その物語ができるまで:中編




 僕とイフナースが親しくなったのも、厄介ごとに巻き込まれそうになっていた彼を僕がかくまったのがきっかけだった。


 僕が在学中、学園は異様な空気感を持っていた。この国の第一王子で王太子であるヘルハルト殿下が同学年にいるという緊張感ももちろんだが、一番の理由は彼の当時の婚約者、ヴォルテルス公爵令嬢のルイーセ様だった。


 殿下とルイーセ様の婚約は十歳の頃に結ばれた。元々、殿下の婚約者には三大公爵家の内の二家に殿下と同い年の令嬢がいたためそのどちらかになるだろうと幼い頃から言われていた。それがディアナ様とルイーセ様だ。

 どうしてルイーセ様が選ばれたのか当時は知らなかったが、僕が七、八歳の頃、アールデルス公爵領は毎年のように秋に嵐に見舞われた上にその被害は大きく、税収が落ち込み、復興のために私財を投入したため公爵家としては家計が苦しかった一方でヴォルテルス家は新しく商売をはじめてそれが成功し、羽振りがよかったからだと学園に入ってから噂で聞いた。

 ルイーセ様は美しく、教養もあり、学園の成績も優秀だ。しかし一方で、美しいものに目がないという欠点があった。彼女は学園でまるで女王のように気に入った男子生徒を侍らせていた。しかし決して二人きりにはならず、人目のある場所で。

 取り巻きの男子生徒からすると二人きりになれないのは不満がたまることだったが、それを狙った女子生徒が周りに集まるようになり、いつしかルイーセ様を中心に彼女の男子生徒の取り巻きと、おこぼれに預かろうとする女子生徒の取り巻きという集団ができあがっていた。


 王太子殿下はルイーセ様のそんな態度を嫌っていて決して近づかず、むしろ時折注意するようだったが、ルイーセ様は取り巻きたちのことを親しい友人だと言ってやましいことは何一つないと言い切り相手にしなかった。実際、男子生徒を侍らしているのは他の生徒や教師の目があるところだけだったので言い切られては殿下もそれ以上何も言えず、ルイーセ様好みの顔立ちだった殿下だったために逆にその輪に取り込まれそうになり、放置するよりほかなかったのだろう。


 学園全体が、まるでルイーセ様の城のようだった。とはいえ、僕はしがない子爵家の三男で顔のつくりも平凡だし、読書は好きで言語学や文学の成績はよかったがそれ以外の勉強は普通かそれ以下でルイーセ様とその取り巻きたちのことはまるで別世界のように考えていた。

 同じように感じている低位貴族や平民の男子生徒とそれなりに親しく付き合い、どちらかと言えば平和な学園生活を送っていたと思う。




 イフナースと出会ったのは第一学年も終わりに近い頃だった。




 僕はその日、学園の図書館で本を読んでいた。ここの蔵書は素晴らしく、学園に入る前からよく利用している国立図書館とまた違った傾向の本が多くて僕は毎日放課後に図書館で本を読むようにしていた。もちろん貸出もできるが、家では寝る前くらいしかゆっくり本が読めなかったのだ。


 ページをめくると同時にカタンと物音がして、僕は顔を上げた。図書館の比較的奥の席を使っていたため、さっきまで僕の周りには誰もいなかった。しかし今、目の前に一人の男子生徒が目を丸くして立っていた。人がいることに驚いた様子だった。

 やわらかそうな薄い金髪、秋空に似た澄んだ水色の瞳、細身だが手足は長くすらりとしていて、顔立ちは中性的だがとても美しかった。




 彼がイフナース・アッケルマンだった。




 緊張した面持ちの彼は、図書館の入口がある方角がにわかに騒がしくなったのに気づいてハッとした様子で振り返った。どうも、誰かに追われているようだった。


「ここに隠れる?」

「えっ?」


 やわらかだが見た目と違って年相応の低さを持つ声だった。彼は少し迷ったような素振りを見せた後、一つ頷いて僕の足元にもぐりこんだ。このスペースにある席は一人用で、足元が荷物を置けるように少し広くとられている。細身の彼なら縮こまればうまく隠れられるだろうと思ったのだ。

 息をつめる彼の緊張が伝わるように僕も少し緊張し、慌ただしい足音が近づいてくるのを本を読むふりをして聞いていた。足音は案の定僕のすぐそばで止まり、僕はできるだけ不思議そうな表情を作って顔を上げた。二人の男子生徒が立っていた。たしか、侯爵家と伯爵家の……ルイーセ様の取り巻きの一員だ。


