第12話 善悪
夏も盛りを過ぎ、朝晩は涼しい風が時折頬を撫でてくれる。いい季節になってきた。綺麗な鳴き声を聞かせてくれていたオオルリやイソヒヨドリなんかの夏鳥達も、そろそろ旅支度を始めているだろう。
「ミケ、おはよう。元気?」
「ミャウ!」
留美の挨拶に明るく返す。相変わらずミケは元気そうだ。
「人の世界って、法律があるの知ってる? 知らないよね。法律があるお陰で、社会はうまく維持されているんだよ」
「ニャー」
「法律では、例えば人の物を盗んじゃいけないとか、人を傷つけたり殺したりしちゃあいけないって定めているんだ。でも、当たり前の事よね」
「ニャウン!」
「えっ、違うって? 当たり前じゃないって?」
「ニャオオン、ニャア、ニャア」
ミケは猫の世界、いや動物の世界について留美に伝えようとした。
「うーん、でもやっぱり分からないわ。だって、盗んだって何したっていいって言ったら、めちゃくちゃな社会になっちゃうよね。文字通りアウトローの世界で、怖くて外を歩けないよ。そう、あのサバイバル世界みたいになっちゃうかも」
そう言った時、眼前の景色がゆっくりと流れ始め、ぼやけてきた。
◇ ◇ ◇
留美は一目見て、そこがあのサバイバル世界だと分かった。ここに来るのはもう三回目だ。
「あー、また来ちゃった。ここにだけは来たくなかったんだけどなあ」
少し慣れてきたのか、怪鳥や猛獣に対する警戒にも余裕が見えた。
「さて、ここは? あっと、うん、大男のりんご園だ」
近くにいた、
「おや、また来たのかい。今日は朝からちょっと天気が怪しいんだ。大雨になると、その川は氾濫して大変な事になる。気をつけな」
なんだか妙に親切に教えてくれる大男に、質問してみた。
「ちょっと聞きたいんだけど、ここには法律なんてないよね。何でもやり放題。例えば、誰かが来て貴方のりんごを盗んだらどうするの?」
「『貴方のりんご』? ああ、この辺りは俺の縄張りだが、別にりんごは俺の所有物なんかじゃないよ。今はたまたま俺が頑張って守っているだけさ。盗まれたらって? 盗もうとするやつと戦うさ、もちろん」
大男は、さも当たり前のように答え、腕に
「そっか。でも、戦って負けたらどうするの?」
「その時は、このりんご園は、そいつの物さ。俺は出て行く。また別の縄張りを探さないとな」
留美はやっぱり厳しいな、と思った。でも、盗んだやつは生き延びるためにやっただけで、法律がどうのこうのと言ってもしょうがない気がした。盗もうとしたやつを悪人と決めつけてしまうのには、なんだか抵抗を感じる。
その時、ふいにひょろっとした男が現れた。留美をじっと見ながら近づいてくる。怪しい雰囲気だ。その痩せ男は目の前までやってきた。すると、留美の周りをゆっくりと回り始めた。
「あっ、な、なんなのこの人?」
気味が悪くなって、くだんの大男に助けを求めた。
「ねえ、ちょっと助けてよ。この変なやつに付きまとわれてるの」
留美の世界なら、これは真っ先に不審者扱いされるか、ストーカー条例違反だろう。
大男はそれを見て笑っていた。
「俺は関係ねえ。お前さん、自分でなんとかするんだな。ここはそういう所だよ」
大男は留美の救援要請をあっさりと退けた。
「ん、もう。肝心な時に助けてくれないんだから」
「あー、俺は正義の味方じゃないからな。ここには正義なんてないしね。だから善人なんかじゃない。あえて言うなら、自分が自分の為にやっていることは全て正義さ。だから、人によって正義は皆んな違う。お前さんの世界の法律とやらは、同じルールを万人に共通にしようとしているんだから、そもそも無理な話しだよな」
大男は、留美が聞きもしていないことをべらべらとしゃべった。今日はやけに饒舌だ。見かねたのか、大男は一つヒントをくれた。
「教えてやるよ。その痩せ男はお前さんと仲良くしたいだけさ。いやなら、しばらく嫌がった態度を見せれば、いなくなるよ」
言われた通りに、痩せ男を右へ左へとよけた。別に飛び掛ってくる様子はない。五分くらい経っただろうか。痩せ男は、すごすごと去っていった。
大男の方を見ると、笑っている。
「ほらね。その男は、別にお前さんをとって食おうとしている訳じゃない。気に入られようと一生懸命なのさ。ただ、決定権はお前さんにある。受け入れるか、拒絶するかね」
分かりやすいルールだと思った。ただ、何かが人の世界とは違う。確認のため質問してみた。
「でも、意味もなく襲われたりする事はないの? 喧嘩したり」
「ないね。ぶつかり合う時は必ず意味がある。食べ物を確保したり、メスを獲得しようと争ったりね」
留美は感心したように頷いた。
「ふーん。じゃあ、それで殺されてもしょうがないの?」
「ああ、自分が弱かっただけさ。でも、その死には意味がある。勝ったやつがちゃんと生き延びるからな」
それを聞いて、複雑な思いだった。こんな風には考えられないだろうか。人の世界では意味のない殺人をするやつがいる。だから法律で禁じている。法律は強制できないと意味がないから警察がいる。一方、ここでは意味のない殺人はない。だから法律は要らない。だから警察もいない。
気がつくと、大男はいなくなっていた。縄張りの巡回に出たのかもしれない。
「ここは、皆んなギリギリで生きているから、意味もなく他人を襲ったりしないのね。襲う方もリスクがあるし、お腹すくし。何を持って善人か悪人かなんて、定義できないかも。でもそうやって考えると、人の世界は何か変だなあ。法律が良い悪いを仔細に決めている」
その時、雷鳴が響き渡った。西の空が真っ黒になり、雨粒がポツポツと落ち始めた。
「あっ、いけない、川岸から離れなくっちゃ」
雨が降っていなくても、上流が大雨なら洪水は起きる。これも父親から教わった事だ。
川から離れて高台に途中まで上った所で、川は濁流となって溢れ始めた。さっきまでいた場所は、もう渦巻く流れの中だ。
留美は土砂降りの雨に降られていた。普段の水シャワー訓練が役に立っている。雨に濡れても結構、平気だ。
「ここのルールは厳しいけど、とっても分かりやすい。これなら何百ページにも及ぶ法律書なんてものは要らないわね。人の法律は、弱者を守るためかしら。でも、ここでは弱者は襲われるけど、意味なく襲われることはないよね。だって弱者を守っては、強者が困るもん。うーん」
眼前の雷雨に煙る草原の光景が
◇ ◇ ◇
留美はミケに話しかけていた。
「また、サバイバル世界へ行っちゃったの。もう嫌だと思ったんだけど、なんか少しずつ、あの世界の事が分かってきた気がする。まんざら悪くもないかも」
ミケは、目を細めて軽く鳴いた。
「ミー」
「えっ、嬉しいですって。私があの世界を少しでも分かってくれて? そうねえ、でも、他の人に話しても理解してもらえないと思う。いや、お父さんなら分かってくれるかな。ちょっと変わっているから」
留美は、まだ考え込んでいるようだった。その時、ミケの頭上をホバリングしていたハナアブが、矢のように飛んできたツバメにパクッと食べられた。一瞬の出来事だ。
「人以外は、ここもサバイバル世界なんだよね」
ふと、そんな風に思った。
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