その物語ができるまで:後編
卒業後、イフナースは僕に手紙をくれなかった。今日、この日まで。侯爵に聞いても彼の居場所はわからず、僕と妻の結婚式にも彼が姿を現すことは当然なかった。僕は王宮のアントンに宛てて妻と一緒なら王太子殿下の正体を受ける旨を伝えた。日程はすぐに決まり、僕はほとんど王宮に行ったことがなかったため緊張しながら妻と共に迎えの馬車に乗り込んだのだった。
王宮に到着した僕らはアントンの案内ですぐに王太子殿下の離宮へと通された。学生時代は離れたところから見かけるくらいだった王太子殿下が目の前にいる。王族らしい威厳を備えていたが、その表情は陰りを帯びていた。
形式的なあいさつを交わすと、「奥方も一緒か」と殿下はつぶやいた。
「先日、アントンとテクラから話を聞いたと思うが……率直に言って、私は君とディアナに何かあったのではないかと思っている。彼女は何も話してくれないが……」
「おそれながら殿下」
妻が毅然と言った。
「わたくしの夫はアールデルス公爵令嬢とはお会いしたことがありません」
「あなたの知らないところで会っているかもしれないとは?」
「わたくしは夫を信じております」
「私もディアナを信じている」
殿下は少し眉根を寄せた。
「しかしディアナが君のことで思い悩んでいるのは事実だ。それに手紙のこともある」
「あの手紙を書いたのはアールデルス公爵令嬢ではありません」
僕は手紙を取り出した。
「読まれて困ることも書いてありません」
受け取った手紙を、眉間にしわを寄せたまま殿下は黙読した。「イフナース・アッケルマンは……」と殿下は何かを考えながら口にした。
「同級生にいたな……君と一緒にいたのを見かけたことがある。しかしこの手紙が彼からのものだとして、どうしてディアナがそれを持っているんだ?」
「それを私も知りたいのです。それに、もしアールデルス公爵令嬢が彼が今どうしているのかをご存知ならそのことも」
殿下から手紙を返してもらい、僕は真っ直ぐに殿下を見た。
「先日、僕を訪ねて来たアールデルス公爵令嬢の侍女の方は、アールデルス公爵令嬢とイフナースが知り合いだと言っていました。それに僕とイフナースが会えなくなったことをご自分のせいだと落ち込んでいらっしゃると……」
「私はイフナース・アッケルマンのことをよく知らないのだが、彼はどういう男なのだ? この国の貴族ではないようだが……」
「彼は外国の商人の息子で、生まれた国にしっかりとした教育機関がないため親戚を頼ってこの国の学園に通っていたのです。卒業後は国に戻り、父を手伝って商人になると言っていました」
「ディアナは学園には通わず、領地にいた……彼女とイフナース・アッケルマンが知り合う機会があるとは思えないが……」
王太子殿下は疑いを持ちながらも、アールデルス公爵令嬢のことを案じているようだった。公爵令嬢はよほど落ち込んでいるらしい。僕は妻と顔を見合わせた。
「とりあえず、ディアナも交えて話をしよう――彼女には、君たちが来ることを話していないんだ」
控えていたアントンの先導で僕たちは離宮の庭園へと通された。その東屋にはお茶の用意がされ、一人の令嬢が席についているのが見えた。すっと背筋が伸びた姿勢は後ろ姿だけしか見えなくてもそれだけで彼女の美しさがよくわかる。やわらかく波打つ薄い金髪が流れる背中に王太子殿下が「ディアナ」と声をかけると、音も立てずに令嬢は立ち上がり、そして振り返った。
庭園を風が吹き抜け、令嬢の長い髪を揺らした。
「イフナース!?」