「ここに一年生が来なかったか?」


 片方が不躾にたずねてきた。「はあ」と僕が気の抜けたような返事をしてしまうときつく睨みつけられた。


「僕も一年ですが……」

「お前のような平凡なヤツじゃない」

「ここは僕しかいませんし、誰も来ていませんよ」


 探るような視線を向けられたが、僕は何でもないような顔をしつづけた。やがて諦めたように二人は去って行った。


 その気配が完全になくなった頃、僕は足元から彼を出してあげた。明らかにほっとしたような顔をしていた。


「ありがとう」

「いいよ、あの二人に何かしたの?」

「何も……」


 暗い表情で彼は言った。僕は近くの席から椅子を引っ張ってきて彼に座るように言った。なんだかこのまま放っておくのも悪いような気がしたからだ。


「実は、ヴォルテルス公爵家のルイーセ様に声をかけられたんだ」


 少しの沈黙の後、彼は話しはじめた。


「話をしないかって、やんわりと断ったんだけどそれから何度も誘われて……避けるようにしてたら今度はあの二人に追いかけられるようになったんだ。僕を無理やりルイーセ様のところに連れて行こうとしてるらしい」

「なるほど」


 確かに彼はルイーセ様が好きそうな美しい顔をしている。


「助けてくれて、本当にありがとう。僕はイフナース・アッケルマン。君は?」


 僕らはお互いに自己紹介をし、それから少しおしゃべりをした。イフナースは商人の息子で、学園に入学するまで外国で暮らしていたのだと話した。そこには平民が通える学校がなく、勉強をしたかったのと両親が社会勉強にもなるだろうと考えたのとで親戚のいるこの国の学園に入学することになったのだと。

 しかし入学早々、彼はルイーセ様に目をつけられたらしい。かわしていたが、取り巻きの人数が多くなってから彼らを利用して実力行使をしてくるようになりこのところは毎日のようにこうして鬼ごっこをしているとうんざりとした口調で言った。


「正直、すごく迷惑なんだけど……ルイーセ様も取り巻きも、僕よりずっと身分が上だし……」

「助けてあげたいけど、僕も身分的にはとても口をはさめないし……そうだ!」

「何?」

「僕や僕の友だちと一緒にいないか? ルイーセ様たちは、僕らがいるような場所には絶対に近づかないんだ」


 安易だが、いい考えのように思えた。


 実際、その考えはうまくいった。美しいものが好きなルイーセ様は平凡以下な僕や僕の友人たちは見向きもせず、むしろ嫌がっているように感じていたのだがその通りだったのだ。イフナースが僕らの輪に加わるようになってもそれは変わらず、取り巻きが平凡な相手と話すことも嫌がってイフナースの平穏は無事に確保されたのだった。


 このことをきっかけに、僕はイフナースと親しくなっていった。彼も読書が好きだったのもあって、意気投合したのもある。気に入った本を紹介し合ったり貸し借りし合ったり、他の友人も一緒に街へ遊びに出かけたり、試験前は誰かの家に集まって勉強会を開いたりした。


 僕らの学園生活は平穏で、ルイーセ様たちのことはまるで別世界のように感じながら第二学年に進学した。この学園は三年制なので、二学年も半分近くなると誰の口からも卒業後の話題が出るようになっていた。


「イフナースは卒業したらやっぱり国に帰るのか?」

「そのつもり。そっちは?」


 僕は三男で、当然継ぐ爵位はない。働きに出なければいけないことは間違いなかった。


「図書館や出版社で働けたらと思ってるけど……」


 どちらも人気のある就職先だ。


「劇団は?」

「劇団?」

「お芝居を書くんだ」

「書く? 僕が? いや、読むのは好きだけど……」


 イフナースはにやりと笑った。


「でも書いてるだろ?」


 僕はその頃はじめて自分の作品というものを書いていた。本を読むのが好きだった僕は、昔からいつか自分で何か書いてみたいという漠然とした気持ちは抱いていて、それをはじめて実行に移していたのだ。だからといってそれで食べていけるようになるとは思っても見ない。書いていることは確かにイフナースに話したが、あくまで趣味で書いているだけだ。


