26.けれど、僕は知っているんだ。


 月曜日。二学期の期末テストが始まる。


 七里さんの頭上の数字は8になっていて、これ以上は、本当にどうすればいいのかわからなくなってきた。


 やれることは全部試した。思いつく限りのすべてを。


 それでも数字は変わらなかった。


 僕はいよいよ、脩平に助けを求めることにした。


「脩平」


「おう。どした」


「恋愛相談なんだけど」


 周りを少し気にしながら、小声で僕は告げる。


「なるほど。受けて立とう。で、何があった?」


 おどけて即答しつつ、脩平は心配そうな視線で僕を見る。


「僕、七里さんに嫌われてるかもしれない」


「は?」


「僕、七里さんに嫌われてるかもしれない」


「や、聞こえなかったわけじゃないんだが。……どうしてそう思うんだ?」


 どうしてそう思うか……。それは、彼女の頭の上の数字が、僕と8日後に別れることを示しているから。


「わからない。直感……みたいなやつかな」


「ふーん。なんか、柾人らしくないな」


「どういうこと?」


「柾人はどっちかっていうと、感情より理論、みたいなところがあるだろ」


「そうだけど。人間に関してはそういうわけにもいかないでしょ。だって、人の感情なんて理論的に説明できないわけだし……。ほら、脩平だって、恋愛はフィーリングだって言ってたじゃん」


 言い訳みたいになってしまった。


 ただ、脩平の言うことももっともだった。僕も、自分が七里さんに嫌われているとは思えないのだ。それどころか、むしろ逆だ。


 時間が合うときは一緒に帰っているし、ちゃんと会話だってしている。会えない日だって、電話やメッセージのやり取りをしていた。


 喧嘩もしたことなければ、露骨に気まずくなったこともない……はず。僕が気づいていないだけかもしれないけれど。


 これ以上ないくらい順調に、僕たちは恋愛をしているように思う。


 それなのに、あと8日で、僕たちは別れることになっている。


 だからこそ、七里さんがどんな感情を僕に向けているのか、心の奥で何を思っているのかがわからなかった。


「たしかに。でも柾人のその直感は間違ってると思うけどなぁ」


 脩平は腕組みをしながら唸る。


「うん。僕だってそう思いたいけど……」


 数字が見えるこの不思議な現象が間違っていたことなんて、過去に一度もないのだ。


「柾人は思い込みが強いタイプだから、たぶん何かの勘違いじゃ……。それでも不安なら、七里に直接聞いてみるしかないんじゃないか?」


「直接……?」


 その考えはこの上なく単純かつ効果的で、しかしながら、僕には逆立ちしても出てこないようなものだった。


「ああ。七里ならちゃんと答えてくれるだろ。変なやつだけど、ずるをしたりとか、嘘をついたりとか、そういうことはしないはずだ」


「うん。そう……だね。その通りだ」


 どうして今まで思いつかなかったのだろう。


 脩平がいつも以上に頼もしく見えた。


 それと同時に、七里さんのことをわかっているかのような脩平の台詞に、僕はどうしようもない悔しさを覚えた。それを気づかされたことに対しても。


 だって、七里さんの彼氏は僕なのだから。


 しかし、脩平の言葉は的を射ていた。


 直接聞けば、何かわかる可能性はあるし、そうでなくとも、手掛かりがつかめるかもしれない。


 七里さんが別れようとしている理由さえわかれば、僕も手の打ちようがある。


「まあでも、やっぱり柾人が勝手に神経質になってるだけだと思うけどな」


 もしそうだったなら、どれだけ嬉しいだろう。




 脩平に相談した日の放課後。僕と七里さんは並んで歩いていた。


 僕たちはさっきまで、学校の図書室で明日のテストに備えて少しだけ勉強していた。きりのいいところで切り上げ、暗くならないうちに帰ることになった。


「なんか橘田くん、今日は静かだね」


「そうかな?」


 綺麗な目で見つめられる。自分の醜い内面を見透かされているような気がして、落ち着かなかった。


「うん。先生が、この問題わかる人~って言ったときの教室くらい静か」


「そんなに?」


「そんなにだよ。何かあったの?」


 静かなのは、どうやって話を切り出そうか考えていたからだった。それを言ってしまったら意味がないので、ちょっと誤魔化して答える。


「今さらだけど、緊張しちゃって……」


「緊張って、何に?」


「いや。こういうふうに、女子と二人きりで歩くのって、今まであんまりしてきたことなかったから」


「あはは。何それ。付き合ってからもう一ヶ月も経つのに、何言ってんの」


 楽しそうに笑いながら七里さんが言う。


「だから今さらだって言ったでしょ。逆に今までは冷静になれなすぎてどうにかなってただけ。改めて考えると、僕にとって誰かと二人で長い時間一緒にいることって、すごくハードルが高いことなんだ。ましてや女子となんて」


