じゃなくて『太っ腹』って言ったんだ」
マリーの言葉にウェインは真面目な顔で反論する。ダメだ。デリカシーという言葉を理解しない人種に女性の心の機微を訴えても無駄だとマリーは諦めた。
カウンターの奥からヤナが戻ってきて銀色の鍵を一つ、カウンターの上に置く。
「この前、マリーちゃんたちに貸した『3号室』の鍵よ。場所は覚えている?」
「はいっ。わかります」
マリーは自信をもって肯いた。ヤナはマリーに微笑み、ウェインに視線を移す。
「鍵はウェインくんが管理してちょうだい。マリーちゃんはまだ小さいから」
「わかりました」
ヤナの言葉にウェインは肯く。5歳の幼女より10歳の少年の方がヤナの信頼を得られたようだ。
マリーは少し悲しくなって俯いた。真珠が心配そうにマリーを見つめる。
「作業が終わったら部屋を片づけて、鍵をしめてカウンターに戻してね」
「はい」
ウェインは鍵を手に持ち、ヤナに肯く。
「マリー。真珠。行こう」
ウェインに促されたマリーはカウンターにいる真珠を抱っこした。
「ヤナさん。踏み台をありがとうございました」
「踏み台はマリーちゃんが薬師ギルドを出るまではそのままにしておくから、自由に使ってね」
「はい」
マリーはヤナに肯き、踏み台を下りた。そして真珠を床に下ろす。
「ウェイン。真珠。作業室はこっちだよ」
マリーはウェインと真珠を先導して歩き出した。
薬師ギルドの一階、3号室の扉の前に着いた。
「作業室が一階にあるのは薬づくりには井戸水が欠かせないからなんだよ」
マリーは祖母から教えられた知識を披露する。
「この情報って情報屋さんに売れると思う?」
「売れないと思う。でもマジか。井戸とかアナログすぎだろ……」
ウェインは愚痴をこぼしながら作業室の鍵を開けた。
そしてマリーと真珠を招き入れて自分も部屋の中に入る。
「こっちの扉が井戸に繋がっているんだよ」
マリーは入って来た扉と反対方向にある扉を指差して、言う。
この前は井戸を見られなかったから、今日は井戸を見てみたい。
マリーは井戸に続く扉を開けた。
井戸は裏庭のような場所に掘られていた。屋根があるので雨の日でも濡れずに水汲みができる。
マリーは井戸に歩み寄り、釣瓶を手にする。そして井戸の中に釣瓶を投げ入れた。
「マリー。危ないから下がって。井戸に落ちるぞ」
「大丈夫。落ちても死に戻るだけだし」
注意するウェインにマリーは軽く笑って、釣瓶を引き上げるためにロープを握った。……重い。
水が入った桶はびくともしない。
「STR値3なんだから無理するなよ」
マリーの能力値を知っているウェインに窘められてマリーはロープから手を離して肩を落とした。
***
若葉月5日 朝(2時55分)=5月4日 10:55
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