「プロになれるなんて、ほんの一握りだけだよ」


 僕がそう言うと、イフナースは肩をすくめた。






 でもイフナースが言ったことを、考えなかったわけじゃない。放課後――イフナースも帰ってしまった後、僕は図書館にこもっていたがそれももう閉館の時間が近づいていた。大量の本を棚に戻し、使っていた席――イフナースと出会ったあの一人掛けの席だ――に戻ると、その傍に一人の女子生徒が立っていた。


「何してるんだ!」


 僕は慌てて席に戻った。なぜならそこに僕は書きかけの作品を広げたままだったからだ。僕の声にびっくりしたように女子生徒は顔を上げた。「あら、ごめんなさい」と悪びれのない声が返ってくる。


「人が残っていないか見回りをしていて、ちょっと目に入ったの」

「人のノートを勝手に見るなよ」

「これ、あなたが書いたの?」


 意思の強そうな灰色の瞳が興味で煌いていた。僕は黙り込み、眉根を寄せてその女子生徒を見た。


「図書委員なら仕事に戻ったらどうだ?」

「図書委員じゃないわ。図書委員の友だちが急用で、代理を頼まれたの」

「代理でも今日は図書委員ってことだろ?」

「そうだけど――ねぇ、そのノート、もう少し見せて!」

「嫌だよ」


 僕はさっとノートや他の荷物を鞄にしまって腕に抱えた。


「誰にも見せるつもりはないんだ」






 しかしその女子生徒は翌日も僕に話しかけてきた。友人と歩いていたのにわざわざ立ち止まって、友人から離れて僕とイフナースの方へやって来たのだ。


「昨日はごめんなさい」


 彼女は言った。


「本当に勝手に見るつもりはなかったの」

「いいよ、もう……」


 できれば忘れたかったし、忘れて欲しい。それに少し離れたところで彼女を待っている彼女の友人たちが気を引きたそうにイフナースを見ているのも居心地が悪くて僕はそう言った。


「でも、本当にステキな作品だったわ! わたし、普段本なんてほとんど読まないんだけど……つづきを読ませてくれない?」

「は?」

「えっ? 彼女に書いているものを見せたのか? 僕も読んだことないのに?」

「彼女が勝手に見たんだ!」


 悪だくみをするようなイフナースの顔にいらついて、僕はつい大声を出してしまった。そのままの勢いで「断る」と彼女にも言ったが、彼女は不満そうにした。その場は引いてくれたが、それから顔を合わせるたびに僕に作品を読ませてほしいとせがむようになった。


「いいじゃないか、読ませてあげれば」


 何でもないようにイフナースが言った。


「彼女、あまり本は読まないって言っているのに君の作品はステキだったって言ったんだ。それって、よほどのことじゃないか?」

「それは……」

「それに、褒められて嫌だったわけじゃないんだろ?」


 嫌だった……わけじゃない。ステキだったと言われてくすぐったかった。


「ついでに僕にも読ませてくれよ」

「イフナースは辛らつな意見しか言わなそうだから嫌だ」

「いいところはちゃんと褒めるよ」

「どうだか」


 イフナースは声を上げて笑った。それから彼女に声をかける時一緒に来て欲しいと頼むと、快く了承してくれたのだった。






「いいの?」


 差し出したノートに落としていた視線が真っ直ぐ僕に向けられた。灰色の瞳は今日も煌いて見える。そこに自分が映っているのを見つけて、なんだか首の周りがかゆくなった。


「おもしろくなくても、文句を言わないなら――あと、誰にも僕がこれを書いているって言わないなら」

「言わないわ!」


 彼女はパッと明るい笑顔で僕のノートを受け取った。一体何が彼女の琴線に触れたのだろう……? それからというもの、僕はたびたび彼女に書いたものを見せるようになっていった。自分から進んでということはなかったが、頼まれれば多少は渋る気持ちも湧くものの彼女にノートを渡してしまう。あまり本を――厳密にいえば小説などの物語の類を――読む習慣がないという彼女だったが、僕の書いたものはいつも褒めてくれた。それは大抵「おもしろかった」や「つづきが気になる」などの簡単な言葉での感想だったが、一人で黙々と書いている時よりも自分の書いているものに自信が持てるようになったからか筆の進みを早くしてくれた。


