第92話 辺境伯は独身ですから(ウエンタス女大公視点)

 アヤノが疲れたようにかぶりを振って、


「いずれにせよ、ローエングリン辺境伯領に潜入してよかったですよ。もう本当に──情報収集を怠っていれば、我が国も極めて危なかったでしょう」

「ふむ」

「いいですか大臣。これから数年で、大陸の地図は激変します」

「……といいますと?」

「ローエングリン辺境伯にケンカを売った国は、消えて無くなるということです」

「……なんと……」


 近くで観察していたアヤノにはよく分かった。

 あの男には絶対に、何があっても敵対してはいけない。

 逆に言えば、こちらから敵対しない限りは善良で無害ということでもある。

 なにしろ気質が庶民そのものなのだから。

 こちらから仕掛けないのに宣戦布告してくることは、トーコ女王がけしかけたとしても不可能だと見ていいだろう。だから例えば──


「ローエングリン辺境伯領との国境線上に展開している兵士は、みんな撤退すべきでしょうね」

「それは……大胆ですな……」

「しかし合理的ですよ。彼ならば、たとえこちらが丸裸でも戦争は仕掛けてこないでしょうし、逆に戦争になれば兵士が百万人いても簡単に擂り潰されます。いてもいなくても変わらないならただの無駄でしょう?」

「やれやれ……それほどまでに強すぎるローエングリン辺境伯とそのお仲間には、なにか弱点はないのですかな?」


 嘆くばかりでは仕事にならない。

 外務大臣として当然の疑問を投げかけられたアヤノが、軽く頷いた。


「ありますよ、弱点。なにしろローエングリン辺境伯は独身ですから」

「うん?」


 外務大臣がしばらく考えていたが、やがてぽんと手を打って、


「つまり大公様が、ローエングリン辺境伯とご結婚なさるわけですな」

「ちちち違いますよっっ!? あくまで、彼を倒せないまでもどこか別の領地に行かせれば、ウエンタス公国としては問題ないという話で──!」

「いやはや、言われてみれば納得ですな。ローエングリン辺境伯を大公様の配偶者に……もしくはいっそのこと、大公の地位を譲ってもいいですかな? ローエングリン辺境伯は庶民出身ですから人気も出るでしょうし、戦争は無敵の強さですしなあ」

「わ、わたしが彼と結婚とかありえないですから!」

「ほう、それはどうしてですかな?」

「大臣は知らないでしょうが、ローエングリン辺境伯はトーコ女王とか殺戮の戦女神キリング・ゴツデスとか妹のスズハさんとか、エルフ顔負けの超絶美少女な上にスタイルも女神級に抜群すぎるムスメどもが、虎視眈々とお嫁さんの座を狙いまくってるんですっ!」

「なるほど。自分のスタイルがコンプレックスと」

「違いますっっ!!」

「ご安心なされよ。あの国では王族と庶民は結婚できませんしな、今は辺境伯だとしても元が庶民出身となれば反発は大きいでしょう。それに妹とは結婚できませぬ」

「普通はそうなんですけどねえ……!」


 トーコ女王もスズハも、なにかとんでもない秘策を巡らせそうで正直怖い。

 まあそれはともかく。


「しかし大公様の話を聞く限りは、どうやってもローエングリン辺境伯と婚姻関係を結ぶ以外の選択肢は残っていないように思われますがな……?」

「それを言わないでください……!」


 アヤノとて、それなりに優秀な政治家である。

 そして状況を冷静に俯瞰したとき、それしか道はないだろうなとは理解できた。


「それとも大公様は、どうしてもローエングリン辺境伯がお嫌いですか?」

「いえ……むしろ一人の人間として、大変好ましいと思いますが。よくいる貴族のように傲慢でもないですし、仕事は真面目で優秀、手料理だってすごく美味しいですし……」

「なら問題ありますまい。よそに取られないうちに、調印式で探りを入れてみましょう」

「……そうですね……」


 アヤノはこの砦で影武者と交代し、大公として停戦協定の調印式に向かう。

 そのとき、探りを入れる外務大臣の横でどんな顔をすればいいのか。

 トーコ女王はともかく、スズハやユズリハがどんな顔をして自分を見るのだろうか──


 そんなことを考えると、今から気が重くなるアヤノなのだった。

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