第23話 日課
「ミケ、おはよう」
「ニャウー」
ミケはちゃんと挨拶を返して、ご機嫌のようだ。
「最近はミケ島に行ったり猫大陸に行ったりで、大変だったね、ご苦労様。ところで、もうすぐお正月なんだよ。って言ってもミケには関係ないか。元旦だって、ただの『一日』だもんね。我が家も同じだよ」
留美の家は年中行事に
あっちこっちに行っていたので、こうして土手の上のミケとゆっくりするのも、久しぶりだ。
「ミケは毎日自由でいいね。そりゃあ、餌を捕ったり大変だと思うけど。人はミケと違って、いつも『自由な時間が欲しい』ってばかり言っているの。でも面白くてね、こんなに忙しいのに、その一方で、いろいろと自分で決め事を作るんだよ。日課っていうのかな。もちろん、自分の為になると思ってやるんだけど」
ミケはあまり関心が無い様子だ。
「例えば、毎日必ず日記を付けるとか、毎朝体操をするとか、必ずラジオ英会話を聞くとか、2時間以上歩くとか、色々ね」
「ニャウー?」
「あっ、日記? 自分のその日の一日を書くんだよ、毎日。将来、思い出になっていいかもね。でも、私はダメ。全然続かない。まるで『歩く三日坊主』ね」
年は開け、元旦を迎えた。留美の家は正月っ気が全然無い。飾り付けも無いれば、おせち料理もお雑煮も無い。混んでいるからと、旅行にも行かない。家にいても面白くないので、正月は近所を出歩く事にしている。いつものように、ミケの所に向かった。
「ミケ、あけましておめでとう。今年もよろしく!」
「ミャー」
返事をするミケがいつもと、何となく様子が違う。土手の上に両前足をきちんと揃えて、端座している。スフィンクスみたいだ。顔もいつになく引き締まっている。
「ミケ、何かあったの? 今日はダラダラしていないようだけど」
「ミー!」
ミケは「ダラダラ」と言われた事が気に障ったようだ。
「ごめん、ごめん。それにしても今日はどうしたの? 何だか神妙な顔して」
「ニーミャニャウオン」
「えー、日記を付けるって? 毎日欠かさず? 確かに日記に興味を示していたけど、本当に? 字書けるの? ちょっと待って、鉛筆とメモ帳出すからね」
背負っていたリュックから、鉛筆とメモ帳を取り出した。それにしても、元旦からリュックを背負って出歩いている留美も、ちょっと不思議だ。
ミケは、手渡された鉛筆を握ろうとして、早くも困難に直面していた。必死で鉛筆を
「ねえ、ミケ。やっぱり無理なんじゃない? だって、肉球が邪魔して、手を握れないでしょ。だから無理よ」
しばらく鉛筆と格闘していたミケは、諦めると、肩を落とした。もともと猫の肩は落ちているが、さらに落ちたのが分かる。
「元気を出しなさいよ。猫は日記なんて書かなくていいの。私だって三日坊主でやめちゃったんだから。意気込みは買うけど、そんな決め事なんか、しない方が気楽よ」
「ニャーオーンニー」
気を取り直したミケは、今度はラジオが欲しいと言い出した。
「ミケ、ラジオなんかでどうするの? 音楽でも聴きたいの?」
「ニャーンミー」
聞けば、ラジオ体操がしたいのだそうだ。猫のラジオ体操というのは初耳だ。新年に際して心を一新し、いくつかの日課を自分に課したいというのだ。
「うーん、私が見習いたくなるような意気込みね。よし、そこまで言うなら協力するわ。でも、日記は諦めましょうね、残念だけど」
ミケは残念そうにしている。しかし、体操と、ジョギングを考えているようだった。
「猫がジョギングって面白いわね。これで少しはスリムになるか。でも、どこ走るの?」
「ミャンミャンニュー」
「ふーん、モミの木公園まで往復するんだ。そんなに大変な距離じゃないな。でも無理しないでね。人間の場合は、命がけの決意で決め事に挑んでいる人もいるわ。例えば、遠くに見える
話しを聞いて、ミケは奮起したようだ。
「ミャー!」
「あら、やるき満々ね。じゃ、明日ラジオ持って来るから」
それからのミケは、毎日に張り合いが出たようだった。相変わらず昼間はゴロゴロしているが、朝の体操とジョギングは欠かさない。一度、朝早くそっと見に行った時も、寒い中、ちゃんとラジオをかけて体操をしていた。
ある日、南岸低気圧の通過で朝から雪交じりの
「ミー」
「わっ、どうしたの。大丈夫? 寒いでしょ」
持っていたタオルでミケを拭いてやり、傘に入れてあげた。本来なら、野良猫は野生のルールに従って、天敵や荒天にやられたら、それが自然の姿なのだが、見ていられなかったのだ。見れば、左の後ろ足に血が滲んでいる。
「怪我したの? 雪道でころんだのかな、自転車にでも撥ねられたのかな。これじゃあジョギングどころか、歩けないんじゃない?」
ミケは何を思ったのか、モミの木公園の方角を睨み付けると、足を引き
「ミケ、無理しちゃダメよ。怪我してまでジョギングすること無いじゃないの、土手の上の雨の当たらないところで安静にしてなくっちゃ」
ミケは、留美に目を
「ミケ、決めた事を守ろうとするのは立派だけど、無理するのはただの馬鹿よ! 意地っ張りよ!」
ついつい言葉がきつくなってしまった。ミケは、やっと立ち止まった。そして、もう一度か細く鳴いた。その顔からは雫がポタポタと落ちていた。
「ミー」
「あらあら、ダメねえ、無理しちゃって。私が色々と人の話しをしたからいけなかったのかしら。人はね、違うの。あなた達猫みたいに、その場その場で必要な事をこなして行く、という生き方じゃないの。頭で考えて、何か目標や決め事を作って、それを全力で達成する事が重要なの。だから、人間はついつい無理しちゃうけど、あなたは真似しなくていいわ」
ミケは寒さで小刻みに震えていた。留美はミケを土手の所まで送ってあげた。もう体操もやらなくていいからと説得して、ラジオも取り上げた。
「それにしても、猫、恐るべし、だね。なんであんなに決めた事を貫徹しよとするのかしら。何をしているかよりも、一生懸命やっているという事に自分の存在感を見出しているのかしら。あれ? それって人間みたいね」
降り続く霙の中を家に向かって歩きながら、
「猫は余計な事をしないからいいのにね。それが自然なのに。でも、そうやって考えると、どうして人間は決め事に
いつの間にか霙は雨に変わっていた。路面に少し残った雪もじきに解けるだろう。ミケが心配だから、明日も様子を見に行ってみよう。無理に頑張ろうとしていたら止めなくっちゃ、不要なんだから。
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