第125話 隠者の戦③
――8月上旬、アチク平野。
昨晩、周辺一帯を覆っていた重い雲はすっかりと砦の向こうへ移動し、何も無い平野の一部は
北部陣営は夜も明けきらぬうちから動き出した。陣地では
やがて
ドゥシュナンの持ち込んだ大きな
昨晩の倒壊に巻き込まれたのか、ユズクの東側から進軍しているはずのカシシュ軍を察知して兵を
だが、所詮は多勢に無勢。
北部の軍勢は士気も練度も敵に劣りこそすれ、砦の一歩手前にほぼ無傷で次々と現れ、次第に攻撃の厚みを増していく。対する敵兵は銃撃でも近接戦闘でも数の圧力には
やがて北部の兵士たちが僅かに再建されていた柵をなぎ倒し、砦の敷地に踏み込めば、倒壊を免れていた奥の
交渉の用意があるとの意思表示であった。この状況であれば降伏にも等しい。
その情報は、
「イーキン、頼んだ」
セルハンに叩き起こされ、かつ、言葉少なに説明と指示を受けた
ドゥシュナンは
「セルハンさん、やりましたね! 僕たち、敵兵を沢山殺して勝ちましたよ!」
ドゥシュナンは実に晴れやかな笑顔で言うのだ。続けてこうも言いながら、自慢の
「だけど、ケレムさんはこっちには間に合わなかったみたいですね。あの人も沢山殺したかったでしょうに」
ドゥシュナンとは思えない発言はともかくとして、東側からそれなりに大人数で移動してくるのだ。敵の妨害もなくすべてが順調に進むことなどない。
「あれ? 砦の向こう、遠くの方で煙が上がってる。敵の
「確かに俺の目でも
「
ドゥシュナンの呟きに乗せられてセルハンも考える。砦の向こう側、それはやはりユズクの方角である。ここからおよそ5キロ先にユズクはある。正確な距離は分からないが、あの煙の根本もそれくらいの距離ではありそうだ。ユズクから複数の煙が上がる可能性、燃える可能性と言えば、一つは火事、一つは住民の蜂起、或いは……。
その考えに至ったとき、セルハンはすぐに幕屋に戻り、指示を出し始めた。
「
張り詰めた声に、北部軍の陣は
「もう一人使者を立ててイーキンを追いかけさせろ! 砦に残っている敵兵は指揮官も含めてすべてこっちの陣地に連れてくるように伝えるんだ! 保護するんだよ!」
「ねえ、セルハンさん。どうしたんですか?」
遅れて戻ってきたドゥシュナンがきょとんとした顔でセルハンに問うも、彼は眉間に皺を寄せた表情で腕を組み、何やら思案を続けている。そして、ドゥシュナンの姿に遅ればせながら気付いたかと思えば、急に口を開き、言ったのだ。
「やはり強引にでも帰らせるべきだった。……イーキンが戻り次第、撤退するぞ。準備しておけ」
「え? え?」
勝ち
「待機させた前線の兵士もイーキンと投降兵を護衛しながら、こちらに戻せ!」
その後もセルハンは実に総指揮官らしく、次々と伝令兵に指示を伝えてゆく。撤退を念頭に置いた指示を。幸いにして降伏の交渉は短時間で終わり、武装解除した敵兵たちを伴なったイーキンと追加で送った使者、そして、それを守るように取り囲みながら前線の兵士たちも戻ってきた。時刻は16時を少し過ぎたあたり。彼らは敵も味方もなく
「セルハン、何かあったのか?
本陣幕屋の大きな机の前で、椅子に座り仮眠を取っていたセルハンに問いかけると、総指揮官はゆっくりと疲れた顔を動かし反応した。
「ユズクの方角に、煙が上がっているのが見えた」
「ただの火事じゃないか?」
「……だと良いのだがな。俺が想定したのは、一つは住民の武装蜂起。これなら何も問題はない」
「つまり他の可能性に思い至ったと」
「その通りだ。ギョゼトリジュ側がユズクを焼き払い撤退する可能性。これも問題が無いとは言えるが一部の将兵が
「ふむ。それだけでこの様相は説明しきれないように思う。もっと他に懸念していることがあるんじゃないか?」
イーキンにそう言われ、セルハンは一度目を
「――」
セルハンが口を開き始めた、まさにそのとき、悲鳴とも怒声とも付かぬ声、そして銃声と金属の音が四方八方から聞こえてきたのだ。
「報告! ユケルバクの兵士が味方に攻撃!」
「ぬかったか! 各部隊合流しつつ各個撃破だ! 数で対応しろ!」
「は!」
「イーキン! お前は魔法兵と魔石をまとめてデニズヨルまで撤退しろ!」
「どうしてだ! 私も戦う!」
「駄目だ! 奴に秘密を奪われるわけにはいかない!」
「奴って誰なんだよ!」
言い返したイーキンだったが、直後、ハッとしたように手を口に当て呟く。
「ケレム・カシシュ……」
「分かったら行け! ドゥシュナンも連れてな!」
「分かった! デニズヨルで会おう! 約束だ!」
「ああ!」
努めて明るく振舞いながらも、イーキンの頭はどうすれば総指揮官殿の指示通りに魔法兵たちを引き連れて逃げおおせられるのかと、ぐるぐると思考を始める。
「逃げるぞ! ドゥシュナン君!」
イーキンが
「逃げるぞ!」
もう一度、先ほどよりも声を大きくして語りかけるも、虚ろな瞳の少年はなお虚ろなままで、反応はなかった。お気に入りの革の肩掛け鞄と腰袋を身につけていることから、撤退の準備までは済んでいるようなのだが。
「ドゥシュナン! しっかりするんだ!」
幕屋に鈍い音が響く。その音は周囲の慌ただしさにすぐに吸収されたが、殴られた側には鈍く、そして重く響き続けた。
長いようで短い空白。
ごめんなさい、
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