僕と妻が同時に叫んだ時、令嬢は今日の空に似た色の瞳を丸くした。髪の長さだけでなく骨格も違うのに、まさにその顔はイフナース・アッケルマンのものだった。双子のようにそっくりだ。しかしアールデルス公爵家は兄と妹と弟の三人兄弟だが双子ではなくそれぞれ年が二歳以上離れている。僕も妻も混乱し、お互いに顔を見合わせ、それからまた視線を目の前の令嬢に戻した。でもイフナースは間違いなく男だった。声も、骨格も、あの最後に会った手に握った手も――でも、やはりイフナースなのだ。
「そんなに似ているのか?」
困惑した王太子殿下の声にハッとした。
「手紙……」
どうして疑問に思わなかったんだろう? そう、手紙だ。僕の名前だけが書かれた封筒――その文字を見て、僕はそれがイフナースからのものであると思い、妻もその字をイフナースのものだと断じた。でも殿下はその手紙をアールデルス公爵令嬢から僕に宛てた手紙なのだと思ったのだ。別人で、性別も違うなら、字か全く同じだったり似ていたりしないだろう。
やわらかなため息が落とされた。アールデルス公爵令嬢のため息だった。
「どうぞお座りになってください。それから、お話しますわ」
アールデルス公爵令嬢以外、殿下も僕も僕の妻も困惑したまま向き合っていた。全員の視線がアールデルス公爵令嬢に向けられていたが、彼女はどこか困ったような顔をしているものの比較的冷静な様子だった。
「まず最初に、わたくしと王太子殿下の婚約についてお話しないといけません。殿下、このお二人にはお話してもよろしいでしょうか?」
「……それが必要なことならば。ただし、内密にしておいて欲しい」
僕と妻がうなずくと、アールデルス公爵令嬢が話しはじめた。
僕らが子どもだった頃、殿下の婚約者を決めるにあたって最終的な候補となっていたのは実はアールデルス公爵家のディアナ様の方だった。というのも、王妃様と公爵夫人が同級生で仲が良かったこともあり、幼い頃からアールデルス公爵令嬢は兄と共に母親に連れられて王宮へ行き、そこで殿下や兄と共によく遊んでいた――いわゆる、幼馴染の関係だったという。その関係はやがて幼い恋心に発展し、両陛下も公爵夫妻も微笑ましくその関係を見守り、いずれ婚約をと話し合っていたそうだ。
それはアールデルス公爵領が災害に見舞われても変わらなかった。ところが、同時期にヴォルテルス公爵家が急激に力をつけてきた。王家はそれを無視することができなかった。
「ヴォルテルス公爵家が力をつけたのは新しくできた商会のおかげだったが、それを隠れ蓑に密輸などの違法な取引を行っていたからだ。しかし確たる証拠がなかった……それを探るため、またヴォルテルス公爵家の油断を誘うために私はヴォルテルス公爵家のルイーセと婚約することになったのだ」
「わたくしは家族と共に領地へと戻りました。嵐の被害にあった領地の復興が急務だったこともありますが、我が家が王都から去ることでヴォルテルス公爵家の動きが活発になるだろうと予想をつけていたからもあります。兄は学園に入学する際に王都の屋敷へと戻ってきましたが……それ以外は両親もずっと領地におりました」
「実際、ヴォルテルス公爵は同じ三大公爵家の一家が王都から去ったことと娘を私の婚約者にしたことで大胆になっていった。もちろん、違法な取引などは密かにつぶしながらだが証拠集めも進めて行き、計画通りにいけば私が卒業するまでには全て片が付くはずだったのだが……」
王太子殿下は困惑の視線を婚約者に向けた。
「わたくしは……それらのことを両親から聞かされていました。しかし、どうしても殿下と学園に通いたくて、それで……」
アールデルス公爵令嬢は頬を染めてうつむいた。
「それで、わたくしは男子生徒のイフナース・アッケルマンとなって学園へ入学したのです」
「でも……」僕は口を開いた。
「でも、イフナースは完全に男でした」
「父の友人の伝手で、魔法が残る国から性別を偽る薬を手に入れることができたのです。顔立ちはそのままですが……わたくしは髪を切り、毎朝薬を飲んで学園に通いました。イフナースとして」
