第13話 猫のジョナサン

「ミケ、ほら、あと十メートル!」

 ミケは最後の力を振り絞って走った。ゴール。留美はスマホのストップウォッチを止め、ため息をついた。

「うーん、あんまり速くないわねえ。いつもゴロゴロしているからかしら」

 普段なら怒った様子を見せるミケだが、走った後でぐったりしている。怒る元気もなさそうだ。これで三本目だ。

「今日はこのくらいにしようか。これでは地区予選にも出られないわよ」

 ミケは、しゅんとして留美の後を付いていった。

 高校に行く途中のモミの木公園は、走る練習にちょうど良かった。真ん中にあるモミの木まで往復すると、ちょうど五十メートルくらいある。

 もしかしたらミケが俊足かもしれないと、試しに記録を取ってみたのだった。余り期待はしていなかったが、結果はやっぱり芳しくなかった。

「うーん、これは練習すればいいっていうレベルじゃないよね」


 翌週も留美とミケはモミの木公園に来ていた。練習の準備をしていると、猫が一匹近づいて来た。

「ニャン!」

 ミケはそちらの方を見て鳴いた。猫同士で縄張り争いでも始まったら大変だと思っていたが、どうやら知り合いのようだ。ちなみに、採餌さいじなどの環境が良い場合は、群れとは違うが複数の猫が一緒にいるという事もある。

「お友達ね。名前付けちゃおうかなあ。ぶち猫だから、ブチでいい? ちょっと短絡的だけど」

「ニャー」

 ブチと名づけられた猫は軽く鳴いた。問題ないようだ。ブチは顔の真ん中から胸に掛けて白く、スラッとして気品がある。ちょっとミケとは違う。

「ねえ、ブチ。もし良かったら走ってみる? 時間、測ってあげるから」

 ブチは尻尾をくるりと回して、了解の意を表した。

「それじゃあ、そこの線の所に来て。ほら、ミケも一緒よ」

 留美をブチに取られたような気がして、ミケはちょっと面白くなさそうな顔でスタートラインに立った。スマホのストップウォッチを準備する。

「あのモミの木を回って、ここまで戻って来るのよ。じゃあ、行くわよ。ヨーイ、ドン!」

 二匹の猫は飛び出した。次の瞬間、もう差がついていた。ミケが遅れている。

「ミケ、頑張れ!」

 声援に応えようとするが、ブチにどんどん離される。ブチが矢のような速さでゴールした。

「はい、ゴール! うわっ、凄い。これって『猫五十メートル走』の日本新記録まで、もう少しよ」

 ちょっと間を置いてミケがゴールした。もう、ヘトヘトの様子だ。

 そんなミケには構わず、ブチに話しかけた。

「あのね、思うんだけど、ちゃんと練習したら日本記録、いや世界記録だって出ちゃうかもしれないよ。もし練習するなら私がコーチをしてあげる。部活で陸上やっているから練習方法はまかせて」

「ニャオー」

 ブチは、留美と頑張ってみる事にした。


 疲れきったミケが仰向けになっていると、重い瞼の隙間から、別の猫が目に入った。こちらに来る。見れば、こちらもミケの友達だった。ミケは起き上がりながら挨拶した。

「ニャウン!」

 留美もその猫に気付いた。

「あら、もう一匹来たわ。ミケのお友達ね。そういえば以前、二匹お友達がいるって言ってたもんね」

 やってきた猫は、これもスタイルのいい、精悍な顔つきのとら猫だった。

「また、名前付けちゃっていい? 今回も安直だけど、『トラ』でいい? だって、とら猫だもん」

「トラ、はじめまして。留美よ。今、ブチの短距離走の記録を取っていたの。速いんだ。びっくりしたよ」

 すると、トラは何を思ったのか、ぴょんぴょんと高く跳ねる仕草をした。

「あら、トラ、もしかして高く跳ぶの得意? ちょっとやってみようか」

 高飛びの棒の代わりに、横にまっすぐ腕を伸ばした。高さは120cmくらいだろうか。ミケは、相変わらず面白く無さそうな顔で、その様子を見ていた。

 トラは数メートル後ずさりすると、腕の方に向かって猛然とダッシュし、腕の手前で音もなく飛び上がった。伸び上がったしなやかな体が、ゆっくりと弧を描いて腕の上をかすめていった。

