第36話 牛女 -終 大詰め-

 今日は月曜日だ。


 お店は休業日であるため、昼近くまで寝てしまった。


 昨晩、就寝したのが夜中の二時過ぎであったことを考慮しても、明らかに寝すぎである。


 寝すぎのためか、いつもよりも重たい体を無理やり起こし、カーテンを開ける。今日はどんよりとした曇り空だった。


 今晩、玲子さんと真琴ちゃんと夜ご飯を食べに行く約束をしていた。


 T駅に十八時に集合の予定で、約束の時間まで、まだ十分に時間があったが、そろそろ活動を開始するべきだ。


 とりあえず、眠気を覚ますためにシャワーを浴びることにした。


 シャワーを浴びながら、何を着ていくか考えていると、あの黄色いトレンチコートの女の事件が頭に浮かぶ。山下さんはその謎の女を”牛女”と名付けていたことを思い出す。


 伊丹さんから聞いた牛女の犯行現場は、すべて私が関係した怪談に関連しているところだった。


 これは偶然なのであろうか。


 このK市を中心として、とてつもない怨念が渦巻いているような気がしてならない。


 この世には忌むべき土地というものがある。それは、怪異達の住処であり、人間が足を踏み入れれば、障るのだ。


 真琴ちゃんたちを襲った伊角という用務員は、神社で真琴ちゃんの友達の依里ちゃんを襲ったという。その神社が彼の死に場所となった、N神社だったとしたら?


 そして、あの積み木遊びのご婦人は、お孫さんをあのS寺児童遊園地で亡くしている。


 その時、ある恐ろしいアイデアが浮かぶ。


 牛女を見たら死ぬのではなく、忌地であるこれらの場所になんらかの縁を持つと死ぬのではないか?


 ならば、私はすべての事件に関係しているわけで、いつ牛女が現れてもおかしくはない。それどころか、小林くんや、真琴ちゃんなどにも影響がある可能性がある。


 自分の想像にぞっとし、熱いシャワーを浴びているというのに、寒気がした。


 しかし、これらの土地に関係している人間は大勢いるはずだ。そのすべての人間が死ぬのだとしたら、それこそ災害級の犠牲者が出るはずであるが、そのような事態にはなっていない…そう無理やり納得して、この思い付きを否定する。


 しかし、一度思いついてしまったこの考えが脳にこびりつき、中々離れなかった。


 とりあえず、早くシャワーからでて、昼食を食べることにする。何か食べれば気分も変わると思ったのだ。


 しかし自炊する気にはなれず、近くのコンビニに赴き、適当な昼食を買い込み、それを食べた。空腹が満たされれば、多少明るい気分にもなった。


 その後は、牛女のことを考えないようにするため、この間、ついに携帯にインストールした小林くんお勧めのゲームを起動して少し遊んでみたり、次に仕入れるお酒の選定などをして時間をつぶした。ゲームは、あまり楽しいとは思えなかった。


 あまりやることがなく、早めに出かける準備を始める。


 準備が終わったのは、十七時を少し回ったところだった。待ち合わせのT駅までは、十七時半に出れば十分間に合うが、早めに行って、T駅の駅ビルでもぶらつこうかと思い立ち、家を出ることにした。


 その時、携帯が鳴った。画面を見ると小林くんからだった。


 休日に電話をしてくることはほとんどないので、不思議に思う。


 胸騒ぎがした。


 携帯の通話ボタンを押して耳にあてると、尋常ならざる様子の小林くんの声が聞こえた。


『詩織さん! 助けてください!! どうしよう、殺されちゃいます!!』

「小林くん!? 落ち着きなさい! 何があったの」

『先生の研究室を訪ねたら、黄色いトレンチコートの女がいて……先生、倒れてて……それで、怖くなって走って逃げたんです! 後ろ姿しか見えなかったですけど、きっと、ニュースでやってる女ですよ!』


 血の気が引いていく。


「今どこなの?」

『わかんないです……夢中で逃げてたし……』

「とにかく、警察に電話しなさい! それから、なるべく人通りの多いところに逃げるのよ。」

『僕もそうしたいんですけど、人通りの多い方に曲がろうとすると、必ずあの黄色いトレンチコートが曲がり角から、ちらっと見えるんです! なんで!? なんで俺の行く方向に先回りできるんだよ!!!』


 小林くんはパニックに陥っているようだった。


「落ち着いて。大丈夫。今助けに行くから! 周りに何が見える? 住所とか書いてない?」

『ええっと、F市美術館って書いてあります。どっかの大きな公園です!』


「ちょっと待って」と声をかけ、その美術館を携帯で検索する。どうやらFの森公園という公園に併設されている市営の美術館のようだ。ここから、徒歩で二十分以上かかる距離だった。しかし、動かないわけにはいかない。


 急いで、玄関に向かう。


「小林くん。場所は分かったから、今から助けに行くからね。このままつないだままにしてちょうだい」

『わかりました。お願いします』


 少し落ち着きを取り戻せたようだ。


 適当な防寒着を手に取ると、玄関に走る。


 携帯をいったんわきに置き、スニーカーを履く。玄関の扉を力いっぱい押して外に転がり出た。


 携帯を耳にあてると、小林君のやけに冷静な声が聞こえた。


『あ』

「小林くん?どうかした?」


 しばしの沈黙。


 そして、すべてをあきらめたような絶望の声がする。


『詩織さん。もうだめです。あいつが来ました』

「小林くん、逃げなさい!!」


 そう叫んだ瞬間、電話の向こうから断末魔が聞こえる。


 全身の毛穴が開き、心臓が凍り付く。


 そして、電話は切れた。


 *

 警察に通報してから、Fの森公園に走って向かう。幸運なことに途中でタクシーを拾うことができた。


 タクシーを降りると、公園の入り口にはパトカーが一台停まっていたが、近くに警官の姿はなかった。警官を待っている時間はなかった。


 公園内は暗く、ひっそりと静まりかえっていた。


 公園内をがむしゃらに走り回り、小林くんを探す。


 すると……前方、20メートルほど、木立の中に何か光るものが落ちているのが見えた。


 駆け寄ると、それは小林君の携帯電話だった。


 それを拾い上げて、あたりを見渡すが、小林くんの姿はなかった。


 彼の名を呼ぶ。


 その声は涙で震えていた。


 そのとき、視界の右端で何やらひらりと光るものが見えた。


 思わず、その方向を振り返る。


 そこには--


 黄色いトレンチコートを着た髪の長い女が立っていた。


 顔があるべきところには暗闇が広がっている。


 その暗闇に二つの大きな目だけが浮いていた。


 次の瞬間、暗闇から白い歯がにゅっと現れる。


 その女は嗤っていた。


-りん-

すぐ近くで鈴の音が響いた。


牛女 -了-

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