第19話 本番
湘南なぎさ高校へは、緩やかな上り坂を登って行く。ミケのいる土手を通り、その先のモミの木公園を通り過ぎて行く。正門が近づくと、あちこちから生徒達が合流してくる。留美はのんびり屋なので、歩くのは遅い。だから、後ろからやってきた生徒に度々抜かされる。でも、別に気にしていなかった。陸上部にいるが、走るのと歩くのは別だ。歩くのが遅くても走るのが速ければいい、と自分に言い聞かせていた。
母親も歩くのが遅かった。というか、周りの人が速い。買い物で歩いていても、ずっと年長だろうおばさんに、さっさと抜かれてしまう。母親も歩く速度なんて気にしていなかった。だから、留美と母親が一緒に買い物なんかに行くと、それはそれは、のんびりしたものだった。
「ねえ、お母さん、なんで皆んなこんなに歩くの速いかなあ」
「さあねえ、忙しいんじゃない?」
通勤、通学なら分かるが、買い物まで皆んな早足だ。買い物袋を下げて何かにせき立てられるように足早に歩いて行く。こんな時、母親は自分に言い含めるように、不思議な言葉を呟くことがある。
「これも本番なのよ」
留美には意味が良く分からなかった。別に気にしなくてもいいのだが、言葉に何か不思議な感覚を感じていた。思い切って、どういう意味か聞いてみてもいいのだが、分かってしまうのが勿体無くて、まだしばらくは、このまま謎々にしておきたかった。今の留美に分からなくても、大人になったら分かるのかもしれない。
買い物をする時は、いつもリュックサックだ。ハイキングで使っているリュックを買い物にも使っている。重いものを買った時は、手で下げるよりずっと楽チンだ。それに両手が空くので何かと便利だし、安全だ。逆に、自分の鞄を
「リュックにしたら便利なのに」
そう思うが、リュックで買い物をしている人なんか自分くらいだ。他に見たことが無い。
「留美、リュックってどういう意味か知っている? ドイツ語で背中の事よ。英語で言うとbackかな。背中に背負うから、リュックサック、ね」
母親は何故か、変な事を良く知っている。ヨーロッパに留学したことがあるからドイツ語も詳しいのだろうか。確かめるのにはちょっと気が引けた。もし、英語だけでなく、ドイツ語も堪能だとしたら、母親とはいえ、ちょっと近づき難くなってしまいそうな気がしたからだ。
学校の成績は全般に余り良い方ではなかったが、英語と生物だけはそこそこの成績だった。英語は母親の、生物はミケの影響だ。英語はあるとき地元の公民館のイベントで、母親が外国人と英語で談笑しているのを聞いて刺激された。
親からは学校の勉強についてとやかく言われた事は一度も無かった。しかし、英語については母親からレッスンを受けていた。これは親から言い出した事ではなく、自分からお願いしたのだった。学校の勉強の為、というより、英会話ができるようになりたかったのだ。母親は喜んで引き受けた。家の中で、英会話タイムを作り、一時間とか二時間とか英語だけで会話をする。質問がある場合も英語で聞かなければならない。どうしても日本語で聞きたい場合は、英会話タイムが終ってから聞くことになる。そんな事もあって英語の成績はまあまあだったのだが、高校レベルの難解な読解や文法はやっぱり駄目だった。英語の先生にはこんな風に言われた。
「留美さんは英会話はできるし、発音もいいけど、文法や構文解釈は今ひとつねえ。でも、受験では大切だから」
本人は受験の事など考えていなかった。とにかく英会話ができればそれで良かった。
いつもニコニコしてレッスンをしてくれる母親だったが、発音だけは厳しかった。文法や構文は学校で徐々に習得していけばいいが、発音は一度誤って身に付くと、一生直らないからだ。テレビで見る政治家や学者の発音を聞けば分かる。ほとんどカタカナ英語だ。
「ね、Fの発音はカタカナの『フ』じゃないの。Vと同じ口で、ちゃんと風の音をさせないと駄目よ」
高校生の留美は既にカタカナ発音にどっぷり浸かっていたため、知っている単語の発音のほとんどを矯正する必要があり、これは大変だった。まるで中学一年生に戻ったかのように、A、B、Cから始めなければならなかった。