「わっ、トラ、凄い! これって、猫走り高跳びの日本新記録を超えてるかも。ちゃんと測ってみたいわ」

 ブチに続いてトラの妙技にすっかり感心してしまった。この二匹は、訓練すれば、モノになりそうだ。

「私は走り高跳びはやってないけど、陸上部でやってる友達に、練習方法なんかを聞いておくわ。だからトラも一緒に練習しようよ」

 少し元気になったミケが、留美の関心を引こうとした。

「ニャウニャウ!」

「あら、ミケ。あなたも高跳びやってみたいって? いいわよ」

 再び腕を水平に伸ばした。ミケはトラの真似をしてダッシュし、腕の手前で思いっきりジャンプした。しかしミケは、トラの半分の高さにも達しないまま、腕の下を通過したと思ったら、ドスンと着地した。

「あっ、ミケ、大丈夫? 無理しなくていいのよ」


 こうして留美と二匹は、記録を目指して練習に励む事になった。ミケはかまってもらえなくて不満だったが、それだけでは済まなかった。

「ミケ、お願いがあるの」

 ミケは、久しぶりに嫌な予感を覚えた。留美がこんな風に言う時にはろくな事はない。

「あのね、ブチとトラの分の餌捕りやってほしいの」

「ミー?」

 ミケは驚いた。友達とはいえ、自分で食べるものは自分で捕るのが猫の常識だ。

「ブチとトラは世界記録に挑戦するでしょ。そうすると、いっぱい練習しなくっちゃいけないの。だから、餌を捕っている時間がないの。分かる? ね、お願い!」

 留美はミケの前で手を合わせている。これでは断るのも気が引けた。ミケは嫌々ながら、承諾した。

「ニャウ・・・・・・」

「わっ、ありがと、ミケ。さすがね。ブチとトラが世界のひのき舞台に立ったときには、ミケも縁の下の力持ちとして、誇らしいと思うよ」

 採餌の手間隙から解放された二匹は練習に打ち込んだ。記録はじわじわと伸びていき、最初の目標である猫日本選手権が近づいてきた。


 ある日の練習中、ブチが軽く足を引きっているのに気付いた。

「あれっ、ブチ。足が痛いの? 練習のし過ぎかなあ」

 見れば、トラも調子が悪そうだ。さかんに後ろ足首を舐めている。心配になったので、二匹を獣医へ連れて行った。待合室にいる間、二匹とも元気がなさそうだった。診察をした獣医は言った。

「これは、疲労骨折ですなあ。二匹ともまだ若いのに、これは珍しい。人間は若い人でもスポーツの練習で無理すると、疲労骨折になるんだがね。動物は無理したりせんから普通は疲労骨折はしないんだよ。疲れたら休むし、必要以上に体を酷使もしないからね」

 獣医の話しを聞いて、陸上の練習をしているとは言い出せなかった。

「少し骨にヒビが入っているので、一ヶ月くらいは安静にしてください。それで自然に治っていきます」

 留美はお礼を言うと、獣医院を後にした。

「ねえ、ブチ、トラ、そういう事だから、しばらく練習はお休みね。そうすると、猫日本選手権にも出られないか。残念だね、あんなに一生懸命練習したのに」

 二匹が可哀想だった。でも、怪我ではどうしようもない。コーチとしての責任を感じていた。そこで、ミケの事を思い出した。ミケにこの事を伝えて、それから、二匹が完治するまで引き続き採餌をお願いしないといけない。

「あー、ミケは怒るかな、さすがに」


 公園に留美と猫達が集まっていた。ミケは二匹に対してをしているようだった。

「ミャウー、ニャニャニャン、ニャー!」

 体を壊してまで無理する猫があるか、と言っているらしい。猫は与えられた体で、無理をしなくてもちゃんと生きていけるように出来てるんだ、と偉そうな事を言っている。

「ミケ、もう許してあげて。怪我して可愛そうなんだし。私も悪かったわ。ミケ、ごめんね」

 真剣な眼差しで謝っているので、ミケは二匹を叱るのをやめた。でも、本当に不満そうな顔をしている。それもそのはずで、これから怪我が治るまでの一ヶ月間、この二匹の採餌をしなくっちゃいけないのだ。

 留美は考えてしまった。

「確かに人間は、仕事も勉強もスポーツも、結構、無理してやってるわね。どうしてかしら。それで体や心を壊す人がいっぱいいる。なんで、普通にできる範囲で出来ることだけをやっていてはいけないんだろう。そういう私だって、部活で一秒でもタイムを縮める為に一生懸命やっているけど。ギリギリまで頑張るのは、例えば怪鳥や猛獣に襲われた、その瞬間だけでいいのに」

