33.好きだよ。


「七里さんっ!」


 息を切らしながら、僕は彼女の名前を呼ぶ。


「え? ……橘田くん?」


 星空を見上げていた七里さんは、僕の方を振り向く。


 その頭の上には0が見える。僕たちの関係は、まだ終わっていない。


 うっすらと月明かりに照らされた彼女は、僕が突然現れたことに驚いているようだった。


 そして、戸惑いと安堵と、喜びが混ざったような、なんとも言えない表情で僕を見つめる。どうしていいかわからないようだった。


「えっと……今まで、ごめん」


 自分の気持ちを伝えなければ。そう思ったけれど、上手く言葉にできる自信がなかった。とにかく、まずは最初に謝るべきだと思って、僕は頭を深く下げた。


「私、すごく心配したんだけど」


 七里さんが言った。広い海に落ちていく、雫のような呟きだった。


「本当に……ごめん」


「うん。でも、来てくれたんだ」


 七里さんは、先ほどまで夜空を見つめていた真っ直ぐな視線を僕に向ける。今にも消えてしまいそうな声だった。


「星、綺麗だね」


 僕は七里さんの隣に座って、空を見上げる。


 理由はないけれど、不思議と、そうすべきだと思った。


「うん。オリオン座がくっきり見えるね」


 冬の大三角形。シリウス、プロキオン、ベテルギウス。


 シリウスは太陽を除けば地球から見える中で一番明るい恒星で、ベテルギウスは地球から肉眼で観察できる中で一番大きい恒星なんだ。


 冬の大三角形は有名だけど、冬のダイヤモンドっていうのもあるんだよ。


 そんなことを言ったら、君はまた「すごいね」と笑ってくれるだろうか。


「本当だ」


 伝えなくてはいけないことはたくさんあるはずなのに、何から話せばいいのかがわからなくて、僕はそれだけしか言えなかった。


「ああ~~~っ!」


 突然、七里さんは大きな声を発しながら、地面に仰向けに寝そべる。澄んだ冬の空気に響く。


「……びっくりした。どうしたの?」


「なんか、力が抜けちゃって。……あ、寝っ転がるとすごい楽。ちょっと冷たいけど。ほら、橘田くんも」


「うん」


 言われるがまま、僕も同じように地面に寝そべった。


 視界の全部が宇宙になった。


 そうすると、幾分か話しやすくなった気がする。宇宙のパワーだろうか。


 さっきよりも、自分の気持ちを上手く言葉にできそうだ。


「えっと、色々あって、勝手に勘違いとか、思い込みとか、そういうので、七里さんのこと避けてた。メッセージとかも、無視しちゃって、ごめん」


 僕は夜空に向かって、不器用に言葉を紡いでいく。


「橘田くんが無事なら、それでいいよ」


「うん。本当にごめん」


「ごめんしか言ってないね」


 七里さんが笑う。責める口調ではなかった。


 でも、どれだけ謝っても足りないのだから仕方がない。


「そういえば、メッセージにあった、行きたい場所ってもしかして……」


 小野屋さんも、七里さんがデートの下調べをしていたと言っていた。


「うん。ここのこと。星、好きって言ってたし。プラネタリウムもいいかなって思ってたんだけど、近くにはなかったから。でも、橘田くん、星が好きってことくらいしか知らなくて、もしかすると他に行きたい場所とかあったらどうしようって不安もあって――」


