たましいの救済を求めて

手塚エマ

第一章 人を殺しているかもしれない

第1話 人差し指

 その日の夕方、長澤麻子は雑居ビルのエントランスで、扉の閉まりかけたエレベーターを視界に捉えた。ヒールの音を響かせながら駆け寄ると、ケージの中にいた人が、操作ボタンを中で押し、扉を開いて待っていた。


「ありがとうございます」

 

 軽く頭を下げて入るなり、「何階ですか?」との声かけがある。

 操作盤の前にいたのは、紺のダッフルコートにジーンズという、これといって特徴のない服装の少年だ。


「四階をお願いします」

 

 息を弾ませ、麻子は答えた。

 けれども四階には昇降者の存在を知らせる灯りが点っていた。少年は麻子の会釈に微笑で応え、クローズボタンを直後に押した。


 二人の前で扉が閉じられ、エレベーターが上昇する。

 ぎこちない沈黙が支配するケージの中で、麻子は操作ボタンを押してくれた少年の人差し指を、ひと目見るなり瞠目どうもくした。

 

 右手の人差し指の第一関節にできていたのは、特徴的な白みがかった大きな『タコ』。

 ペンダコにも似た硬質なそれは、いわゆる『吐きダコ』。


 一度に際限まで食べ物を胃に詰め込むと、人差し指を喉に突っ込んで吐くという、過食嘔吐をくり返す、摂食障害者に多く見られるそれではないのか。

 麻子が思いをめぐらす間にエレベーターは四階フロアに到着し、少年は昇降ボタンの『開』を押す。


「どうぞ」

 

 品良く促されるまま、麻子はフロアに降り立った。

 すると、麻子の後から少年もケージを降りて来た。エレベーターの正面フロアを左に曲がり、まっすぐ廊下を進み始めた麻子の後ろを少年も、少し離れてついて来る。


 自ずと背中で気配を感じる。


 二人して目指しているのは、廊下の突き当たりにある心療内科の正面玄関。

 つまり麻子と同様、背後の彼も、ガラス張りのドアの向こうに用がある。


  何かを確認しようとするように、背後の彼を振り向けば、それだけで何かしらのストレスとダメージを与えかねない。

 それを回避するために、どこかの会社の事務所でも訪ねるように歩き続ける。

 右手のスマホの画面を見る。

 

 令和の時代にあってさえ、精神科と心療内科への通院は、本人だろうと家族だろうと、後ろめたさを伴うことは否めない。

 背後を覗き見するように、振り返るなどしたならば、来訪者はきびすを返してしまうだろう。恥の感覚を抱きつつ。


 麻子は廊下の半ばで右手側の『関係者専用』ドアを開いたが、少年は麻子の後ろを素通りした。気後れもせず、そそくさともせず、一定の歩幅を保っていた。


 そして、突き当たりにあるガラス張りのドアを引く。


 ドアガラスには『駒井クリニック』と、明記されているものの、『メンタル』『心療内科』『精神科』等々、書かれていない。

 それは、通院するクライアントの心の負荷を軽くする意を込めている。


 少年が入ると同時に、ベビーピンクの看護衣をまとったスタッフの、「こんばんは」という、少し鼻にかかったような、女性の声が聞こえてきた。

 声の主は、畑中陽子だ。

 声だけ聴けば、キャバクラ嬢の「いらっしゃいませ」。


 しょうに合わない畑中の声が、直に届かなくなった時、麻子はガラス戸の向こうに佇む彼に、そっと視線を投げかけた。

 受付カウンターで畑中に保険証を出した後、待合室での着席をゼスチャーで促されている。

 おそらく十六、七歳。大学生ではないだろう。


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