第14話 溺れるひと

 しかし、どうにもならないことだとしても、溺れかけている人を発見したのに見捨てるようなやましさが、重く背中にのしかかる。


 その夜、勤務を終えた後、麻子はクリニックから程近い、路地添いにある整体院に立ち寄った。

 美容院や英会話教室などが入っている雑居ビルの一階にあり、壁のLED看板は既に明かりが消されている。


「こんばんは」

 

 軒下の電気も消された薄暗い出入り口のドアを引き開ける。すると、喫茶店のようなカウベルが、軽やかな音をたて、迎え入れてくれるのだ。

 待合室の受付は無人で、真っ暗だ。

 それでも中に入ってドアを閉め、鍵をかけ、出入り口のタタキで靴を脱ぐ。来客用のスリッパに履き替える。


「おーい、いるのー?」

 

 待合室の奥にある施術室には天井灯が点いている。

 麻子がスリッパの音をパタパタさせて声をかけると、「おう」という男の声が施術室の方から返ってきた。

 麻子はコートを脱いでバッグと一緒に待合室の長椅子に置き、声がした施術室に顔を出す。


「お疲れ」

 

 と、施術台の上で寝そべっていた男が気怠げに起き上がる。

 施術室の天井灯も三分の二は消されていて、男が寝ていた施術台の上だけ温かみのある光を放つ吊り下げランプが点されていた。


「ごめんね。急に頼んだりして」

「全然大丈夫」

 

 本多圭吾は寝起きの子供のように手の甲で目を擦り、かすれた声で返事をした。 整体師の仕事の時の白い詰襟に白いズボンの施術着ではなく、Vネックのセーターにジーンズという私服であり、プライベートモード全開の、気の抜けた顔で麻子を見た。

 

 顎の張った精悍な輪郭の顔にまっすぐな眉。

 目力の強い二重の双眸に高い鼻梁。癖のある黒髪は、寝癖であちこちはねている。髭はファッションではなく、文字通り剃るのが面倒臭いというだけの無精髭だ。


「今日はどうする? 肩? 腰?」

 

 圭吾はさっきまで自分が寝ていた施術台のシーツを整えて、壁際の棚から出した不繊布を顔の位置に広げて敷いた。

 麻子が面談の合間の休憩時間に、この本多整体院の院長でもある圭吾に、ラインでマッサージを依頼した。

 整体院の営業時間は、受付が午後七時まで。

 終了は八時までなのだが、この時間まで待っていてくれた恋人だ。


「ありがとう。今日は背中かな」


 麻子は準備された施術台に尻を乗せ、パンツスーツのジャケットと外したベルトを台の下の籐籠に入れる。


「じゃあ、最初はうつ伏せな」

 

 施術台の脇に立った圭吾の指示通り、施術台の前方の穴に顔を入れて腹這いになる。その上に薄手の上掛けを被せられ、最初に左の臀部に程良い圧をかけられた。

 掌の手首近くの丘を用いて二秒ほどゆっくりじんわり圧した後、麻子が息を吸うタイミングで手を離す。


 圭吾の施術は闇雲にツボを押したり、揉み立てたりする、施術者主導の強引さはない。クライアントの呼吸に合わせて圧す時は圧し、引く時は引く。



 圭吾に圧され、息をしっかり吐き切ることができた時、肺は自然に膨らんで、生き返ったように呼吸がゆっくり深くなる。


「背中がめっちゃ、張ってるなあ。なんかあった?」


 圭吾が胃の裏を押しながら、気遣わしげに麻子に言った。今日は特にその辺の張りと凝りが苦しくて、圭吾の施術をねだったのだ。


「……ちょっと今日のクライアントさんはしんどかった、かな。いつもカウンセリングはしんどいけど」

 

 理由は言わずもがなだった。

 消化しきれずにいる羽藤に対する自責の念がわだかまり、こぶしのように胃の裏にへばりついている。心が痛みを感じるように、身体が痛みを感じているのだ。


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