第13話 助けて

 それから別の初診患者のインテークが入り、麻子は再び面接室に移動した。


 羽藤と同じように六十分の面談を行い、終了後はスタッフルームで面談記録の記入などをしていると、気づいた時には夜の九時近くになっていた。

 


 麻子は向かい合わせに六つ置かれたデスクを離れ、事務室の続き部屋になっている受付スペースに移動した。受付カウンターの内側から待合室を覗いたが、診察時間も過ぎた今、数人が精算を待っているだけだ。


 その中に羽藤の姿は見られない。

 麻子は軽い喪失感に見舞われながら、事務室に引っ込んだ。

 

 羽藤はこれからどうするのだろう。

 院長の診察を受けた結果が気になった。

 ちょうどその時、院長室からスタッフルームに入ってきた駒井こまいに気づいて呼び止める。


「先生、私がインテークした羽藤さん。どうなりました?」

「ああ、あの子か。あの子ね」


 白衣姿の駒井は頷きながら、事務室にある給湯室に移動した。食器棚からキャラクター入りの自分のカップを出している。ご家族が何かの景品で貰ってきたと言っていた、ウサギををモチーフにした女の子向けのキャラクターだ。


「通いたい気持ちはあるみたいだけど、診察料がネックになってるみたいだね」

「やっぱり、そうですよね……」

「でも、まあ、未成年だから。通院するなら保護者の了解は取らないとダメだしね」


 駒井は麻子の詰問に淡々とした口調で答える。


「自分で説明するのがしんどかったら、一度保護者を連れて来てって言っておいた。僕から説明するからって」

 

 駒井はコーヒーメーカーに作り置きされたコーヒーをカップに注ぎ、ブラックのまま啜り上げた。


「先生は通院された方がいいと思います?」

「……どうだろうなあ。記憶の混濁はあるみたいだけど、乖離性障害かいりせいしょうがいとか、統合失調とまではいかない気もするし。記憶をつかさどる脳の分野の問題なのかもしれないから、一応脳外科の診察も勧めておいたよ」

 

 駒井は手近な事務机にカップを置くと、キッチンの配膳台に常備された菓子入れから、キューブ状のチョコレートと、個別包装された焼き菓子を取り出した。


 チョビ髭の似合うダンディーな佇まいながら、甘い物好き男子の駒井が焼き菓子をパクリと頬張る。

 そんな駒井を微笑ましく眺めつつ、羽藤は摂食障害の疑いもあったのになと、麻子は顔色を曇らせた。


 一度に大量の食糧で胃を際限まで膨らませてから、人差し指を喉の奥に突っ込んでは吐く。全部吐く。

 食べるのに吐くという矛盾した行為で、自分は様々な葛藤を人には言えずに抱え込んでいるのだと、暗に周囲に訴えるという心身症だ。



 また、食べ物は母親の象徴でもある。従って、摂食障害は母親との何らかの確執が要因だとも言われている。

 

 しかし、麻子はどちらの説にも賛同しない。


 胃を膨張させて吐き出すと、みぞおちにある呼吸器官の横隔膜おうかくまく弛緩しかんする。

 吐けば呼吸が楽になる。それを、何らかのタイミングで学習したのだ。

 つまり、嘔吐でもしなければ、呼吸もままならないほどの緊張だ。



 体の過度な硬直は、過食嘔吐とまではいかなくても、マッサージなどの対処療法で、ある程度までは改善できる。

 しかし、心身症はマッサージや内科では治せない。

 だが、患者が来院しない限り、自分達はどうすることもできないのだ。


 あと数年して彼が成人し、収入を得られるようになったらまた、どこかで有能な精神科医かカウンセラーに出会って欲しいと、祈るより他にない。

 今の自分達にはどうすることもできないのだと、麻子は自分にくり返し言い聞かせていた。

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