第7話 夢と希望
「ミケ、おはよう」
「ミー」
いつもの挨拶を交わすと、留美は話し始めた。
「聞いて。学校の友達で、すっごくピアノが上手な子がいるの。それでね、ピアニストになるのが夢だって。羨ましいなあ、そんな夢があって」
「ミュウ?」
「えっ、私? 私はそういう夢はないわ、今のところ。夢っていうか、希望とか目標はあるわよ。志望校に合格するとか、部活でやってる陸上で県大会に出場するとか。ミケはどうなの? なんか目標とかあるの?」
「ニー」
「無いか。ま、猫だもんね。あっ、ごめん。怒らないでね。でも、人間って、夢や希望、目標が必要なの。無いと困るの、分かる?」
「ニン?」
「分からないわね。あのね、例えば夢や希望がなくなっちゃうと、引き籠ったり、
首を
「だから、学校ではいつも、希望を持てとか目標を持てって言われるの。あぁ、でもウチの親は何にも言わない。ピアノのレッスンどころか、習い事も学習塾も全然行ってないもん。ウチの親はそういうの関心無いみたい」
ミケはやっぱりよく分からないという顔をしていた。
「ミケは夢や希望なんか無くても、平気だよね。いつも泰然として、我が世の春を行くみたいな平穏な顔してるもんね。そう、つまり『ミケ島』の暮らしよね、毎日が。朝が来て、夜が来て、また朝が来て・・・・・・」
ミケ島での出来事を思い返していた。その時、ミケは反論するように鋭く鳴いた。
「ミャミャミャン!」
「何々? 我が世の春じゃ無いし、平穏でも無いって?」
「ミー!」
「あっ、この間、ミケが言っていた事ね。外敵にいつ食べられるか分からないという話し。でもね、外敵にちょっと気を付けていれば、後は食べて寝るだけでしょ。楽チンじゃない。人間の世界では、そんなの怠け者って言われちゃうよ。落ちこぼれだ、なんてね。やっぱり夢と希望を持って日々努力しなくっちゃ」
ミケは動物を揶揄されたのが面白くないのか、なんとなく憮然としていた。
留美は呟いた。
「あーあ、でも、そういう楽チンな世界があったら私も行ってみたいわ」
◇ ◇ ◇
留美が見ると、目の前には草原が広がっていた。
「んー、ここはミケ島じゃあないなぁ。ミケ島ならどこにいたって海が見えたし」
振り返ってもミケの姿は無い。土手もビニールハウスも無い。その代わり、背後には森が広がっていた。
「どこだろう、ここは」
そう思ったとき、何も無い青い空の真ん中に、黒い点が見えた。その点はゆっくりと大きくなっていく。
「ん?」
ただポカンとして見上げていた。それは見る見る大きくなり、急速に近づいて来た。直ぐ近くまで来たとき、突然大きな翼を広げた。広げた翼は3メートルもあるだろうか。大きな
留美は慌てて後ろの森に飛び込むように転がり込んだ。その怪鳥は急ブレーキを掛けると、森の上に舞い上がった。森の中までは追って来ないようだった。森の木を透かして上を見ていると、怪鳥はしばらく旋回をした後、ゆっくりと去っていった。
「あー、危なかった。それにしても、なんだろう、あのお化け鳥。確かに私を狙っていたわ」
もちろん、鳥に襲われるなんて初めてだ。これでは怖くて草原に出られない。森の中を歩いてみることにした。他に人影は無い。まだ、何がどうなっているのか、さっぱり分からない。一つ言えるのは、ここはミケ島のように安全な所ではない、という事だ。サバイバル世界、とでも言おうか。
森の奥に
「あっ、人がいるのかな。車の明かりかも」
光の方へ歩いて行った。ミケ島のヘリコプターのように、トラックが食料を運んできてくれたのかもしれない。近づくと、樹間から見えていて光は、横に並んだ二つの点になった。
「あれっ」