「何か妬けるな」


 悪戯っぽい笑みを浮かべてイフナースは言った。彼女にノートを見せるようになってしばらくたち、書いているものがだいぶ形になってくると、僕はイフナースにも自分の書いている作品を見せるようになっていた。彼は彼女と違って細かい感想を言ってくれるし、ちょっとした言い間違いや熟語の使い方の間違いも指摘してくれる。しかもありがたいことにその指摘は明らかな間違いでなければ押し付けがましくなく、「もっとこうした方がいいんじゃないか?」とさりげない指摘にとどまっていて、彼女が育んでくれた僕の自信を支えてくれるものだった。


「何が?」

「君の一番の読者は僕かと思ってた」

「図々しいな」

「友情なんて恋の前には儚いものだな」


 大げさに嘆くイフナースに僕は顔が熱くなった。第二学年も終わりに近づき、その頃には僕は彼女へ恋心を抱くようになっていた。と言っても、彼女は伯爵家の一人娘で身分に差がある。この国はそれでも近隣諸国に比べれば婚姻に関して身分差については口うるさく言われない方だったが、伯爵家の後を継ぐ令嬢となれば話は別だろう。


 「彼女もまんざらでもないと思うけどな」とイフナースは言った。曰く、読書家ではない彼女が素人の書く物語のここまで熱心な読者になったのは僕自身への好意があったからではないか? とのことだった。それに、彼女はたびたび僕のことを見つめているらしい。そうだったら嬉しいけれど、僕には自分の気持ちを口にする勇気はなかった。


「そういうイフナースはどうなんだ? 誰か気になる人とかいないのか?」


 ルイーセ様と取り巻きからはうまく逃げたイフナースだったが、彼の顔立ちに惹かれるのは他の女子生徒も同じだった。イフナースがルイーセ様から逃げおおせたことで似たような手段を使って取り巻きに入らないようにした見た目のいい男子生徒ももちろんいたが、その中でもイフナースは特に人気だった。友人のひいき目かもしれなかったが。


「……別に」


 珍しく、イフナースは素っ気なくそう言った。視線が一瞬宙をさまよい、陰りを帯びて伏せられた。彼のそんな表情を見たことがなくて、僕は今でもその時のことを思い出す。あの時、ちゃんとイフナースに気になることがあるのかと聞けばよかった。




 彼の視線の先にいたのは、王太子殿下だった。






 最終学年になると同時に、僕の作品はついに完成した。長期休暇を使って精力的に執筆活動に励んだことが大きかった。一番最初の読者はもちろん彼女で――イフナースには散々からかわれたが――彼女の後にイフナースにも当然読んでもらった。彼女とイフナースは作品の完成をとても喜んでくれて、口々におもしろかったと褒めてくれた。

 いつもはひと言くらいしか感想が出てこない彼女がどこがよかったかとか、どこが好きだとか一生懸命話してくれることも、辛らつなところがあるイフナースが手放しで褒めてくれたことも僕にとっては本当にうれしいことだった。


 お祝いと称して二人は僕の家に遊びに来た。その時、二人はほとんど初対面だったがすぐに親しくなったようでほっとした半面、彼女がイフナースにとられるのではないかと冷や冷やしたことは未だに僕の胸に留めている。もっとも、その時の僕は相変わらず彼女に自分の気持ちを伝えてはいなかったけれど。


 イフナースがどこかの出版社に送ったらどうかと提案したが、僕はそれについては迷っていた。仮にこの作品がうまくいったとしてもつづくかはわからない。どちらにしろ、もう最終学年だから作品のことはとりあえず置いておいて、卒業後のことを決めなければいけなかったのだ。


