第4話 死臭 -解 後編-

「主観……」

「そうです。人は主観でしか物事を認識できません。ですから、事実をただ認識するという一見単純な行為であっても、必ず自分というフィルタを通すことになります。つまり、認識した事実は必ず歪んでいるのです」


 私は、店主が何を言わんとしているか、何となく分かった。


 しかし、“必ず歪んでいる”というのは言い過ぎではなかろうか? そう思っていると、店主は、カウンターの下から、何やら取り出し、我々の前に置いた。


 それは、真っ黒な小さめなワイングラスのようなものであった。


 店主は、問う。


「お二人は、これが何色に見えますか?」


 私たちは、困惑した。


 どう見ても、黒色である。いや、ひょっとすると、そう見えるだけで実は濃紺なのかもしれない。


 二人で顔を見合わせる。


 山田さんも困惑しているらしかった。


「黒……ですか?」


 山田さんが、おずおずと答える。


「お客さまはいかがでしょう? 何色にみえますか?」


 私も、自信なく答える。


「黒……いや、ひょっとしたら、濃紺かもしれません」


 店主は、悪戯っぽく微笑むと、解答を発表した。


「お二人とも、ご自分の認識に自信を持ってください。これは、黒色のワイングラスです。これは、ワインの“色”という情報をあえて隠して、味と香りだけで産地や葡萄の品種を感じる力を養うためのグラスなのです」


 私は、ほっと胸を撫で下ろす。やはり黒色であっていたのだ。


 冷静になってみれば、誰がどう見ても黒色である。


“黒色のワイングラス”などという、非常に珍しいものを突然出されたため、何か引っかけがあるのかと勘ぐってしまった。いや、それだけでなく、認識という行為が主観的で、認識結果は必ず歪んでいるなどという話を聞いたというのも大きかったように思う。


「もう、詩織さんひどいですよ。揶揄うなんて」


 山田さんが口を尖らせて抗議すると、店主は笑って謝罪をする。


 確かに、完全に手球に取られてしまった。


 だが、なぜだか、それが何となく心地よいと感じている自分がいた。


「さて、冗談はこれくらいにして……。今、お二人は、明らかに認識しているはずの事実を疑いましたよね? それは、私が先ほど言った、“認識した事実は必ず歪んでいる”という言葉と、ソムリエやバーテンダーを目指す人間しか見る機会がほぼない珍しい色のワイングラスに惑わされたからではないですか? もしかしたら、何か引っかけ問題なのではないか……と」


 図星である。


 山田さんもおおむね同じような思考回路をしていたことが、少し悔しそうな顔から見てとれた。


「このように、人間は、色を知覚するという単純な行為であっても、視覚情報以外の、例えば経験や知識、ヒントのような発言といった様々な情報を加味して判断するのです。そして、この視覚情報以外の情報の種類、解像度などは、当然、各個人によって異なります。これこそが、色の知覚という行為を主観的にしてしまう原因なのです。もし、ソムリエを目指す人間に同じ事を質問しても、迷いなく『黒だ』と答えるでしょう。なぜなら、その人間は、黒色のワイングラスを知っているのですから」


 なるほど、実際に自分の認識が揺らぐという経験をした後だからこそ、実感をもって、今の話を理解することができた。


「なるほどなあ」と感嘆を漏らそうとした時だった。


 にこやかだった、店主の顔が突然無表情になる。


 そして、一つの問いが投げかけられた。


「では、もうひとつお聞きします。黒色とは、どんな色ですか」


 まるで怪談を語る時のような、温度を失った声色だった。


 私は、瞬間的に心拍数が上がるのを感じた。それは、質問の内容に驚いたのではない、店主の極端な変化に驚いたのである。


 しかし、黒色とは、どんな色であるかだって? また、そんな突拍子もない質問を……。


 黒色……例を挙げればキリがない。


 髪の色や、目の色……いや、違う。これでは人種などに左右されて、一般的ではない。もっと、一般的で普遍的な黒いものはないか……そうだ、夜空の色だ! あれは、誰がどう見ても黒色である。


「夜空の色です」


 そう答えると、頭を捻っていた山田さんが、ぽんと手を叩いて、「それだ!」と声をあげた。


 店主は、じっと私の目を見たまま何も語らない。


 時間にして三秒にも満たないであろうわずかな沈黙。


 しかし、私を緊張させるには十分すぎる時間であった。


 店主がやはり温度のない声で、ゆっくりと問いかけてくる。


「私とお客さまが見ている夜空の色は、本当に同じ色なのでしょうか」


 何を言って……。


 そしてはっとする。


 夜空は確かに黒色である。


 しかし、店主と私が黒色と認識している色は全く同じとは限らないのである。もしかしたら、店主の目には、夜空が、私でいうところの赤色に見えているかもしれないのである。


 そしてそれを確かめる術はない。


 なぜなら、認識は主観的、一人称的であるから……。


 急に自分の信じてきたが色を失い、ぐにゃりと変形するのを感じる。


 背中には一筋の冷や汗が流れた。


 怖い。


 私は、自分が今認識しているこの世界が怖い。


 もしかしたら、人間のように見えている目の前のこの女は、他人がみれば、怪物のような見た目をしているのかもしれないのだ。


 やはりここは異界だ。


 息がうまくできていなかったのか、息苦しさを感じ始めたとき、目の前の怪物が柏手を打った。


 その瞬間、私は現実世界に引き戻された。


 店主は、怪物ではなく、美しい女の姿で、そして、先ほど同様、優しげな笑みを浮かべていた。


「怖がらせて申し訳ありません。今の話は、ただの怪談です。本気になさらないでください。しかし、今までのお話で、人間の認識がいかに主観的、一人称的であるかがお分かりになったと思います」