足を止めると、光の方から留美へ近づいてきた。斜めに差しこむ日差しに照らされたそれは、虎の顔だった。虎の目が光っていたのだ。
「わっ!」
よく見ると、虎ではない。虎より一回りも大きい。上あごから二本の牙が突き出している。いずれにしても猛獣で、留美を狙っているのは一目瞭然だった。
とっさに近くの木に登った。木登りは得意ではないが、そんな事は言ってられない。手足に引っかき傷を作りながら、全力で登った。
「ヒョウみたいに木登りするやつだったらどうしよう」
自分の命の危険を感じた。高校生になるまでいろいろと危ない事も経験したが、自分が死ぬかもしれないと本気で感じたのは、これが初めてだ。
猛獣は留美のいる木の下をしばらくうろつき、時々上を見上げていたが、やがてどこかへ行ってしまった。
「あー、助かった」
緊張が解けて、木の上でしばらく放心状態になっていた。見れば隣の木の枝にはお猿さんがいて、こっちを見ている。
「あら、これでは私もお猿さんね」
ちょっと生気を取り戻した留美は、辺りを見渡した。無我夢中で随分と高いところまで木を登ったので、遠くまで見渡せる。
「そう、ミケ島の時と同じで、まずは水と食料を探さなきゃ」
すっかり落ち着いた留美は、遠くにキラキラと照り返すものを見つけた。
「あっ、水かも。川が流れているみたい!」
そして、その川沿いに、少し低い木の林がずっと続いているのが見えた。何の木かは分からないが、実が成っているようにも見える。そうであれば食べられるかもしれない。
木を降りてそこに行ってみることにした。猛獣を警戒しながら地面に降り立った留美は思った。
「あそこに行くためには、草原を横切って行かなくっちゃいけない。うーん」
しかし、他にどうすることもできなかったので、上空を警戒しながら草原に飛び出した。一気に走る。日ごろ陸上部で鍛えた足が役に立った。見る見る川面が近づいてくる。怪鳥に襲われる事なく、林の下に潜り込んだ。
全力で走った留美は息を整えるのにしばらく時間がかかった。こんなに真剣に走ったのは初めてだ。よくオリンピックなんかで、
「命懸けで試合に臨みます」
なんていう言葉を聴くが、この時の留美は、まさに命懸けで走った。大会で優勝を目指して走った訳ではなく、そうしなければならなかったから走った。
落ち着いた留美は、林の木を見上げた。確かに果樹だ。季節が良く分からないが、りんごがたわわに実っている。
「うわっ、やった、りんごだ!」
その一つをもぎ取とろうと手を伸ばした。その時、後ろから声がした。
「こらっ、ここは俺の縄張りだ。欲しいんなら力ずくで取ってみな」
見れば、屈強な大男がニタニタしている。腕力では歯が立ちそうに無い。すごすごと引き下がった。
少し歩くと、今度はバナナ園に出た。ここでもバナナがたわわに実っている。手を伸ばしかけたが、念の為、辺りを確認した。
「あっ、やっぱりいたっ!」
見れば太った女性が棍棒のようなものを片手に仁王立ちし、こちらを見ている。今度は留美の方から言った。
「あっ、ここ、貴女の縄張りですよね、失礼しました」
小走りにバナナ園を通り抜けた。
しかし、その後も、果樹はいっぱいあるのだが、必ず縄張りの
途方にくれていると、川岸に十本ほどの柿の木を見つけた。見回しても誰もいない。
「ここもたぶん誰かの縄張りだと思うんだけど、どこかにでかけているのかなあ」
ちょっと待っても誰も来なかった。やがて留美は、思うようになった。
「ひょっとして、ここは誰の縄張りでも無いかも。そうであれば、ラッキー! 私の縄張りにしちゃおう」
日が傾き、柿の木の影が長く伸びる頃、決心した。もう我慢できない、この柿を食べよう。そう思うやいなや、柿に噛り付いた。
