第5話五号棟のケンタくん

※お題は『鳥』『ねこ』『海』でした。




「お父さん。ケンタくんがね、この絵を描いてくれたの」


 色鉛筆を巧みに使った、鮮やかな海の光景。

 海水浴場であろう、多くの人々が海で泳いでいた。一人ひとりの表情も豊かに表現しており、とても十一才の少年が書いたとは思えなかった。


「これね、合間の時間に描いたんだって。私にプレゼントするために」


 そう語るのは娘の詩織だ。

 二十七歳の大人の女性だからはしゃぐことはないが、どこか浮かれていた。

 まあ慕ってくれる少年からの贈り物なのだから、当然だけれど。


「詩織。もうケンタくんと親しくなるのはやめなさい」


 父親として、私は言わねばならなかった。

 娘が傷つくのは見たくなかった。


「…………」


 詩織は不満そうに口を尖らせた。

 でも反論はしない。

 理由は分かっているからだ。


 詩織は看護師で山県病院という大病院に勤めている。

 五号棟の担当だった。

 そして、その病棟は――終末治療の患者を診ていた。

 ケンタくんはそこの患者である。



◆◇◆◇



 私は元々、山県病院の外科医で、今は地元で開業医をしている。

 その縁もあって、娘は働いている。はっきり言って看護師としてはまだまだ未熟で、確固とした意思がない半人前だ。でも患者からの評判は良いらしい。


 詩織が五号棟に配属されたのは、一か月前のことだった。

 まだ患者の死に立ち会っていないようだけれど、いずれ向き合うこととなる。

 そのときになって、娘は耐えられるのだろうかと、親として心配になる。


 詩織は普段、山県病院の近くに住んでいる。だが休みのときは私の元に帰ってきてくれる。自分で言うことではないが、親子仲は良好だった。


 私は少しだけ詩織のことが心配になった。

 帰ってくるたびに、件のケンタくんの話をしてくるようになったからだ。

 一人の患者に肩入れしてしまうのはあまりよろしくない。

 ましてや終末治療を受けているのだ。いずれ別れのときがくる。


 だから営む診療所を休んで――医師は私以外にもいる――古巣である山県病院に赴いたのは、純粋に娘を心配したからだった。


 五号棟への行き方は案内されずとも分かっていた。そこに配属されたことは無かったが、長年勤務していた元職場なので問題は無かった。


「ケンタくん。今日の調子はどう?」

「詩織お姉さん。うん、少し楽だよ」


 五号棟と三号棟の間の中庭で、娘と話す少年の姿を見かけた。

 その子は車椅子で、膝にスケッチブックを置いて、ベンチに座る詩織と会話しながら絵を描いていた。

 昼寝をしているねこを見ていることから、それを描いているのは容易に想像できた。


「やっぱりすごいね、ケンタくん。もう下書き描いたんだね」

「本気出せば、もっと早く描けるよ。でも息切れしちゃうんだ」


 私は二人に見られないように、病院の壁にもたれながら聞いていた。

 そのうち、詩織が仕事で席を外した。


 ケンタくんは穏やかな表情で、庭の花や木を眺めていた。

 顔色はとても悪いが、それ以外は異常が見られない。


「ちょっといいかな? 隣に座っても」


 私はケンタくんに話しかけた。


「うん? いいよ」


 ケンタくんは何でもないように答えた。しかし私がベンチに座ると「おじさん、初めて見るね」と不思議そうに言った。


「三号棟の人? 五号棟じゃ見なかったから、そうだと思うけど」

「患者ではないよ」

「じゃあ誰かのお見舞い?」

「それとも違う……いや、同じかな」


 ある意味、詩織を見舞いに来たのだからそう言えなくもない。

 ケンタくんは「そっか」と言いながらねこを眺めた。

 眠りから覚めて大きく伸びをしていた。


「君は五号棟の患者かな。さっきの言葉だとそう考えられるけど」

「うん。おじさんは五号棟のこと知っているの?」

「ああ。十分知っているとも」