「誰かの家に婿入りしたりはしないの?」


 ちょっと遠慮がちに彼女がたずね、僕は驚いて目を丸くしたしイフナースはにやりと笑った。


「気になるの?」

「そ、そういうわけじゃなくて……ちょっと思っただけよ」

「残念だけどそういう予定はないよ

「なんでイフナースが答えるんだ! うちみたいなしがない子爵家で、しかも三男なんて婿入り先がないよ。僕自身別に取り柄があるわけじゃないし……」

「でもこんな素敵な作品を書くわ!」

「ありがとう、でも、婿入り先じゃ役に立たないよ。だからとりあえず出版社とか文官の採用試験を受けるつもりなんだ」

「そうなの……」

「君はどうするの?」

「えっ? わたし? わたしは伯爵家を継がないといけないから……うちは領地もあるし、卒業したら本格的にお父様について領地経営とか家の仕事について学ぶ予定よ」

「結婚は?」


 僕はイフナースを肘で小突いた。お節介な親友め。彼女の視線が一瞬何か言いたげにこちらを見たのにドキリとしたが、彼女はただ「わからない」と答えただけだった。


 イフナースは何を思ったのか、僕の作品を貸して欲しいと言って半ば強引に作品を持って帰宅してしまった。しかも、彼女のことをきちんと送るように付け足して。

 彼女は迎えの馬車がくることになっていたので、僕は気まずい空気を感じながら彼女と二人きりでいつもより進みが遅い時間の中にいた。イフナースが余計なことを言うからだ……でも正直、もしあの場にイフナースがいなかったら、僕は彼女に告白していたかもしれない。


「ねえ」


 突然声をかけられ、僕は顔を上げた。彼女の灰色の瞳が真っ直ぐに僕を見上げていた。


「わたし、婚約者がいないの」


 彼女は言った。


「お父様も色々吟味してくれているけれど、学園で自分の目でも探してみなさいと言われていて……」

「そ、そうなんだ……」

「あ、あなたを……お父様に紹介してもいい?」


 その時、僕は随分と間抜けな顔をしていただろう。


「でも、僕は……しがない子爵家の三男で、別に勉強もできるわけじゃ……伯爵家の婿なんて……」

「わたし、あなたが好きなの」


 視線をそらさないままそう言った彼女の頬は、真っ赤に染まっていた。


「わたしこれでも成績がいいし、今も少しずつお父様の仕事を手伝っているけれど筋がいいと褒められているわ。自分でも商売をしていてそれなりに裕福だし、あなたが作家になりたいなら応援するつもりよ。だから……だから、これからもずっとあなたの一番の読者でいたいの」


 僕は顔が熱くなるのを感じた。


「僕も……君にこれからも一番の読者でいて欲しいよ……君が好きなんだ」






 僕らはそれぞれの両親より先にイフナースにこのことを報告した。「そうなるだろうと思ったんだ」とイフナースは笑った。


 それから僕の両親にはとりあえず恋人ができたことだけを告げ、彼女の両親に会いに行ったのだが、案の定、彼女の父親である伯爵は難色を示した。学生時代の恋人ならともかく、婿としてはそういう反応になるのはわかっていた。僕は彼女と視線をかわし、「実は……」と小説を書いたのだがある侯爵がそれを気に入り支援の話が出ているのだと告げた。


 これはイフナースの案だった。どういう知り合いなのかわからないがイフナースはなぜか侯爵と知り合いで、あの日、彼は僕の作品を半ば強引に持ち帰ってその侯爵の元に赴き読んでもらったのだという。勝手なことをと思ったが、その侯爵は僕の作品を思いのほか気に入ってくれて、卒業後もし本格的に作家として生きていきたいなら支援してもいいと話を持ってきてくれたのだ。

 イフナースと共に僕は侯爵に会いに行き、支援の話を断ろうとした。彼女とのことを話し、彼女の両親が結婚に反対してもどうにか説得し、執筆活動はつづけるつもりだが婿になるための勉強もしたかったため今回の作品を完成させたように精力的な活動ができるとは思えない。だから気持ちはうれしいが支援してもらうのは申し訳がないと。

 その話に喰いついたのは侯爵夫人だった。彼女は恋の話に目がないのだと侯爵は笑った。侯爵夫人は僕らの恋を応援したいと夫である侯爵に頼み、イフナースがそれなら支援の代わりに彼女の両親に会ってもらえないかと提案をした。


 侯爵はその提案にうなずいてくれた。


 イフナースと侯爵に会いに行った後、僕はすぐに彼女の家と侯爵家のことを調べた。イフナースがどうしてそんな提案をしたのか彼に聞いてもよかったが、僕と彼女の問題なのに彼に頼りっぱなしはよくないと思ったからだ。


 彼女の実家の伯爵家の領地は昔から林業が盛んだが、大きな河も領内を流れていることから現在は製紙業にも力を入れている。そして彼女の祖父の代から古紙の再利用にも力を入れるようになった。侯爵はいくつか出版社に出資し、印刷会社も持っている。しかしどちらも王都やそのとなりの領地にあり紙を卸している商会や製紙業が盛んな場所からは距離があった。輸送にかかるコストについては現段階でできる限り削ったらしいが、紙そのものが安くなるなら話は別だ。

