第34話 牛女 -終 四の幕-

「本当にありがとうございました!」


 小林くんが、山下さんに頭を下げる。


 小林くんが迷惑でもかけたのかと心配になり、近づき、「何かありましたか?」と山下さんに声をかける。


「いやいや、大した事じゃないんですよ」


 山下さんが愉快そうに答える。


「実は、教授せんせいが、母さんからもらった御守りを届けてくれたんですよ。今週の火曜だったかな?その時からなくて……」


 そう言いながら、小林くんは手に持ったお守りを見せてくれた。


 今週の水曜日に、店に赤い巾着状のものが落ちてなかったかと小林くんに聞かれたことを思い出す。


 お守りは、巾着型をしており、生地はシルクのような滑らかな光沢のある赤色で、全体に金糸で刺繍が施されていた。


「これ、母さんの手作りなんですよ。上京するときに持たせてくれて。ほら、俺、怖いの苦手じゃないですか?いい歳して馬鹿みたいなんですけれど、夜道とか、怖いなって思ったとき、この御守りを思い出すと、ちょっと安心すると言うか……あれ?なんか言ってて恥ずかしくなってきました!」


 小林くんは、顔を赤らめた。


「いや、そんなに大切なものだったとは、拾ったのが私でよかったです」


 山下さんは、目を細める。


「でも、良く小林くんのだって分かりましたね?」


 先程見た感じでは、名前などは無く、少し不思議に思ったので、聞いてみた。


「いやぁ、なに、落とす瞬間を見てたんですよ。後ろ姿からすると小林くんだったのですが、確信がなかったし、彼は走ってどこかに向かっていたところだったのでね。仕方なくその日は預かって、今日渡しにきたというわけです」

「そうでしたか。わざわざ、ありがとうございました」


 私が礼を述べると、山下さんは「いやいや、もとより今日、お店に寄るつもりでしたから。ついでです。」と、笑って言った。


 隣にいた小林くんがやけに真剣な眼差しで、「詩織さん!山下さんにお礼がしたいのですが、僕から一杯、ご馳走しても良いですか?」と聞いてきた。


「もちろん。良いわよ」


 そう答えると、小林くんは満点の笑顔になる。


「と言う事で、山下さん。好きなもの頼んでください!」


 そう言われた山下さんは、「弱ったなぁ…」と言いながらも嬉しそうで、あの黒胡椒のクラフトビールを注文した。


 どうやら、お気に召していただけたようだ。


「じゃあ、小林くん。お願いします」


 そう言うと、小林くんは少し意外そうな顔をして「良いんですか?」と言った。


 酒類の提供を小林くんに任せた事はない。バーテンダーではないからだ。しかし、今回は、お礼の気持ちを表現するにはこれが一番だと思った。山下さんも日頃から、彼にシェイカーは振らせないのか?と気にしていたし、いつか彼にカクテルを作ってもらいたいと漏らしていた。


 山下さんは心から喜んでいるようで、「是非お願いするよ。」と言ってくれた。


 小林くんは、多少緊張していたものの、上手にビールを注ぎ、山下さんの前に置く。それを山下さんは、美味しそうに飲んだ。


 嘆息を漏らしながら、グラスをカウンターに置くと、山下さんは小林くんに声をかけた。


「そういえば、小林くんって、学部はどこだっけ?」

「え?社会学部ですよ」

「そうか、三年生?」

「はい。そうです」


 小林くんは社会学部だったのか。


 バイト採用の時、履歴書を受け取ったが、すでにお店の常連であり、人となりも良く理解しているつもりだったから、ちゃんと目を通していなかった。


「小林くん。必修の文化社会学概論って、授業出てないでしょ?私が担当してるんだよ」


 山下さんは笑いながら言う。


 小林くんは、"しまった"と言う顔をしたかと思うと、なんとも罰の悪そうな顔をしながら、「はい」と答えた。


 真面目な仕事ぶりの小林くんが、必修の授業を自主休講していることに多少驚いた。


「実は、その時間はサークルの集まりがあって……。それに、先輩からは教授せんせいは出席を取らなくて、期末テストの結果だけで単位をくれるって聞いていたもので……もしかして、出席も加味されるんですか?」


 小林くんはかなり焦っているようだった。


 山下さんは微笑みながら、彼の心配を否定する。


「いや、期末テストの結果だけで評価するというのは本当だよ」


 小林くんは、心底ホッとした様子だった。


「でも、一度も授業でてないなら、どこが範囲かも分からないでしょう? 今度うちの研究室に遊びにおいでよ。来週の月曜日の五限目なんてどうかな? 私はそのあと特に予定がないから、ご飯でも行こうか」


 山下さんは、小林くんに相当入れ込んでいるようだ。これも、小林くんの人たらしの才能によるものなのだろう。


「本当ですか! やった! ありがとうございます!」


 小林くんは嬉しそうに笑った。


 その時、店の扉が開いた。


 反射的にそちらを向き、「いらっしゃいませ」と声をかける。


 そこには意外な人物が立っていた。


 伊丹刑事だった。

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