「ミケ、おはよう。ちょっと一緒に考えてくれる? お母さんがね、『これも本番』って言う事があるの。どういう意味か分かる?」
「ミャー」
もちろん、ミケに言っても無駄だろう。挨拶は返すものの、案の定ゴロゴロしているだけだ。
「分かんないよね。私も。でも、少なくともリハーサルに対する本番だとか、受験やスポーツ大会での本番じゃないよね。だって、お母さんがこれを呟くのは、いつもなんでもない場面なの。例えば、買い物で道を歩いている時とか、掃除をしている時とか。およそ本番だ!と気合を入れるには程遠い場面ばかりだから説明付かないよね。何が本番なのかしら」
留美は、以前体験した動物の緊張した一日や、人間には何故、夢や希望が必要なのかの話しについて思い返していた。
「最初の『サバイバル世界』では、大変だった。本当に生きるか死ぬかだったわ。考えて見れば、あれは本当に本番だったね。という事は、動物はいつも本番なの? じゃあ、人間は?」
自分で問い、自分で答えていた。
「人間は社会システムや科学の発展で、生き物としての原初的な緊張感や切迫感がなくなっちゃったのよね。だから、夢や希望、それに年中行事やイベントなんかが必要になって来たんだよね、ねえ、ミケ?」
ミケは聞いているのか寝ているのか良く分からなかった。
「さて、さて、そうなると、本当に分かんなくなっちゃう。だって、人間が単に歩いたりお掃除している時間は、夢や希望やイベントなんかじゃないから、ますます本番とは言えないよね」
腕を組んで考え込んでしまった。ミケは時折寝返りを打つだけで、一緒に考えてくれているようには見えない。もっとも留美も、相談しに来たものの、それほど期待はしていない。ただ、これまでもミケはとても有意義なヒントを与えてくれる事が多かった。だから今回も、友達や両親を差し置いて、ミケの所に相談に来ている。
「うーん、難しいわね。悔しいけど、降参してヒントだけでも貰いに行こうかしら。ミケはゴロゴロしているだけだし」
見ればミケは寝てしまったようだ。本当に平和だ。住宅街暮らしの野良猫だという事を割り引いても、とても「動物は日々生きるか死ぬかだから・・・・・・」が当てはまるようには見えない。
とうとう思考が停止してしまった。でも、この平和なミケを見ていると、心の充足感を覚える。何か特別な事をしている訳ではないが、気分が落ち着く。
「こうしている時間もいいね。ただ時が流れて行って」
寝入ってしまったミケのお腹は、呼吸のたびに膨らんだりしぼんだりしている。気持ちよさそうだ。留美は、そっとミケの胸に手を潜らせてみた。
「トッ、トッ、トッ、トッ」
人間よりかなり速い鼓動が、
「あっ、そっか」
何かに気付いたようだった。
「当たり前だけど、私ってやっぱり人間ね。自分が認識している『夢や希望』とか、『イベント』と『それ以外の時間』を対比させて考えていたよ。そんなんじゃないよ」
何やら難しい事を言い始めた。
「そう、ミケを見れば分かるわ。これはミケだけじゃなくて自分も同じ。頭で考えた色々な事を並べたり比べたりする以前に、生き物なんだよね、皆んな。何をしていても、呼吸をしているし、心臓は鼓動しているわ。そっか」
ミケをそっと撫でて言った。
「ありがと。また、教えてもらったね。お母さんの『それも本番』の意味が少し分かった気がする。だけどね、お母さんにはやっぱり聞かないわ。聞いて違っていたらがっかりだもの。でも、今日、ミケと一緒に見つけた事は素晴らしいわ。目に見えないけど、宝物になるかも」
ミケをそのままにし、家に帰ることにした。今度機会を見て、自分から母親に、
「ねえ、お母さん、これも本番よね」
と言ってみよう。どんな反応をするだろう。
「英会話タイムに英語で言おうとしたら、どうなるかしら。私には難しすぎるか。『still at precious time』なんてどうかな。でも『let it be』なんかも感じが近そう」
そんな事を考えながら家路についた。
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