 嬉しかったし、同時に申し訳なく思った。


 僕があまり自分のことを話さなかったから、七里さんのことを不安にさせてしまった。


 ごめん、とまた言おうとしたけど、謝ってばかりだと気を遣わせてしまう気がして、言葉に詰まる。


「あとさ、昨日話しそびれたこと、今話してもいいかな?」


 僕が何も言えないでいると、七里さんが切り出した。


「……うん。聞かせて」


 それがたとえ、僕にとって悲しい話だとしても、しっかりと聞かなくてはならないと思った。逃げるのをやめて、七里さんと向き合わなくてはならない。


 数秒の沈黙の後で、七里さんが小さく息を吸って――。


「私ね……少し前に、付き合ってた人がいるんだ」


「知ってるよ」


 思っていたのと違う内容で、力が抜けた。


「ええっ⁉」


 七里さんが驚いたようにガバっと上半身を起こす。


「さっき、小野屋さんに会って聞いたんだ。あと、実を言うと、僕が今こうしてここに来れたのも小野屋さんのおかげなんだよね」


「そうなんだ」


 再び寝そべりながら、七里さんが呟く。


「そういえば、小野屋さんがすごく心配してたから、連絡しておいた方がいいんじゃないかな」


「わっ、やば……。宇宙観測してたら時間の概念吹き飛んでたわ。佳月、怒ってた?」


 なんだか天文学者っぽいことを言いつつ、七里さんはスマホを操作する。


「まあまあ怒ってたよ」


「あ~。マジかぁ。どうしよ……。ひぇっ。着信の数やば……」


「大丈夫。怒ってたのは僕に対してだから」


「なんだ。じゃあいっか」


 七里さんが吐いた安堵の白い息が、冷たい夜空に吸い込まれて消えた。


「いい友達がいて羨ましいな」


「橘田くんだって、日野ひのくんがいるじゃん」


「ああ、脩平は自慢の友達だよ」


「うん。私が橘田くんと仲良くなるのに協力してくれたし」


「え?」


 今度は、僕が勢いよく上半身を起こす番だった。


「なんでもない」




 誰にも見つからないように学校を出て、駅までの道のりを二人で歩く。


「今日は、本当にごめんね」


 歩いている途中で、もう一度謝った。


「もう大丈夫。許す。その代わり、今度は橘田くんの行きたい場所に連れてってね。プラネタリウムじゃなくてもいいから」


 今度は。その言葉で、大事なことを思い出した。僕はさりげなく、七里さんの頭上に視線を向けて、数字を見た。


「……うん。わかった」


 数字は0のままだった。日付けが変わるまでの三十分の間に、僕たちの関係は終わることになっている。


 やっぱり、七里さんの心はもう、僕から離れていってしまっているのではないか。今の台詞も建前で、本当は愛想を尽かしているんじゃないか。


 そんなことを思ってしまうけれど――。


「橘田くん、どうしたの?」


「なんでもない。どこに行こうかなって考えてた」


 今度は青春恋愛ものの映画を観に行きたい。美術館や博物館もいいな。帰りに、よくわからなかったね、なんて言って笑い合いたい。そのうち、少し遠出もしてみたい。大学生になったら、泊りがけの旅行もしたい。


「そっか」


 七里さんのその笑顔を信じると、さっき決めたばかりではないか。


 絶対に何か理由があるはずだ。考えろ。


「あ、佳月から返信がきた」


「なんだって?」


「『よかったね。でも橘田は今度殴る』だって」


 と、七里さんは楽しそうに小野屋さんからのメッセージを読み上げた。


「明日は防弾チョッキ着て行こうかな」


「あはは。重そう」


 今日の朝からは想像もできないような、気の抜けた会話をする。


 けれど、幸せにひたっている場合ではない。考えろ。


 七里さんは僕のことを、まだ好きでいてくれているとして。


 恋人という関係が終わってしまうとすれば――。


 別れ話が始まる気配はない。


 自然消滅も違う。


 他には――。


 交差点。街灯に照らされたカーブミラーにトラックが映った。


 地面にはところどころ、溶け残った雪が凍った状態で残っている。さっきも、走っている途中で僕は転んだ。


 タイヤが滑ったら危ないな。


 そう考えて――どちらかが死ぬことで数字が消滅するという可能性に、僕は気づいてしまった。


 トラックがカーブを曲がろうとして――。


 世界がスローモーションになった。


「危ない!」


 僕は七里さんの手を引いた。


 その瞬間――。


 0になっていた、彼女の頭上の数字に変化が現れた。


 1ずつ、数字が増えていく。


 1。2。3。


 やがて、数字が増える速度が上がっていく。


 七里さんを抱きかかえるようにして、二人で道路の端に倒れ込む。


 17。53。


 トラックが、僕たちがいた場所をえぐるように曲がって。


 数字が、目まぐるしい速さで変わっていく。


 179。


 683。


 ものすごい勢いで増えていく数字の残像が、僕の目に映る。


 地面との摩擦を取り戻したトラックのエンジン音が遠ざかっていく。


 3449。


 四桁まで増えた数字は、すぐに五桁に突入する。


 10061。


 24023。


 体を起こした七里さんと、視線がぶつかる。


「びっ……くりしたぁ……」


 そのまま僕たちは見つめ合って、永遠にも思える時間が流れた。そんな気がした。


 大丈夫? そう言おうとして、僕は口を開く。


 でも、それより先に、伝えたい言葉が、伝えるべき言葉があった。


 それは――まだ一度も、告白したときですら、しっかりと伝えられていなかった言葉だった。


「好きだよ。七里さん」


 僕はしっかりと、最愛の人を抱きしめた。

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