第2話 肉球

 ミケは、通学路に毎朝いるわけではなかった。むしろ見かけない事の方が多い。雨の日もいないが、どこかで雨宿りでもしているのだろう。ミケがいると、留美は軽く挨拶する。

「おはよう、ミケ」

 ミケはいつものとおり、目を細めてじっとしたまま、

「ミャー」

 と小声で返事をしてくれる。留美にとってはそれだけでも一日が明るくなったようで嬉しい。人間だって挨拶を返してくれない人がいる中で、ちゃんと返事をしてくれる猫は貴重だ。

 少し学校にも慣れてきた。友達、担任の先生、部活・・・・・・

 同じ中学から、遠くの私学に行くことになった友達は、電車通学が大変だと言っていた。留美は歩きなので満員電車も無くて、楽チンだ。ただ、まだ「定期券」というものを持った事がないので、電車通学はちょっと羨ましくも感じた。


 ミケは、通学時関帯よりも、もう少し朝早いほうが土手の上にいることが多いようだ。留美は日曜日の朝、7時くらいに家を出て、土手に行ってみた。日曜日なのに朝早く出て行く留美を母親は不思議そうに見ていた。日曜日は、いつも遅くまで寝ているのが普通だからだ。

 どうしてどうして、思った通りミケはいた。立ち上がってウロウロしている。これから出かけるのだろうか。

「ミケ、こんにちは」

「ミャー」

 いつもの挨拶が交わされる。天気はまずまずだ。雲は多いが時折、日が差す。まだ、暑いというほどの季節ではなく、過ごし易い。朝はちょっと肌寒いが留美はもう半袖でいた。

「ミケ、半袖で来ちゃったから、ちょっと寒いよ。でもミケは裸だからもっと寒いよね」

「ミー」

 ミケは留美の方を見て軽く鳴いた。ミケが、

《いや、そんな事ないよ、慣れてるから》

 と言っているように思えた。もちろん耳に聞こえてくるのは「ミャー」とか「ニャア」という鳴き声だけで、言葉ではない。ただ、なんとなくミケのが分かるような気がした。

「でも、いつも裸だから、おしゃれもできないよね。靴だって履かないし」

 ミケは、留美を少し上目で睨むようにして鳴いた。

「ニャオーン」

「えっ、肉球があるから、靴なんか要らないって?」

 ミケがそう言っているように思えた。するとミケはゴロンと横たわり、手足のストレッチをするように寝返りを打った。そして、前両足の肉球を誇らしげに留美に向けた。

「うん、ちっちゃいけど、立派な肉球ね。さわっていい?」

「ミャウ」

 そっと肉球に触れてみた。ザラザラしている。押すといい感じの弾力性があった。うるさい人なら、

「野良猫の足に触るなんて、バッチイ事、やめなさい!」

 と言うかもしれないが、全然気にしていなかった。元々、森も土も人間も細菌だらけだ。それでもちゃんと生きられるように進化してきている。父親の影響かもしれないが、そんな風に思っていた。父親は、それほど本格的にという訳では無いが、なんとなくアウトドア的な事が好きだ。仕事はエンジニアをしているので、趣味は仕事とは全然関係ない。なので、ハイキングやキャンプなんかに時々一緒に行く。時には藪を漕いだり、泥だらけになったりする事もあるので、猫の足くらいなんでもない。

 そんな時、留美はふと、以前目撃したある場面を思い出していた。何年か前だが、コロコロとアスファルトの歩道の上を転がっていく十円玉を小さな子供が追いかけていた。十円玉は雨上がりに出来た小さな水溜りにチャプンと入り、止まった。それを取ろうとした子供に後ろから、その子供の母親の声が飛んだ。

「バッチイから、触らないで! そのままにしといて」

 母親は自分が落としたであろう十円玉を放置して、子供と一緒にさっさとその場を立ち去ってしまった。

 留美にはそれが何故「バッチイ」のか良く分からなかった。お小遣いの足しにと、拾って帰って、その事を父親に話した。父親は良くやったと言わんばかりに頭を撫でてくれた。

「留美、全然バッチくないよ。よく拾ってきた。十円だって、お金は大切だよ。本当は交番に届けるといいけど、まあ、十円くらいいいだろ」

 留美は褒められて鼻が高かった。


「ミャアア」

 留美は辿たどっていた十円玉の記憶から目の前のミケの「肉球」に引き戻された。留美は肉球に感心していた。これなら高いところ飛び降りてもクッションになる。それに、獲物に音を立てずに近づくことができる。さらに、速く走るのにも役に立つのだろう。最速の動物であるチーターだって、足は肉球だ。今、流行はやりのクッションタイプのランニングシューズをまとっている感じだ。


◇ ◇ ◇


 留美は、自分の両足を見た。足の裏が大きな肉球になり、歩く度にぷにょんぷにょんする。周囲の人は裸足で歩いている留美を好奇の目で見ている。留美は周りの視線など一向に気にしていない。気持ちよく歩いていると、場面はいつのまにか陸上競技場になっていた。留美はユニフォームに身を包み、スタートラインに立っている。

「ヨーイ、スタート!」

 合図と共に飛び出した。一時いっときは抜かれるが、どんどん加速して追いついていく。競技場のアナウンスが響く。

「肉球留美、追い上げます! 凄い走りです! 肉球のクッションで弾むように走っています。あ、とうとう先頭に出ました」

 走ることに快感を覚えていた。体が軽い。このままどこまでも走れそうだ。

「肉球留美、一位でゴールです。あっ、日本新記録がでたようです! やった、肉球の勝利です」


◇ ◇ ◇


 留美は我に返った。そこには、いつもの土手とビニールハウスの光景があった。ミケはいつのまにかいなくなっている。

「うーん、肉球って本当はいいのかもしれない。自分の足が肉球にならないまでも、肉球付きの靴って無いものかしら」

 流行にはちょっとうとい留美だが、こんな独自の発想は得意だった。









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