 きらきらと光る日光が木の葉の間から、私たちを照らす。

 ケンタくんは「じゃあもうすぐ僕が死ぬのも分かるんだね」と笑った。


「ああ。終末治療のための病棟だと知っている」

「……ねえ、おじさん。変なこと聞いていい?」


 私が無言で頷くと、ケンタくんは「死ぬってどういうことかな」と訊ねた。


「さあ。私は死んだことがないから分からない」

「だよね。僕は、ものすごく怖い」


 ざああと一陣の風が吹いた。

 私は「誰だって怖い」と何の救いにもならないことを言った。


「もうすぐ苦しんで死んじゃうって思うと怖い」

「…………」

「まだまだ、やりたいことがあったのに」


 私は「他の誰かに、そのことを言ったかい?」と訊く。


「たとえば、さっきの看護師さんとか」

「詩織お姉さんのこと?」

「多分そうだ」

「言ってない。だって絶対、詩織お姉さん困らせるだけなんだもん」


 詩織はケンタくんのことを良い子と何度も言っていた。

 その理由が、ケンタくんの言葉で何となく分かった。


「何かの本で読んだんだけど、死んだら鳥になって、天国に行くんだって」

「鳥になる、か」

「一度、空を飛んでみたかったんだ。でも、もっと生きたい」


 ケンタくんは強い子だと思う。

 自分の死を真っすぐ見つめて、向き合っている。


「ごめんね、おじさん。いきなり変なこと言って。なんだか話しやすかったから」

「気にしないでいい。子供は遠慮なんてするな」


 私は立ち上がった。

 あと少し話したら、ケンタくんに同情してしまいそうだったから。


「君の名前は?」

「あ、そういえば言わなかったね。僕はケンタ。今川ケンタって言うんだ」

「ケンタくん。君に一つ言っておこう」


 私はケンタくんの目を見た。

 ケンタくんも私の目を見た。


「君はもうすぐ死んでしまうけど、それでもまだ生きていていいんだ」

「…………」

「最後まで君は生きていた。そして君も十分に生きたと最後に思えればいい。君の人生は無駄じゃない」


 ケンタくんは私の言葉を噛み締めていた。

 それからとびっきりの笑顔になって言う。


「うん、そうだね! 精一杯、生きてみるよ!」



◆◇◆◇



 ケンタくんの容態が急変して、息を引き取ったのはそれから四日後のことだった。

 有給をとって私の家に帰ってきた詩織は、酷く落ち込んでいた。


「ケンタくん、死んじゃった……」

「ああ、そうだな」

「お父さんは、人の死を何度も見てきたんでしょ。だから慣れているの?」


 少し棘のある言い方だった。

 私は「まあな」と答えた。


「だけど、みんな必死で生きようとしていた。残り少ない命でも、歯を食いしばって生きていた」

「…………」

「ケンタくんもそうだっただろう?」


 私の問いに詩織は頷いた。

 涙で腫れた目をこする。


「それでいいじゃないか。そう割り切るしかない」

「私、ケンタくんのために何かしてあげられたかな……」

「そう考えられること自体が、ケンタくんのためになる」

「ケンタくん、私のこと、どう思っていたんだろう」


 私は「姉として慕っていたんだろう」と答えた。


「話を聞く限り、お前のことをよく思っていなかったわけではない」

「そうだといいね……」

「きっと感謝している。そう信じるしかない」


 詩織はそれから数日落ち込んでいたけど、しばらくして立ち直った。

 実家の部屋にはケンタくんからもらった絵が飾ってある。

 海の絵、ねこの絵。

 そして大空を羽ばたく鳥の絵。

 それらは額縁に入れられて大事にされている。

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三題噺をしよう! 橋本洋一 @hashimotoyoichi

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