第35話 オレ⑭

 100メートルくらいの距離まで近づいたが、まだ熊は動かない。ここからはベルの音が沢山鳴るように大袈裟に歩き、オレは大盾を上下に揺らしながら、猟師の一人はベッケンたらいを棒で叩いて鳴らしながら近づいていく。


 ……90メートル、動かない。

 ……80メートル……70メートル……、まだ動かない。

 ……60メートル、急に立ち上がり両手を上に挙げて威嚇をし始めたが、4人とも構わず進むと、威嚇をやめて4本足の姿勢になり、こちらをじっと見ている。それにしても結構やかましく音が鳴っているのだけど、そんなことは全然気にしていない風だ。


 ……50メートル、熊が突進してきた!


「スヴァン、そっちへ行ったぞ!」


「うああああああああ!」


 くま!クマ!熊!くーまー!


 熊という凶暴な筋肉の塊が凄まじい速さでこっちに突進してくる!体がすくんで動けない!想像以上に速く、あっという間に眼前に迫ってきた!

 もう駄目だ!と思った瞬間、熊は直前で方向を少し変え、オレの左横を掠めて通り過ぎて行った。

 どうにか自分の体を奮い立たせて熊の行った方を見ると、すぐにまた向きを変えている。どっちだ?どっちに動く?

 ドキドキしながら目で追っていると、離れたところで大きく曲がって引き返し、北の森の方へ走っていく。


「行くぞ、スヴァン」


 ほっとしたのも束の間、アニキから緊張感のある声で指示が飛ぶ。


「まだ、森に入っていない。確実に森に入るまで後を追うぞ」


 4人でつかず離れず後を追い、熊はときどきこちらを振り返りながらも、太陽が頂点に昇る前にはどうにか北の森に帰っていった。猟師によれば、追い立てられた熊は暫く集落に近づかなくなるそうだから、これで依頼達成とのことだ。


 村長宅に戻って熊を北の森に追い返せたことを猟師と一緒に報告すると、思いの外、喜んでくれて、おもてなしするからもう一泊して欲しいと言われたが、アニキは丁重に辞退して依頼票に蝋印だけもらっていた。おもてなしされてみたかったけど、アニキがお断りしたのなら我慢するしかない。残念だ。


「有難うございました。お代官様と傭兵組合にも出来るだけ早く報告しますね」


 村長はそう言ってアニキとオレの手を固く握りしめた後、見送ってくれた。あれだけ感謝されるとなんだか照れくさいが、それだけあの熊が脅威だったんだな。そんなことをツチダからイヌイへ向かう乗合馬車に揺られながら思った。


 イヌイには18時の鐘がなる頃に到着した。傭兵組合は18時前に閉めるから報告は明朝にしようということで、傭兵組合で落ち合うことを約束してアニキと別れたが、本音を言えば大盾がとても重たいから、今日の内に返したかったところだ。


 帰宅して着替えてから、ベーコンと豆のスープを作りながら今回の依頼を振り返るが、それにしてもアニキは寡黙だ。必要なこと以外は本当に喋らない。帰りの移動中も一言も喋らなかった。きっと本物の傭兵というものは寡黙なものなんだろう。とりあえず、熊が突進してきても叫ばないようにしようか。でも、熊は怖いしなあ。熊に沢山突進されて慣れれば良いのかな。

 後は、狩猟講習と他の講習も早めに受けた方が良いだろうな。


 翌日、朝一番に傭兵組合に顔を出し、アニキが来るのを待って、蝋印をもらった依頼票を一緒に提出して帰着の報告した。重たい大盾も、借り物のキュイラス胸甲も忘れずに返却した。報酬は、代官から組合に支払われてから受け取れるようになるから、1週間後くらいにまた来てください、とのことだった。


 アニキはまた別の依頼があるようで、報告が済むとすぐに組合から出て行ったが、オレは講習の申し込みだ。

 まずは狩猟講習を受けたいと話してみたが、3月は講習をやっておらず、4月からと少し先になってしまうから、一番早い回を受けたいと希望だけ伝えてみた。具体的な日程が講師の猟師次第だから、日程が決まってから申し込みを受け付けるそうだ。

 残りは、警備と護衛、対人制圧術だな。どちらも2日間で終わるし、受けられたら3月中に受けてしまおう。特に警備と護衛は、今の中心業務だから重要だ。


「警備と護衛、あと対人制圧術の講習ですね。2つとも来週ありますよ。週の初めからが対人制圧術、休日前の2日間が警備と護衛ですね。2つとも受けちゃいますか?」


 いつものお兄さんが蝋板に書かれたスケジュールを確認しながら対応してくれる。


「はい、2つともお願いします」


「分かりました。これで参加者3名ですよ。各回、11時を少し過ぎたら開始しますので、遅れないように来てください。それから、使用する武器防具はブーツとグローブ以外は組合の訓練用の物を使いますから、当日はブーツとグローブを忘れずに。受講料は警備と護衛が銀貨8枚、対人制圧術が銀貨10枚です。いつも通り前払いなので遅くとも前日までに祓って下さいね……。……む?」


「む?」


「む?失礼、払って下さいね」


 何か悪いものでも見えたんだろうか……。働き過ぎなのでは。


 分かりました、と言って、大きめのベルトポーチに入れた小袋から銀貨18枚を取り出してカウンターの上に5枚ずつ3基と3枚1基に積み上げる。


「それで講習の講師なんですけど、」


「ほほう、講師がどうかしましたか?」


「武器の講習のときに、他の講習で指名してくれ、って頬に傷痕のある講師のおじさん言われたんですけど、指名できるんでしょうか?」


「ああ、なるほど。あの人なら言いそうですね。結論から言うと、今回の講習はもう講師が決まっているので無理ですね。指名出来るのは要望に応じて臨時で開催するものだけなんですよ。ただ、対人制圧術の講師はあの人ですけどね」


「それは、恐ろしいですね……」


「ええ、恐ろしいですね……。ふふふふふ……」


「ですね……」


 やっぱり、何か祓ってもらった方が良いんじゃないだろうか。

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