第3話 A-side
破綻というか、転落というべきか、転機というものがすべからくそうであるように、騙し騙し続けてきた生活は、ある日堰を切ったようによくない方向へ向かい始めた。
きっかけは世界的なウィルス感染症の大流行だった。どうあっても、ワクチンの摂取はしなければならない。検査をしなければならない。
その日は全社的な接種を行うことになっていたので、仕事はなかった。自己管理のひとつという仕事だ。
問診票を書かせられた。熱はないか、だるさはないか、普段飲んでいる薬はないか、エトセトラ、エトセトラ。最後に、副作用だか副反応があることを承知します、という箇所に署名をさせられた。こういう箇所の署名を拒否したらどうなるだろうかと、ふと思った。
正直言って、当麻はひどく具合が悪かった。特にだるさは、半端なものではなかった。誰がみても原因は寝酒である。それも1日にボトルを一本空けることもある。プロレスラーでもあるまいし、さすがに少し自制したほうがいいのかもしれないなとは思い始めていた。
しかし、心で思うことと、身体の行動が一致するわけではなかった。
心が悲鳴を上げる。しかし身体はその悲鳴を聞かないふりをする。
あるいは、身体がとっくにぼろぼろで苦しさにうめき声をあげているのに、心は走り続けることを、やめようとはしない。
苦しい……
もはやその声がどちらから発せられたものであるかは、明らかだったし、自分でもはっきりとわかっていた。
だから、「体のだるさがある」にチェックを入れたその行為は、悲鳴を上げる行為となんら変わるものではなかった。助けを求めたのである。誰かが気に留めてくれることを期待して。
その悲鳴はどこかに響いたようで、当麻は特別に血液検査を受けることを勧められた。結果は幾日か経過してすぐに伝えられた。γの値というものが、常軌を逸するような数値であったという。
当麻はその連絡を病院からの電話で知らされた。着替えなどの支度をして、入院をすべきということであった。必要があれば、診断書を書きますよという。
まずいことになったと思った。入院などとは予想していなかった。自分を仕事人間などという、旧時代の人間のようなことは思っていない。思ってはいないが、彼にはプライドがあった。入院で休みます、などということになれば、「見たことか」と言われてしまう。それは嫌だ。俺は、俺の力を…やつらにできて、俺にできないはずがない。やつらにできて、俺にできないことなんか、ない。
こんなところでつまづいている場合ではないのに……。
結局当麻には結論を簡単には出せない。時間がなさすぎた。
当麻は、上司というか、それなりの立場があり、相談ができそうな人物に、率直にありのままを話すことにした。そのためには、まず診断書を取ってこなければいけない。
土曜日に、近場の総合病院に行くと、また血を抜かれ、いろいろな科に回された。その中のひとつが精神科だった。
精神科や心療内科に縁がなかったわけではないが、特に利用していたわけでもない。だいぶ以前に何かで通院したことはあったけれど、その時初めて通ったクリニックの印象がひどく悪いものだった。
いかにもインテリ然とした女医が、こちらの症状(それもどんなものだったか忘れてしまったほどだが)を少し聞いただけで、「あなたはこういう人間だ、こういう性格で、これまでもこれこれこういう悩みがあったはずだ。そうでしょう。自覚がないとしても、あなたはそうなのだ」と一方的に断定されたうえに、「そういう性格なのだから、こういうことになるのだ」だとか、「そういう人間は何々という人格に陥るものなの」と、聞いたこともない用語をまじえつつ決めつけられ、わけのわからぬ薬の名前を出して「何何を出しておくから、決まった時間に必ず飲むように」と言われた。出された薬を飲んだが、吐き気はするわ、だるいわで、何一ついいことはなかった。こんなものを飲み続けるくらいなら、病で苦しんだ方がましだと思ったものだ。
後で知ったことだが、こういう薬は一か月欠かさず飲み続けることで、はじめてわかるものだという。それも、良い効果が出るとは限らず、合う、合わないがわかるのだと聞いて、あきれた。こんな薬を、嫌がらず毎日決まった時間に、一か月も二か月も規則正しく飲み続けられる精神力があるのは、よほど健康的な人間なんだろうなと思った。