 ちょっと現実と、以前行ったサバイバル世界がごっちゃになっているようだった。そして、思い出した。

「そう、以前の話しでは、猫には夢も希望も無くて、それでいいんだ、なんて言ってたっけ。なのに、私が夢と希望を与えちゃったのね。悪い事したかな、人間の流儀に巻き込んじゃって」


 ふと見ると、モミの木の横にタワーのような物ができていた。オリンピックなんかの高飛び込みの飛び込み台に似ている。モミの木よりも高かった。しかし、下にはプールはなく、ただの地面だ。

 アナウンスが流れる。

「それでは、高飛び協会主催の、選手権大会を開催します」

 周囲には人だかりが出来てきた。それにしても「高飛び」なんて聞いたためしがない。

「それでは、五メートルから始めます。一番の選手どうぞ」

 最初に呼ばれた選手は五メートルに設定された、飛び台の上に立った。服装はジョギングでもするような軽快な格好だ。選手は呼吸を整えると、体をゆっくりと前に倒し、飛び降りた。地面に接するや否や、選手は体を上手に回転させ、地面を転がった後、立ち上がった。

「おー!」

 集まった観衆から歓声が上がり、拍手が起こる。

 こうして選手達は五メートルをクリアした。

「さて、次は一気に十メートルです。これをクリアすれば、日本タイ記録になります。それでは一番の選手から」

 先ほどと同じように一番の選手が飛び降り台に立った。しかし、今度は十メートルの高さだ。さっきより圧倒的に高度感がある。観衆は、選手の立つ高さを目の当たりにしてどよめいている。

 一番の選手は颯爽と飛び降りた。地面の上をうまく転がろうとするが、途中、姿勢が乱れ、回転中に手足を伸ばしてしまった。その時、

「パキッ」

 という小さな音がした。留美は思わず目をつむった。

 地面で横になったまま選手は唸っていた。すると、まるで用意されていたかのようにすみやかに担架がやってきて、選手を近くのバスに運んで行った。あの中で診察するのだろうか。少しして、アナウンスがあった。

「一番の選手は膝の骨折です。命に別状はありません。それでは、二番の選手、お願いします」

 二番の選手は先の選手の骨折に特に驚く様子もなく、躊躇せず飛び降りた。地面を綺麗に転がり、立ち上がった。歓声と拍手が起きる。

「はい、二番の選手、成功です。日本タイ記録です! おめでとうございます。それでは、三番の選手どうぞ」

 三番の選手は、前の選手の成功を見て興奮していた。我をもと、気張ってジャンプした。しかし、空中で姿勢を崩し、腹ばいに落ちて鈍い音を立てた。速やかに担架でバスに運ばれた。先ほどより長いを置いて、アナウンスがあった。

「三番の選手は、内臓破裂で重態です。医師が懸命な治療をしていますが、予断を許さない状況との事です」

 留美は驚いていた。というより、選手達には悪いが呆れていた。

「なんだろう、これは。スポーツなんだろうか。肉体の限界に挑戦しているという意味ではそうなのだろうが、何かおかしい」


 休憩時間になったが、司会はまだアナウンスを続けている。

「この競技の優勝者には、欧米へのスポーツ留学の道が開けます。また、大手企業のスポンサーがついて、収入も得られます。我が協会としては、高飛びを全国的に普及したいと考えています。若干のリスクはありますが、リスクの無いスポーツなんてありません」

 留美は、アホらしいと思ったが、この司会者に質問をしてみた。

「あのー、これ、なんか役に立つんですか」

 考えてみれば、自分がやっている陸上だって、何かの役に立つかと言われれば答えに窮するかもしれない。

「はい、そこのお嬢さん、いい質問ですね。これは、自分自身の安全を守るメリットがあります。こんな場合です。ジャングルで猛獣に追い詰められ、背後は絶壁だというとき、高飛び降りの技術があれば、生き延びられます。もっと実用的な事例があります。あなたがビルに泥棒に入った時、もし、見つかって追い詰められても、ビルの窓から飛び降りて逃げおおせるでしょう。いかがです? これほど役に立つスポーツはありません」

 もう、反論する気も起きず、三匹の猫と一緒にモミの木公園を後にした。










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