「うわっ、渋っ!」
それは渋柿だった。一瞬
「少なくとも、死ぬ事はないだろう」
二、三個食べた後、口の中は渋でいっぱいになった。今、何か別のものを食べたとしても味はさっぱり分からないだろう。しかし、幸いなことに、しばらくしてもお腹は大丈夫なようだった。
ゆったりと流れる川の向こうには、大きな夕日が
留美は柿の木の下に草を敷いて寝床を作り、横になった。大変な一日だった。いや、終わったわけではない。これから長い夜が始まるのだ。
では、夜が明けたらどうだろう。また繰り返しだ。一日中外敵に注意し、より良い縄張りを探す。時には縄張り争いもあるかもしれない。留美は走るのは得意だったが、もちろん喧嘩は苦手だ。というか、これまで殴り合いの喧嘩なんてやったことが無い。でも、ここではそれが最大の武器で、より生存確率を高めてくれる。
外敵への警戒でなかなか寝付けなかったが、こんな時でも眠気はやってくる。満天の星の下、留美は草のベッドで寝息を立て始めた。
◇ ◇ ◇
「ミャウー」
「ん?」
目を開けると、ミケが留美の頬を舐めていた。視界には、ミケ、それに土手とビニールハウスが入ってきた。いつもの場所だ。
「怪鳥は? 猛獣は?」
「ミー」
ミケは目を細め、髭をだらんと垂らして留美を見ている。
「んー、そうそう、食べて寝るだけの楽チンな世界があったら私も行ってみたい、って思っていたら、急に変な世界に飛んでっちゃって」
怪鳥と猛獣、そして草原と果樹園の広がるサバイバル世界を思い返していた。
「あっ、もしかして、あれが、その世界なの? 全然楽チンじゃないじゃない!」
外敵に襲われた事を思い出すと、恐怖で身震いした。
「外敵の恐怖はすごかったし、食べ物を得るのも大変だった。全然気を休めるどころじゃなかったわ」
「ミー、ミウー」
「えっ、やっと分かったくれたかって? 分かるどころか、思い知らされたよ、ミケ。動物の世界って本当に厳しいね」
少し落ち着いてきて、呼吸を整えると続けた。
「そっか、野良猫のミケだって平和そうに見えても、大変だよね。安全も食料も保証されている訳じゃないもんね。縄張り争いだってあるし。あれじゃあ、人間の世界のように、夢や希望を考えている暇なんか無いわ。サバイバル世界では、歩くのも食べるのも寝るのも命懸け、何もかも真剣勝負だったもの」
自分で言っていて、何かにはたと気付いた。
「もしかしたら人間は、科学文明によって、なんでもない日常の中に動物的な意味での真剣さを失ってしまったから、ごちゃごちゃし始めたのかもしれないね。だから、夢や希望が必要なんだ。何かで入選するとか、優勝するとか、合格するとか、地位名誉を得るとか、遊園地に行くとか、旅行に行くとかしないと、日々が充実しなくなっちゃったんだね」
留美は、一気にそう話した後、自分にしては、なんだか哲学的な事を考えたかも、と思って少し満足げだった。
「考えてみれば、人間以外の動物は全部、鳥や昆虫なんかもぜーんぶ、夢も希望も目標も無く暮らしているんだよね、でも、一瞬一瞬が真剣で命懸けだから、毎日が単調に見えるかもしれないけど、暇を持て余したり、心を
色々と教えてくれたお礼に、ミケの首元を撫でてあげた。
「ありがと、ミケ。また少し動物の気持ちが分かった気がする。でも、ミケにとって、食べる、寝る、が真剣なのはよく分かったけど、ちょっと長く寝すぎじゃない? いつも土手の上でごろっとして」
「ミーーー!」
「あー、ごめん!」
怒ったミケから逃げるようにして、留美は家に向かって駆けていった。
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