第五十話 高橋悠里は憧れの先輩と出かける約束をする
『アルカディアオンライン』をログアウトした悠里は自室のベッドの上で目を開けた。
ヘッドギアを外して起き上がる。
「トイレ行きたい。でも、その前に電源を切っておかないと」
悠里はヘッドギアとゲーム機の電源を切り、脱いだパジャマを持って部屋を出た。トイレにいくついでにパジャマを洗濯かごに入れよう。
悠里は階段を下りて一階へと向かい、洗濯機の横にある洗濯かごにパジャマを入れた。トイレを済ませて出た後に、洗面所で顔を洗って髪をとかす。
そうだ。朝ご飯まで時間があるし、散歩にでも行こうかな。
髪をとかしたブラシを引き出しにしまうと、トイレに来たらしい祖父と行き会う。
「悠里。珍しく早起きだな」
「おはよう。お祖父ちゃん。うん。早く目が覚めたから、ちょっと家の周りを散歩しに行こうかと思って」
「そうか。マスクを忘れないようにな」
「うん」
祖父と別れた悠里はリビングに向かった。サイドボードの上にある不織布マスクの箱から、マスクを一枚取るためだ。
「あら。悠里。おはよう。今日は早いのね」
リビングのソファーに座って新聞を読んでいた祖母が悠里に微笑む。
「おはよう。お祖母ちゃん。早く目が覚めたから散歩に行こうと思って。朝早くなら、人がいないでしょう?」
人がいないと思っても、マスクをつけるけれど。
悠里は不織布マスクの箱から、マスクを取ってつけた。
「この時間帯なら、歩いている人いっぱいいると思うわよ」
「そうなの?」
「そうよ。公園でラジオ体操をやるために集まっている人たちもいるわ。私とお祖父ちゃんも、コロナ前は行っていたのよ」
「そうなんだ。知らなかった」
「悠里はいつも7時まで寝ているものね」
悠里が祖母と話していると、母親が現れた。
「話し声がすると思ったら、悠里とお祖母ちゃんだったのね」
「おはよう。お母さん」
「おはよう。マスクなんかして、こんな朝早くから出かけるの?」
「うん。散歩に行こうと思って。昨日は全然身体を動かさなかったし」
「じゃあ、ついでにコンビニで牛乳を買ってきて。今、エコバックとお財布を持ってくるから」
「面倒くさい……」
「朝ご飯にフレンチトースト、食べたくないの?」
「食べたいです」
「よろしい」
母親は鷹揚に肯いて、リビングを出て行く。悠里はため息を吐いた。
「手ぶらで散歩に行きたかったなあ」
「エコバックを持っていても気持ちよく歩けるわよ」
祖母が悠里をなだめる。悠里が二度目のため息を吐いた直後に母親がエコバックと緑色のがま口の財布を持って戻って来た。
「お財布に千円とコンビニのカードを入れたから。コンビニのカードに千円チャージしてね。牛乳と、あとは悠里が好きな物を買っていいわよ」
母親はエコバックにがま口の財布を入れて悠里に手渡す。
「お母さんとお祖母ちゃんは、何か食べたい物ある?」
「私はプリンが食べたい。お祖母ちゃんは?」
「私はいらないわ。悠里が好きな物を買いなさい」
「わかった。じゃあ、行ってくるね」
悠里は祖母と母親に手を振って、お財布を入れたエコバックを持ち、玄関へと向かう。
スニーカーを履き、靴ひもをぎゅっと結んだ。
「行ってきます」
忘れないようにエコバックを持ち、悠里は外に出た。
5月の早朝の空は晴れ、そよぐ風が心地よかった。
悠里は白い子犬の名前を考えながら、歩く。
白いから雪。大福。おもち。青い目だから瑠璃。
男の子でも女の子でもよくて、可愛くてかっこよくてできればカブりがない名前がいい。
道行く人たちは、それぞれに皆、マスクをしている。
マスクは少し息苦しくなるのに、きちんとマスクをつけていて皆、偉い。悠里も偉い。
でも、肌がすごく弱い等の理由でマスクをつけられない人もいるので、マスクをつけていない人を嫌な目で見てはいけないと担任の先生に言われた。
「あ。可愛い犬」
悠里の前方から歩いてくるチワワを見て、思わず呟く。
コロナ禍でなかったら、飼い主に挨拶をして、撫でてもいいか尋ねて、犬の名前を聞けたかもしれない。
そうしたら、マリーの子犬の名前が閃くヒントが得られたかもしれないのに。……全部、新型コロナが悪い。
悠里の背後から軽快な足音が近づく。悠里を追い越していく紺色のジャージ姿を見つめて、綺麗なフォームで走る人だなあと思ったその時、彼は足を止めた。
そして、振り返る。
「……っ!?」
悠里は驚いて目を見開いた。
なんで、どうして藤ヶ谷先輩がいるの……っ!?
「やっぱり高橋さんだ。おはよう」
悠里を振り返った藤ヶ谷要が言う。
藤ヶ谷先輩は声も素敵だ。
「おはようございます……っ」
悠里は勢いよく頭を下げた。要が悠里に歩み寄る。
「今日は髪、おろしているんだね。ポニーテールも可愛いけど、今日の髪型も似合ってる」
「ありがとう……ございます……」
吹奏楽部の憧れの先輩に褒められて恥ずかしくてでも嬉しくて、悠里の顔が真っ赤になった。
「藤ヶ谷先輩の走るフォーム綺麗だなあと思って見てました」
「そう? ありがとう。俺、いつもこの時間に走ってるんだ。肺活量を増やすのに、ランニングするのがいいかと思って」
マスクをしていても、ウェインによく似た端正な顔立ちだとわかる。でもウェインより要の方がずっと素敵だ。
「高橋さんは買い物?」
「はい。お母さんに牛乳を買ってくるように頼まれて」
「そうなんだ。じゃあ、あんまり引き止めたら悪いね」
「そんなことないですっ。ゴールデンウィークで部活がないのに、藤ヶ谷先輩に会えて嬉しいです」
「……そう?」
悠里は何度も首を縦に振る。要は少しためらった後に口を開いた。
「あのさ。高橋さんは今日の午後って空いてる? 俺、楽器店に行こうと思ってるんだけど、よかったら一緒に行かない?」
「行きますっ」
悠里は両手の拳を握りしめて、言う。要の目もとがやわらいだ。
「よかった。じゃあ、駅の南口改札前に、午後二時でいいかな?」
「はいっ」
「あとでメッセージを送っておくから」
「よろしくお願いします。楽しみですっ」
「俺も楽しみ。じゃあ、またね」
要は悠里に手を振って、軽やかな足取りで走り去っていく。
悠里は要の姿が見えなくなるまで見送って、大きく息を吐いた。
「藤ヶ谷先輩とお出かけできるなんて、すごい」
顔が熱い。マスクをしているから、顔が赤いのがバレてはいないと思うけれど。
藤ヶ谷先輩とお出かけ。そう。決してデートではない。そんなおこがましいことを考えてはいけない。二人きりかどうかもわからないし……。
「コンビニ、行こう」
悠里は緩む頬がマスクで隠れてよかったと思いながら、コンビニに向かって歩き出した。
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