 僕の台詞に、七里さんは一瞬きょとんとした後で、表情をほころばせた。


「橘田くんって、面白いよね」


「七里さんほどじゃないよ」


「え? どういう意味?」


「そのまんまだけど」


「っていうか、橘田くんは今まで仲良くなった女の子とかいなかったの?」


「いるわけないでしょ。男子ですら脩平以外に友達って呼べるような人がいないのに」


 言ってて悲しくなってくる。


「ふ~ん。それは……なんか嬉しいですねぇ」


 と、七里さんは僕をからかう口調になる。


「じゃあ、今まで私以外に彼女もいたことないの?」


「当たり前のこと聞かないでよ。泣きそうなんだけど」


「橘田くんなら、そういう人がいてもおかしくないと思ってたんだけどなぁ」


 七里さんはそんなことを言う。


 ずっと思っていたけれど、彼女は僕のことを過大評価しすぎている。


 もしかすると、僕たちが別れる原因はそういったところかもしれない。


 僕は、七里さんが思っているような人間ではない。それに気づいて、彼女は失望する。いかにもありそうな筋書きではないか。


 思ってたのと、ちょっと違ったかな。


 そんなふうに別れを切り出す七里さんを想像して、胸の奥がきしんだ。


「残念ながら、恋とか愛とか、そういうのとは無縁だったよ」


 だから僕は、今のうちに七里さんの僕に対する期待度を下げておこうと画策する。


「へぇ~」


 嬉しそうな声だった。ニヤニヤしながら僕の方を見てくる。


「七里さんこそ、彼氏がいたことあるんじゃないの?」


 話の流れで、つい聞いてしまったけれど、すぐに後悔した。


 まず、踏み込みすぎてしまったということ。付き合っているとはいえ、過去の恋愛のことを聞くのはよくないと思った。嫌な思いをさせてしまうかもしれない。


 付き合い始める前にも、何度かそういう質問をしてしまったことがあった。あのときから、僕は何も成長していない。


 そしてもう一つ。その答えは、誰よりも僕がよく知っているのだ。


 しかし、七里さんは――。


「ううん。彼氏がいたことなんてないよ。橘田くんが初めて」


 頬をほんのりと赤に染めて、不純物のいっさいない、無垢な笑顔を浮かべた。


 とても美しくて、とても残酷な笑顔だった。


 まったく嘘に聞こえなかった。


 けれど、僕は知っているんだ。


 僕と付き合う前、七里さんの頭の上には数字があったことを。


「そっか」


 このときの僕は、どんな表情をしていたのだろう。


 絶望を押し込めて、必死で貼り付けた偽りの笑顔だろうか。


 それとも、諦めと悟りがない交ぜになった、晴れ晴れした表情だろうか。


 ――七里ならちゃんと答えてくれるだろ。変なやつだけど、ずるをしたりとか、嘘をついたりとか、そういうことはしないはずだ。


 脩平は、そう言っていた。


 僕も、そう思っていた。


 それなのに――。


 今までの、僕に対する彼女の言葉のすべてが、嘘に思えてきた。


 付き合う前に二人で出かけた後の「楽しかったね」も。


 美味しいお店でご飯を食べ終わったときの「また来ようね」も。


 想いを伝えたときの「嬉しい。ありがとう」も。


 なんでもない会話の中の「楽しいね」も。


 その全部が。


 鮮やかに色づいていた世界が、突然モノクロになったような気がした。


「私、橘田くんの初めての彼女になれて、本当に嬉しいんだ」


 愛おしい笑顔で紡がれたそんな台詞を、何も知らないままの僕が聞けたら、どれだけ幸せだっただろう。


 当初の目的であった、僕に対する不満だとか、そういうことを尋ねる気にはとてもなれなかった。


 七里さんが何を言っても、今の僕は信じることができないと思う。


 彼女の言葉の裏側に、何かよくないものがあると感じてしまう。


 誰よりも信じたい人を、信じることができない。


 恋がこんなにも、苦しいものだとは思わなかった。


 好きな人の恋人として見る世界は、抱えきれないほどの幸福にあふれていて、毎日が希望で満ちているものだと考えていた。


 数字は増えることなく、1つずつ減っていく。


 僕がどれだけ願っても、どれだけ祈っても。


 どれだけ――七里さんを想っても。


 時間の流れは容赦なく、二人の関係を終わりへと運んでいく。

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