第89話 胸元がぱつんぱつんになってしまって

 その日もぼくが執務室で書類の山と格闘していると、なんだか気合いを入れたスズハがやってきて、こんなことを言い出した。


「兄さん。湖に泳ぎに行きませんか?」

「湖?」

「なんでも城の近くに素敵な湖があるって、トーコさんが教えてくれまして。地中から湧いた温水でできた湖で、冬でも一年中快適な温度で泳げるみたいです。それに水着まで作ってくれるそうですよ」

「どうして水着まで?」

「話すと長くなるのですが──そもそも停戦協定の調印式をした後には、出席者を集めたパーティーを開くみたいで、そのためにトーコさんがデザイナーを呼んでくれてたんです。パーティーの時に着るドレスを、わたしたちの分も新調しなくちゃいけないからって」

「ふうん」


 貴族の世界とはそういうものとは理解しているものの、根が庶民のぼくにはどうしても勿体ない意識が働いてしまう。

 スズハのドレスなんて、以前の凱旋パーティーで仕立てた良いやつがあるじゃんとか。

 そんな兄の思考などお見通しらしく、スズハが恥ずかしそうに告げた。


「以前のドレスも着てみたんですが、胸元がぱつんぱつんになってしまって」

「…………」

「ドレスを仕立てたときよりも、3サイズほどアップしたようです。成長期だから仕方ないよってトーコさんたちも言ってくれましたが、あれを無理に着ると押さえつけられた胸が横にはみ出してとてもえっちな感じに」

「分かった。ドレスを新調しようね」

「ありがとうございます、兄さん」


 さすがのぼくも、妹に破廉恥な格好をさせるつもりは毛頭ない。

 金銭的に多少無理をしてでも、ドレスは新調すべきだろう。


「それでドレスを新調するために採寸するのなら、水着も作ろうという話でトーコさんたちと盛り上がりまして。わたしたちの水着はオーダーメイドでなければ絶対に胸元が入りませんし、トーコさんがドレスと一緒に王室予算から都合してくれてタダとのことなのでいい機会かと」

「そりゃ随分と太っ腹だね」

「はい。代わりに兄さんを湖に誘えと言われて──」

「え?」

「──ではなく。せっかく水着を作るのだから泳ぎに行こうという話になりまして。それでどうでしょうか、兄さん!?」


 期待を込めた瞳で見つめられても困る。

 そんなこと言われても、答えは決まっているのだから。


「──ねえスズハ。この状況でぼくが行けると思う?」

「あっ……」


 ぼくが書類の山を見回しながら嘆息すると、さすがのスズハも察したようだ。

 ぼくと一緒に書類仕事をしているアヤノさんが手を止めないまま、スズハに顔を向けてニコリと笑った。とても怖い。

 なんというか「行けるもんなら行ってみろやワレ」というオーラを感じる。

 それでもスズハはめげなかった。

 その姿は、まるで王国の最上位貴族直系長姫に「絶対に、絶対に勧誘成功させてくれ! 失敗したら……分かっているな!?」なんて脅されているかのように見えた。


「で、ですが兄さん、息抜きだって大事なんですよ!? そうです、アヤノさんやカナデにうにゅ子も含めて、みんなで懇親会がてら出かけましょう!」

「だから無理だよ。捕虜のみなさんの見張り役も必要だし、気の早い調印式のお客様がいつ到着するかもしれない。みんなで出かけられるわけないでしょ。ねえアヤノさん?」

「まったくです。──この書類の山の少しでも閣下の妹君などに処理していただければ、こちらも余裕が出来るのですがね?」

「誠に申し訳ございませんでした」


 スズハがあっけなく全面降伏する。

 ちなみにユズリハさんはともかく、トーコさんは書類処理の戦力になると思われるけど、さすがに女王サマをそんなことに使うわけにはいかない。

 ていうかさすがに頼めないよ。


「というわけで却下だよ。アヤノさんが休暇に入るまでに、なんとか片付けないと」

「あれ、アヤノさんって休むんですか?」


 そういえば、スズハに言ってなかったっけ。


「そうなんだよ。調印式と入れ違いで大事な用があるんだって。ねえアヤノさん?」

「申し訳ございません、閣下」

「いいんだよ。事情がなかったら、こんな優秀な人がウチで仕事してるわけないんだし。ウエンタス公国の偉い人が来るのと関係あるんでしょ?」

「……お察し戴きまして大変助かります」


 追求する気なんてないけど、ぼくは調印式の参加者にアヤノさんが絶対に会いたくないウエンタス公国最高幹部がいるのかなーとか考えている。

 そうでなければアヤノさん自身が最高幹部の一人……そんなわけないか。

 でもそうだとしても不思議じゃないほど、アヤノさんの仕事ぶりは優秀の一言に尽きる。ここで余計なことを口にして、アヤノさんを逃すわけにはいかんのですよ。

 主にぼくが書類漬けにならないために。


「ところで閣下。──ウエンタス公国の女大公は、わたしとよく顔が似ているんですが、お気になさらないようお願いします」

「そうなの? ひょっとして、用事があるっていうのもその関係?」

「……詳しくは説明できないのですが、お察しください」

「りょーかい」


 アヤノさんは数日中に仕事を休んで、ウエンタス公国に里帰りするという。

 それまでに少しでも仕事を片付けようと、ぼくは残業の決意を新たにするのだった。

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