結局、その女医のクリニックは、数回通っただけで、やめてしまった。どうせ通っても、「調子はいかがですか」と尋ねられ、「はい、まあまあです」と答え、「ではこれまでと同じお薬を出しておきますから、お大事に」というやりとりしかなかったし、調子がよくないと答えれば「それは薬をきちんと飲んでいないからだ」と責められる。何一つ良いことはなかった。
そういう経験もあったし、精神的な部分に何か問題があるのかもしれないと思ったこともあったが、次第に寝ずに仕事をすることもできるようになってもきた。そんな自分がたとえば、うつ病だとか、そんなはずがあるはずもないと考えるようになったのである。大体うつ病のような人間は、引きこもったりしているものだろうという印象だった。
だから、精神科というものにかかるというか、関わるのは本当に久しぶりのことだったのである。
医師は50代半ばくらいで、やや頭部が後退している男性だった。問診票というか、今日まわった科の書類を見て、「ああ、以前こういった心療内科に通っていらっしゃったことがあるのですね」と言った。当麻は首肯し、「失礼ながら、あまりいい思い出はありませんけどね」と答えた。
「え、それはどうしてですか?」と聞かれたので、薬を飲むのが辛過ぎたこと、冷たい女医にうんざりしてしてしまい、薬を飲むのをやめてしまったこと、通院をするのもやめてしまったことを話した。
「ああ、そうなんですねえ、いろんな先生が中にはいますからね」と共感はしてくれたが、続けて言った。「でも、心療内科に通おうと思ったからにはそれだけの、何か、自分で自覚できる症状があったから、なんじゃないんですか?」と言われた。それはそうだ。
「ちょっとだるいなとか、寝つきが悪くなったりっていうことは、ありましたね」
「今はどうなんです?」
「ぜんぜん、問題ありません。仕事もまわせてますし、寝ないで仕事することもあるくらいですから」と、自信を持って答えた。
「寝ないでですか?あとで疲れるでしょう?」
「いや、それもほとんどないですね。月金で仕事をして、さすがに土日は寝ますが。まあ、たしかに朝は最近きつくなりましたね。そろそろいい歳ですし、ちょっと体力的位に衰えてきたところは否めないでしょうけどね」
医師は当麻を見て、頷きながら話を聞いてくれた。いい医者のように思た。
医師は、これまでの資料を見ながら、真剣な表情をさらに強張らせた。
「あのね、あなたの場合、だいぶ以前に一度病院に行ってるじゃないですか」
「はあ」
「そこでその女医の先生が冷たいのでやめてしまったと」
「ええ、まあ」
「それって、わりと大事かもしれなくて、少なくともその先生も、素人じゃないわけですよ。その先生が薬を出したり、通院の必要があると判断したっていうことは、それは軽視しちゃいけないっていうか、それはその必要があるということなんですね」
「……まあ、それはそうですね」
「それでね、あなたの場合、病院に行くのも薬を飲むのも自分の判断でやめてしまってるっていう、ちょっときつい言い方になっちゃうんですけど、それってすごくよくないんですよ」
「いや、しかし、仕事ができないっていうこともないし、むしろ全然順調なんですよ。だから鬱とか、っていうのとは違うんじゃないですか」
「そこなんですけどね」
医師は慎重な判断を下すような、何か深刻な病気を患者に告知する時のような間を持たせた。
「何より仕事ができているっていうのが逆に決定的でもあるんですよ。すごくこれ、判断が難しいんですけど、双極性障害ってわかります?」
話が妙な方向に向かっていくのを感じる。障害?
「聞いたことはある気がします。障害?ですか?」
「いわゆる
「それは、同じものなんですか?」
「全く同じ。ただ名前が変わっただけで。よく、そういうの、最近よくあるじゃないですか」
「でも、『病気』から一気に『障害』って……、かえって悪くなってないですか。そういうものなんですか?」
「正直、うつ病だけなら、困るのは自分だけかもしれないじゃないですか。基本的にはね。双極性っていうのは、わりと周囲を巻き込んじゃうっていうことは、多いです。そういう意味では、まあ呼び方の問題でしかないんだけど、症状としては重いことは、多いです」
そのような宣告を受けて、当麻は診察室を出た。
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