 私たちは、大きく何度も頷いた。


 それには、もう、十分分かったからこれ以上怖がらせるのはやめてくれという意味も含まれていた。


「さて、そろそろ本題に参りましょう。山田さんが聞かせてくれたこの怪談は、『死の臭いがする』という霜山さんの言葉を山田さんというフィルターを通して、主観的に理解したからこそ発生したものです」

「つまり、私の認識がまちがっているのですね?」


 そう山田さんが、小さな声でつぶやく。


 店主は手を振りながらそれを否定する。


「いいえ。決して間違っているのではありません。ご理解いただけたとおり、認識という行為は主観的なものですから、そこに正解も不正解もないのです。本人がどう認識したかという結果だけがあるのです。もしあるとすれば、それは認識のだけです」

「ずれ……」

「そうです。ずれているのです」

「じゃあ、私と霜山さんで、どうずれていたのですか?」

「その前に、山田さんの記憶違いを一つご指摘させていただいてもよろしいでしょうか?」


 山田さんは、なんのことだかピンときていないようだったが、ゆっくりと頷いた。


「先ほど、なぜ霜山さんに特別な力があると思ったのかと私が聞いた時、山田さんは、こうお答えになりました。『霜山さんが、死の匂いがすると言っていたからだ』と。しかし、この怪談を初めて山田さんから聞かせていただいた時、霜山さんから聞いた言葉の表現は今と少し違っていました。確か、『亡くなる方には独特な匂いがあると言われた』と、そうおっしゃていました」


 山田さんは、確かにという顔をする。


 しかし、私には、今聞いたどちらの表現も大差ないように思えた。


「確かにそうだった気がしますが、何か違うんですか?」と山田さんが尋ねる。


 どうやら、私と同じことを思っていたようである。


 店主は、胸の前でぽんと両手を合わせると、「これこそが、山田さんと霜山さんの認識にずれが生じていたことの証拠です」と答えた。


「いいですか? 死の匂いの“匂い”とは、比喩でも何でもないのです。言葉の意味そのままなのです」

「へ?」


 山田さんが素っ頓狂な声を上げる。


 驚くのは無理もない。


 本当に死に匂いがあるというのか? そんなわけがない。


 ……いや、違う。


“死に匂いがある”のではない。これは、山田さんの主観的な認識である。


 霜山さんの言葉は、“亡くなる方には独特な匂いがある”である。


 霜山さんは、単に、死期の近い人間はということが言いたかったのである。


「え? もしかして本当に匂いがするということなんですか? でも、私、そんな匂いを感じたことないですよ……」


 その問いに店主がさらりと答える。


「そこは、経験の差でしょう。霜山さんは、看護師歴二十年以上のベテランですし、それこそ数えきれないほど、患者さんの死を経験しているはずです。ちなみに、山田さんは、消化器関係の病棟に勤務しているのではないですか?」


 山田さんは、目を丸くして驚いていた。


「そうです! 消化器外科病棟です。でもなんで……?」


 店主は、悪戯っぽい笑顔を見せる。


「実はですね、私には兄がいるのですが、医者なのです。この間、久しぶりに電話で話した時に、この怪談を話して聞かせたんです。そしたら、『そんなものは怪談でも何でもないよ』と言うんです。しかも、『きっとその看護師は、消化器科だ』なんて予言めいたことまで言うもんですから、私むっとして兄を問い詰めたんです。兄によれば、人間は死期が近づくと、消化機能が低下して食事が十分に消化されなくなり、その消化されなかった食物が消化器官の中で、ある種の発酵臭を発することがあるらしいのです。そして、その匂いは消化器を患っている方に顕著に現れるとも言っていました。どうやら、兄も、友人の消化器外科の方から教えてもらったようですが……。ちなみに、兄の友人曰く、その匂いはトマトジュースのような匂いだそうです」


 なんて事だ……。


 霜山さんの力は異能でも何でもなく、物理現象、いや化学反応によって発生する臭気を敏感に感じ取っていただけなのだ。


 その話を、その匂いを感じたことがない山田さんが、何か比喩的な表現であるとバイアスをかけて認識したことによりこの怪談は生まれたのである。


 店主が語った言葉を思い出す。


「怪談とは、一人称的視点の物語である」


 思わず、口をついて出てしまった。


「そのとおりです。現代の怪談は、この一人称的に認識した物事と客観的事実とのずれが生みの親であることがほとんどなのです」


 店主は最後にそう締めくくった。


 しかし、そうだとすると、この世の全ての不思議は全て勘違いということなのだろうか?


 いや、そうではないはずだ。


 なぜなら……


 その時、隣の山田さんが「あっ」と声を上げた。


「大変! もうこんな時間! 私、明日も仕事なんです。詩織さん。謎を解いてくれて本当にありがとうございました。スッキリしました。ああ、ちゃんとお礼したいのですが、もう時間が……」

「お礼なんて結構ですよ。これは、私の趣味ですから。すぐにお会計準備しますね」


 そう言って、店主は手早く会計を準備する。


 伝票を渡された山田さんは、手早く会計を済ませると、私に「おやすみなさい」と一言告げて、足早に外界へとつながる扉へと向かう。


 私は、その後ろ姿を何となく、ぼうっと眺めていた。


 彼女があの黒く重苦しい扉から出ていく。


 その瞬間、私は、後頭部を殴られたような激しい頭痛に襲われた。


 あまりの痛さに目の前が明滅し、私はゆっくりと気が遠くなるのを感じた。


 どこか遠くの方で、店主が私を呼ぶ声が聞こえる。


 その声に混じって、微かに、しかし確かに獣の咆哮のような声が聞こえた。


死臭 -了-

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