第9話 最初の関門
「わかった。それなら僕がこの院長室にいることを条件として、任せるよ」
駒井の射るような目が和らいだ。
「長澤さんが今日の十一時から十二時の六十分間。僕はここに籠っている。鍵はかけない。万が一何かあったら、すぐにここに来て欲しい」
「先生」
「面談が終わったら、長澤さんが診察室に報告に来て。そうしたら僕も帰るから」
ちょび髭の下の口元が苦い微笑で歪んでいる。
「でも、それじゃ院長まで……」
「帰りの時間は気にすることない。僕は徒歩圏内だし。だけど、長澤さんは地下鉄通勤だったよね?」
「タクシーで帰ります。週に一度のことですから」
「領収書もらっても、通勤手当に出来ないからね。三谷さんは厳しいから」
「もちろん自費です」
経理と総務をかねた三谷を引き合いに出し、肩をすくめて笑い合う。これでやっと、最初の関門を突破した。
主人格の羽藤柚季は今日の面談は欠席した。けれども叔母の若木が来週の面談予約を入れて帰った。
麻子は思わず立ち上がり、腰からふたつに折れるようにして礼を言う。
「ありがとうございます」
「とりあえず、一度はやってみよう」
方針を
回復の可能性の芽があるのなら育てるが、引っこ抜くのは最後の最後だ。
とりあえずでも構わない。
サポートするからやろうと間口を広げてくれた、駒井に心から感謝する。
あとはただ、ホーストコピーの羽藤柚季が来院するかどうかだけ。
朝一番で院長室に閉じ込めた駒井を解放し、麻子は事務室に戻って来た。
「あれ? えっ……と。畑中さんは……」
事務室から短い通路で繋げられたカウンターに、畑中陽子がいなかった。たまに、代わりに入ってくれるパートの女性が立っていた。
「彼女、退職や式の準備が大変だから、有給とって休んでる。このままずっと休んでくれたらいいんですけど」
憤然として三谷が答える。書類の束を重ねて机でトントン叩き、端と端を揃えている。
「院長には正社員で求人かけてっていわれましたけど。あの人は仕事もきっちりこなしてくれるし、しゃきしゃきしていて感じがいいし」
「守秘義務の問題だけだと思いますよ。パートさんと正社員では守秘義務違反の重みが違ってきますから」
「そうなんですかね。あの人で務まったぐらいですから」
三谷は、あの人のところで、今日は空いた畑中のデスクを顎でしゃくってみせる。確かに畑中陽子が守秘義務違反を起こさずに退職するのは疑わしいが、自己愛の強い人間は、不利な状況にだけは陥らない。
理性や知性などとは、また別の、動物的な生存本能。
そういったものに近い気がした。
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