第5話 温泉

「―っ…あぁっ♡おっほおぉぉぉぉぉ…いてっ」


「変な声出すなや」

 …肩を強めにど突かれた。振り向くと、苦笑いを浮かべたハル。

 長髪をお団子にまとめた彼は軽く目を閉じて、僕の隣でゆっくり湯船へ身を沈める。

「…んんっ…はぁ…ああああぁぁ…」

 なんだよ!自分だって、えっちな声を出してるくせに!

 …なんて、嫌味は心に秘めて、僕はハルの横顔をじっと見つめた。立ち昇る白い湯けむりの中で、結われ損ねたおくれ毛が妙に色っぽく光っている。


「はぁ…。いい湯やな」

 ほんのり頬を赤らめて、薄く口を開く。少しかすれたその低い声が何故かすごく嬉しくて、胸にじんわり熱が広がった。


******************************


 あの気まずい夜のあと。ネカフェでも特に会話の無いままで朝を迎えた。何が原因だったのかも分からず、何といえばいいのかも分からなかった。でも、


「おっはよう!」

 翌朝にハルは爽やかな笑顔を見せた。まるで、昨夜のことなんて忘れたみたいに。いや、何かから目をそらしてるみたいに。

 僕は何にも聞かなかった。見栄っ張りのハルは聞いても何にも言わないから。だから、結局ひとりで勝手に…。…ひとりで…?…あれ?何だっけ?


 まぁ、とにかく、その後も僕たちのバイク旅は続いて、見事、別府温泉まで辿り着き、のんびり露天風呂を堪能してるってワケ。


「やっぱ平尾台も行けばよかったかなぁ」

 青空に向かって、ひとりごちるようにハルは呟いた。

 平尾台は日本三大カルストのひとつ。カルスト地形とは、石灰岩の多く含んだ独特の地形のこと。炭酸カルシウムの多い石灰岩は水に溶けやすいから、長年の雨や地下水などで溶けて変わった地形になるそうだ。鍾乳洞しょうにゅうどうなんかもこれにあたる。

 ただ、つまり、カルスト地形の地域だということは、アップダウンも激しい場所もあるということで…。


「アキが酔わへんかったら、行ったんやけどなぁ…」

 …僕がまた車酔いしそうなので、今回は控えたのだ。

「車酔いだけちゃう違うでぇ」

 じとぉっとハルが僕を横目でみつめる。

「別に、アキが自分でバイクを運転してもよかったんやもんなぁ……飲んでへんかったら…」

 …平尾台に行く前に、寄った焼き鳥屋さんで、日本酒をたらふく飲んでしまったのだ。いやぁ、美味しい焼き鳥食べてたら、美味しいお酒も飲みたくなりますよね?…ならない?

「…はぁ。昔はもっと素直で可愛かったのになぁ。

 幼なじみがこんなわがままな飲んだくれになってるとは思わへんかったわ」


 それを言うなら、ハルだって、ひとりで先に――…!


 ――…ん?あれ?

 何か言おうとしたのだけれど、言葉が途中で消えてしまって、僕は開いた口をゆっくり閉じる。今日は何だか調子がおかしい。やっぱり少し飲み過ぎたのかもしれない。もうアルコールは抜けたと思ったのだけれど、湯あたりはしないように気をつけなきゃ。


 湯船から身体をあげて、お風呂の淵に腰かけなおすと、ハルが少し寂しげな眼で僕のことを見つめていた。

「…アキ、体格めっちゃ良くなったよな。

 小学生の頃はヒョロヒョロもやしで、俺の方が背も高かったのに。

 今はギリシャ彫刻みたいやん」


「えっへへぇー!ギリシャ彫刻は言い過ぎやろ。

 でも、水泳部やったからな!そんじょそこらのヤツよりは筋肉に自信あるわ」

 ぐっと身体に力を入れて、自慢の胸筋と腹筋を見せつける。

「おぉ、シックスパックや!…触っていい?

 ……おぉぉ!かったっ!

 …胸もすごいな…。これは…これはBカップくらいあるんちゃうの?」

「Dやで!胸もそんじょそこらの女性には負けんわ!

 …こないだこの間、そう言ったらナオちゃんにぶん殴られたけど」

「――っ!あははっ!!

 アキ、ナナコより巨乳なんか」

 ハルは吹き出すと、くすくす笑って嬉しそうな顔をした。…一瞬、寂しそうな眼に見えたけど、きっと気のせいだ。


「もう…ナオちゃんのこと、ナナコなんてあだ名って呼んでんのハルだけやで。

 何で『ナナコ』なんやったっけ?」

「…テストで名前書き忘れて、先生に『名無しの権兵衛』って言われてたから。『名無し』の『ナオコ』で『ナナコ』。

 そしたら、アイツも仕返しに俺に『アヒル』ってあだ名つけてきよったきやがったけどな」

「あー!せやったそうだった、せやった!

 ハルが鳥っぽくて、名前が『安平悠あびらはるか』やから、『アヒル』なんやっけ。

 僕が『あきら』やから、ふたり合わせて『白鳥コンビ』とか言われてたなぁ。懐かしいわぁ」

「…せやな」

 ハルはザブンと湯船に肩まで身体を沈めた。いつの間にか、あたりは湯気で真っ白になっていて、何だか彼が遠くに行ってしまったみたいな気がした。

「ナナコも元気そうでよかったわ…」

 ホッと安心したような彼の声。

「…ナオちゃんな、昔はショートカットやったけど、最近は髪伸ばしたはんねんしてるんだよ…。あの子、長髪も似合うんやで」

 どんどん湯けむりが濃くなって、どんどん辺りが寒くなる。腰から上がすっかり冷めたことに気づいた僕は慌てて、湯船に身体を沈めた。


 「―――」


 ハルが小さく何か呟いた。そんな気がして、すぅーっと近づく。

「…ナナコにも、ごめんって言っといて」

 真っ白な中で、彼の顔は見えなくて。聞き返そうと口を開いた瞬間に、彼は僕の頭を掴んだ。

「…ハル?」


「ごめんな。ありがとう。

 でも、もう俺のことは気にすんな」


 そう言って、僕の頭をざぶんと沈めた。

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