 侯爵の持つ印刷会社はそれなりに大きなところで、侯爵が出資している出版社以外の出版社もその印刷会社を利用している。彼女の家が業務提携できればお互いに利点はあるだろう。しかし、僕はまだ婚約者でも何でもない彼女の恋人で伯爵家とも公爵家とも無関係の人間だ。口出し過ぎてもよくはないのかもしれない。


 彼女の父親は侯爵の名前を聞くとすぐに考える素振りを見せ、僕のことを侯爵のお眼鏡にかなうとは素晴らしい才能を持っているようだと褒めた。僕も、僕やイフナースから話を聞いていた彼女も、伯爵が侯爵と縁を持ちたいと考えているのだろうと思った。

 僕はさりげなく侯爵の話題をつづけた――これもイフナースの入れ知恵だったが――それから最後に「もし結婚を認めていただけるのでしたら支援の話も断り、彼女と伯爵家を支えるために精進します」ときっぱりとした口調で言い切った。


 僕は三日後、イフナースと彼女と三人で侯爵家を訪ねた。結婚の話は保留になっている。侯爵夫人は特に彼女を歓迎して、改めて五人で話し合いが持たれた。

 彼女は伯爵家の跡取りとして侯爵に仕事の話をし、それから「不敬を承知で申し上げますが」と前置きをして「わたしが彼の執筆を支えます。わたしは彼の一番の読者でありたいのです」と告げた。あの時の彼女に、僕は改めて惚れ直した。

 侯爵夫人は大いに喜び、侯爵は苦笑いをしてパトロンではなく一ファンとして僕を応援していると言ってくれた。ただ、僕の作品を世に出すときは侯爵の出資している出版社からにしてほしいと。僕の答えは一つだった。


 侯爵家との仕事は彼女の手柄となった。彼女の父伯爵は跡取り娘のあげた成果に大いに喜んだが、愛娘に僕との結婚を認めなければ侯爵との話はなしにしてもらうよう話をしてくると脅される羽目になった。

 かくして、僕と彼女は婚約し、卒業後に僕は伯爵家に婿入りすることになったのだ。三男の僕には放任主義を貫いてきた両親もこれには驚き、しかし祝福してくれた。でも一番喜んだのはイフナースだった。


 イフナース自身は卒業後、国戻って父親の仕事を手伝う予定だと話した。会う機会は減るだろうが、手紙のやり取りをしようと僕らは約束した。それからイフナースは、僕の作品が外国へ出版されるくらい有名になって欲しいと言った。

 僕の最初の作品は侯爵の推薦で出版が決まり、同時に僕は戯曲を書いてみてはどうか? とも提案された。この国には様々な劇団があり、劇場も多い。小説よりも戯曲の方が仕事が多いのだ。彼女も無理に伯爵家の仕事をして執筆に影響があるならそちらで稼いで欲しいと言った。その方が、自分もたくさん僕の作品が読めるからうれしいと。


 卒業までは穏やかに過ぎて行った。僕らはいつも三人でいたわけではなく、彼女は彼女の友人と一緒にいる時間も多かったし、僕はイフナースやイフナース以外の友人たちと一緒に過ごす時間もあった。このまま何もなく卒業し、それぞれの進路に進んでいくのだと僕らは信じていた。






 事件が起きたのは、本当に卒業の三か月前だったと思う。


 その日、僕はイフナースや友人たちと学園のサロンでカードゲームをしていた。明日の昼食を賭けたゲームだ。このサロンは学園の生徒なら誰でも使えたが、奥にある特に座り心地のよさそうなソファがある一角にはよく王太子殿下と彼の学友たちが利用していた。

 王太子殿下と婚約者のルイーセ様の仲が冷え切っているのはもう当然の事実で、卒業して一年後には婚礼を控えていたが仮面夫婦になるのは間違いないという認識だった。学園で、殿下は決してルイーセ様に声をかけることはなかった。ルイーセ様の方は殿下の美しさを気に入っている様子だったのでたびたび殿下に声をかけようとしていたが。


 ざわざわと落ち着きない空気をまとった一団が、サロンに入ってきた。僕らはそれぞれの手札から顔を上げた。イフナースのとなりにいた友人が彼の手札を覗こうとしたので、イフナースに小突かれていた。


 サロンにやって来たのはルイーセ様と彼女の取り巻きだった。と言っても、取り巻きはルイーセ様の後ろからついて行くだけだ。彼女は真っ直ぐに王太子殿下の方へ向かい、殿下たちが歓談している傍で立ち止まった。誰も立ち上がらなかった。どこか冷めたような視線がルイーセ様に向けられていた。