しぐさなどは男兄弟に挟まれていた影響か、昔はこう見えてどちらかと言うと男勝りだったのだとアールデルス公爵令嬢は言った。それから入学を決めて兄や弟に男としての言動を鍛えてもらったのだと。
「お二人をだますことになりごめんなさい」とアールデルス公爵令嬢が頭を下げたのに僕らは焦ってしまった。実感がわかないが、ささいな表情の変化もまたイフナースと同じだった。
「私には話してくれてもよかったのに」
「ヴォルテルス公爵令嬢に気づかれてはまずいと思ったのです。もし知っていたら、ヘルハルト様はイフナースにかまったでしょう?」
「それは……」
「もちろん、ヘルハルト様とお話できたらという気持ちがなかったわけではありません」
気になる人がいるのかと聞いた時、イフナースが見せた表情が思い浮かび、目の前の令嬢に重なった。あの表情の意味が、僕にはやっとわかった気がした。
「結局、ヘルハルト様を遠くから見つけることしかできなかったのはさみしかったですが……わたくしは学園で素晴らしい友人を得ました。ですがヴォルテルス公爵家のことが片付き、わたくしが新しい婚約者となることが内々に決まって、まさかわたくしの正体を明かすわけにもいかず今日まで来てしまったのです……特に結婚式の話題になると二人の結婚式に行けなかったことが悔やまれて……本当にごめんなさい」
「謝らないでください」
僕の声はまだ困惑していたが、でもその気持ちは本当だった。だまされたとも思っていないし、事情を聞けば仕方ないことだったと思う。
「心配はしていたけれど、何もなかったのだからそれでいいのです」
「でも、あなたはわたくしのことを友人だと思ってくれていたのに……」
「イフナースが偽名でも、性別が違っていても、あの頃育んだ友情は偽物ではありません。そうでしょう?」
我ながら気恥ずかしいセリフに耳元が熱くなるのを感じながら、僕は言った。アールデルス公爵令嬢の笑顔は、記憶にあるイフナースのものと何も変わらなかった。
それから僕らは四人で学生時代のこと――主にイフナースと僕のことをあれこれ話した。僕と妻が帰路につく頃にはすっかり日は傾き、僕らは心地いい疲れと共に馬車に乗って屋敷へと帰っていった。
「今やっている仕事を、少し待ってもらおうと思うんだ」
その晩、ベッドの上でくつろぎながら僕は妻に言った。
「劇団の? どうして?」
「ちょっと書きたい話ができて……ねぇ、君は今までずっと僕の一番の読者で、僕の作品をいつも最初に読んでくれたね」
「特権ですもの」
僕の腕の中で妻が笑った。
「でもその話は、僕の親友に一番を譲ってもいいかな?」
ぱちりと、妻の灰色の瞳が瞬いた。頭の中で今日聞いた話と、新しい物語の形がぐるぐるとめぐっている。その新作が大衆向けに変更されて劇団の新作公演になるのはそれからもっと後の話だが、その時はまだたった一人の読者のためにその話を書くことしか考えていなかった。
妻はやさしい眼差しで僕のあごの先に口づけると、「それっていい考えだと思うわ」と笑顔で賛同してくれたのだった。
***
王宮の王太子の離宮には、この頃毎日のように婚礼の祝いの品が届いていた。国内の貴族や商人、友好国、相手は様々だ。
その日届いた品物の一つを、アントンが王太子ともうすぐ王太子妃になるディアナの元へ直接届けに来た。四角い箱はそれほど大きくなく、そこにかけられたリボンにはカードが挟まっている。それを見て、ディアナは破顔した。
“イフナースへ、結婚のお祝いに僕からは新作を、僕の妻からはそれを一番に読む権利を贈ります――君の親友より”
読みはじめた物語は、とある貴族の令嬢が主人公だった。
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