第119話 ほれぐすり

 翌日、店員さんと別れてメイドの谷から出発。

 谷を抜け、山をいくつも越えて、サクラギ公爵家の領地へ向かう。

 ぼくらの旅は順調そのものだった。

 とはいえ、トラブルが皆無とは言えないわけで……


 メイドの谷を出て数日後、ぼくはカナデの様子がなんだかおかしいことに気づいた。

 なんだかメイドの谷を出てから、ずっと機嫌が上向きなのだ。


「うーん……?」


 上機嫌なのはべつに悪いことじゃないわけで、放っておこうか迷っていると、スズハとユズリハさんが近寄ってきて。


「どうしたんです、兄さん?」

「悩み事なら些細なことでも相談してくれていいぞ。なぜならば、わ、わたしはキミの、相棒なのだから!」

「いや大したことじゃないんですが」


 隠すことでもないので相談してみる。


「カナデの様子が、メイドの谷を出てからずっと上機嫌なのが気になって」

「メイドの谷を……? ですが兄さん、そんなのは当然じゃないでしょうか」

「どうしてさ?」

「なにしろメイドの谷のメイドたちは揃いも揃って、ご奉仕の修行とかなんとか称して、兄さんに近づきすぎでしたから。表面上では我慢していても、内心ではきっと憤怒の川を渡っていたに違いありません!」

「それはスズハの感想なのでは……?」

「まあスズハくんの言いたいことも分かるな。わたしも、わたしの相棒と一緒に鍛えたり、相棒の背中を護る訓練をしたり、相棒に今日の訓練お疲れ様って言われてねぎらわれた後手料理とマッサージで癒やされる時間が無くなって、ちょっぴり泣きそうになったものだ。とはいえ、これも夫婦生活で子供が十人生まれた場合のシミュレーションなのだと思えば自然に頬がにやけてしまったが」

「どんなシミュレーションですか……?」


 ユズリハさんたら、将来どこの性豪と結婚するつもりなのか。謎だ。

 とはいえ疑問は一つ解けた。


「なるほど。スズハとユズリハさんも、メイドの谷を出てから上機嫌な理由はそこと」


 二人については分からなくもない。

 二人は女騎士なのだから、周囲が全員メイドというのは気が詰まる部分もあるのだろう。

 けれど。


「カナデはメイドの谷の出身だって言ってたし……」

「たしかに故郷から離れる時は、寂しくなりそうなものですが」

「今回はキミも一緒だから、ご主人様に会えなくて寂しかったわけでもないだろうしな。よく分からん」


 というわけで、カナデに聞いてみることにした。すると、


「いい取引をした」

「取引? 誰と?」

「行商のじじい」


 なるほど。あの店員さんはいつの間にか、カナデと商売をしていたようだ。


「なに買ったの? メイドの仕事に関係するなら、ぼくが代金出すよ」

「ご主人様にはとくべつに見せる」


 言ってカナデが胸の谷間に腕を突っ込む。


「どうしてカナデはそんな場所に何でもしまうの!?」

「メイドにはひみつの保管場所がたくさんある。ここはそのうちの一つ……んしょ」


 カナデが取り出したのは、綺麗な小壜こびんだった。

 中に液体が入っているのが見える。


「なにそれ? なんだか薬みたいだけれど」

「ほれぐすり」


『──惚れ薬!?』


 思わず叫んだら、スズハとユズリハさんとハモった。二人とも聞いていたみたいだ。

 ユズリハさんが慌てた様子で、


「そ、そそそれはいわゆる例のアレか!? 使った相手を惚れさせるとゆうその!」

「ざっつらい」

「なんでそんな貴重なモノが……! このわたしですら、公爵家のツテを駆使してもなお手に入らなかったのに……!」

「どうしてユズリハさんは惚れ薬を入手しようとしたんです?」


 その横でスズハが真剣な顔でぶつぶつと、


「……あ、あの薬さえあれば……! ですが兄さんの自由意志を奪うなんて、わたしには到底できません……いえその場合は不幸な事故だったということに……!」

「スズハはぼくを一体どうしようとしてるのかなあ!?」

「うにゅー!」

「うわっ!? うにゅ子、勝手に小壜を開けようとしちゃいけません!」

「危険だ、その小壜は一旦わたしが預かろう!」

「ユズリハさんに持たせると悪事に手を染めそうで危険です! ここはわたしが!」

「スズハくんのどの口が言うんだ!?」

「……カナデのほれぐすり、渡すわけにはいかない……!」


 そんなこんなで、なし崩し的に。

 ぼく以外のみんなによる、惚れ薬争奪戦が勃発したのだった。


 ****


 惚れ薬を巡る争いは、夕方になってもまだ決着が付かなかった。

 一人だけ蚊帳の外のぼくは、夕食の味噌汁の味見をする。ばっちり。


「みんな、もうそろそろご飯だよ。いい加減に──」

「ご主人様、ぱす……!」


 カナデがよろけた態勢から投げた小壜は、ぼくから大きく軌道を逸れて──


「あっ!?」


 なんとかキャッチしたはいいものの、乱暴に扱われ続けた小壜の蓋がとうとう抜けた。

 そして飛び出た中身は、ぼくの手から近くにいたスズハとユズリハさんに──!


「うわあっ!?」


 小壜の中の液体がぶちまけられて、思いっきり身体にかかってしまった二人に、ぼくは大慌てで駆け寄った。


「二人とも大丈夫!? なにか身体に異変は!?」

「……いえ……? なんともありませんね?」

「……そうだな。ただの水を掛けられたような感じだ」

「本当に!?」


 ぼくが重ねて確認するも、二人は不思議そうに首を捻るばかりだ。


「実はカナデが騙されて、ただの色水だったのか?」

「そんなことない。このほれぐすりは間違いなくほんもの」

「じゃあなんでわたしとスズハくんには効かなかったんだ?」

「そんなの簡単。ほれぐすりは、すでに惚れている時にはきかない。それが常識」


 なるほどそういうことか。

 つまり二人が聞かなかったのは、二人ともぼくにもう惚れて──


 ……えっ……?


 それってつまり、どういうことだってばよ……?


「──なるほど、そういうことですか。つまりはわたしと兄さんの兄弟愛が深いせいで、惚れ薬などという邪悪な薬が効かなかったということですね!」

「わ、わたしも! スズハくんの兄上とは運命の赤い糸でお互いの背中を護る相棒なわけだからして、惚れ薬が効かないのも当然というわけで──!」

「ユズリハさん。顔真っ赤ですよ」

「う、うるさい! スズハくんだって真っ赤じゃないか! 脚もじたばたしてるし!」


 ──そんなことがあったのだと、ずっと後に聞いたトーコさんは。

 おかしそうに笑いながら「絶好の機会なんだからコクればいいのに、まったく二人ともチャンスバツだよねー!」などと口にして。

 ユズリハさんに「お前が言うな!」とツッコまれたとかなんとか──



──────────────────────────────

皆様のおかげで、3巻重版決定&4巻を出せることが決まりました。

いわゆる3巻の壁を越えることができそうで、感無量でございます。ありがとうございます!

今後もお付き合いいただければ幸いです!

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