「殿下、少しよろしいでしょうか?」


 ルイーセ様の艶やかな声が響いた。


「何だ?」

「卒業式後のパーティーのことで、衣装についてお話したいと思いまして」


 卒業式の後には卒業生とその招待客や来賓を交えて夜会が開かれる。婚約者や恋人は衣装をそろえる風習があり、僕も彼女とどんな衣装にするかこの頃よく話していた。と言っても、僕は社交には疎いので彼女の話を聞く方が多いのだが。


 殿下の冷めた視線がルイーセ様の取り巻きに向けられた。当然だろう。こんなに男子生徒を侍らせて声をかけるなんて。僕がふとイフナースの方を見ると、彼は複雑そうに二人のやり取りを見つめていた。


「そのことだが……城で話したいこともある。次の休日に登城してくれ」

「わかりました」


 ルイーセ様とその取り巻きが立ち去ると、殿下は少し疲れたような顔をして学友たちと何かを話しはじめた。その声は小さく、先ほどの様子がよく見えたこの席でも聞こえない。僕らはカードゲームに戻ったが、イフナースの表情もどこか冴えないままだった。


 翌週、学園内は落ち着かない雰囲気に包まれていた。今まで良くも悪くも学園の中心だったルイーセ様とその取り巻きの一部――特に彼女に傾倒していた生徒たちだ――がそろって欠席していたからだ。それが数日つづけば何かあったのではないかと誰もが噂した。が、詳細は不明なままだった。


「お父様もいろいろと調べているの」


 彼女は眉間にしわを寄せながら言った。


「どうも、ヴォルテルス公爵家で何かあったみたい。詳細は聞けなかったわ」

「僕も侯爵に手紙を書いてみるよ」


 しかし侯爵からの返事をもらう前に、僕らは新聞でヴォルテルス公爵家が全員捕まったことを知った。ヴォルテルス公爵家は他国から違法の薬物を密輸し、裏社会で売りさばいていたらしい。ルイーセ様や彼女の取り巻きの一部もそれに関り、依存性のあるその薬物を利用していたとのことだった。

 ヴォルテルス公爵家をはじめこの事件にかかわった者たちは裁判にかけられ、しかるべき罰を受けることになった。ルイーセ様とその取り巻きも同じくだが、彼女たちは薬物の影響もあり病院も兼ねた監獄へ送られるだろうとのことだった。


 王太子殿下と彼の学友――側近候補たちだ――は事件が明るみに出るとその処理などがあるのか学園には来なくなった。学園はしばらく事件のことでもちきりだったがそうしている間にあっという間に卒業式になり、あれほど目立っていたルイーセ様たちはもちろん王太子殿下も不在のどこか地味な卒業式とその後の夜会を終え、僕らの学園生活はあっけなく終わってしまった。


「手紙を書くよ。住所は?」


 夜会の終わり頃、僕と彼女とイフナースはバルコニーで涼みながら最後の時を過ごしていた。僕はイフナースにたずねたが、彼は困ったように微笑んだ。


「仕事の都合であちこち行く予定なんだ。だから、僕から手紙を書くよ」

「結婚式には来てくれる?」

「もちろんそうしたいけど……」


 歯切れの悪い返事に、僕と彼女は何となく不安になった。


「何かあったのか?」

「えっ? いや、何でもないよ。ただ、本当に卒業したんだなと思って」

「……そうだな」


 「友だちのところに行ってくるわね」と彼女は気をきかせて中へ戻っていった。暗い夜空の下でイフナースの薄い金髪がほのかに光って見えた。


「イフナース、色々とありがとう」

「どうしたんだ? 突然」


 彼はいつものように笑った。


「イフナースがいたから彼女との結婚も決まったし、作品の出版も決まった。本当に感謝してるんだ」

「いいよ、お礼なんて……これからちゃんと彼女をしあわせにしてたくさん作品を書いてくれればそれが一番のお礼だから。それに、僕も感謝してるんだ」

「僕は何もしてない」

「最初にルイーセ様から助けてくれたし……その後も……正直、学園でこんなに気の合う友だちができると思っていなかったんだ」

「それは僕だってそうさ」


 僕らは笑い合い、それから硬く握手をした。それがイフナースに会った、最後の日だった。



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