第3話 逃げ口上

「若木さんがいらした時は、羽藤さんは一人でしたか?」

「その人と二人でした。今まで何度か目が覚めると、女の人と一緒にいたこと、ありましたけど。今回は男の人でした……。だから、大勢で押しかけたから、その人、びっくりしちゃってて」


「どのあたりから記憶が薄れていましたか?」

「その前の日の昼ぐらいです。日曜日だったから、本屋に行こうと思って外に出て、それきりです」


 珍しく羽藤が語気を強める。涙がさらに量を増す。しゃくりあげて羽藤は泣いた。麻子は話しかけずに共にいた。全力で、彼と共にそこにいた。


「私は羽藤さんを信じていますよ」


 羽藤の涙が止まりかけた頃、静かに羽藤に語って聞かせる。

 主人格には記憶がないのなら、交代人格なのだろう。


 もしもホーストコピーだとしたら、羽藤の分身でいる時も、羽藤の中に大人しく収まっている時にでも、場合に応じて主人格の記憶を抜き出し、自分の記憶にするすべを持っている。


「羽藤さんが、財布から盗んでいないと言うのなら、盗んでいないんじゃないですか?」


 顔を上げた羽藤の清らかな双眸に、光が差し込む。瞬きが止む。


「やってはいないということは、やってはいないと言いましょう。自信がなくても、証拠がなくても、盗んでいないと羽藤さんが思うなら、そう言いましょうよ」


 主人格の発言だからと、鵜呑みにしている訳じゃない。

 彼は自分の言動に確証が得られない。

 だから人から何を言われても、叱責されても、自分がそれをしたかもしれない方向へ、思考が傾く。

 

 けれども覚えがないと言うのなら、はっきり覚えがないと言う。

 

 記憶があやふやだとしたら、やってはいない可能性も含まれるだろう。半々だ。


「ありがとうございます……」

「その男性と会ったのは、一度きり?」

「……だと思います。僕、十九歳って嘘ついたらしくって。叔母は条例違反で訴えたりはしないけど、今度僕に近づいたら訴えるって、そのひとに……」


 面談の残り時間が、あと数分に迫っていた時、洟をかみすぎて、鼻の頭を真っ赤にしている羽藤が告げた。

 嵐のあとの静けさが、面接室に拡がった。厳粛な静寂だ。


 羽藤は自分がしたことと、していないこと。そして記憶にないことを区別して考え、答える練習が必要だ。覚えていないと言うことは、決して逃げ口上こうじょうではないからだ。

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