9月2日 繫華街

 繫華街でも深夜になれば静まり帰ってしまう。街は明るいのに人の気配が消える相反性が返って気持ち悪く感じられる。そういった街の中には色んなエピソードをもった人間がゴロゴロ転がっているもので、田舎から出てきた者や、学生、妻に先立たれた者、自分から家族を切り捨てた人。そんな街の中にユリカは生きていた。

 ユリカは大通りから少し外れた裏路地の中で生計を立てていた。大人の男性に自分の身体と引き換えに金銭を貰うことで食いつないでいた。幼い頃に両親に捨てられてから叔母に育てられたが、そこでも愛を注いでもらうことはかなわなかった。ユリカが痛みを伴わずに身を売ることができるのは幼き頃に欠けた愛情が原因なのだろう。

 そして今日もユリカはいつものように通りすがる男性たちに声をかけていく。スレンダーな細方の体型に派手に染めた髪の毛、ほぼメイクをしなくても整っているその容姿があったことからユリカは顧客には困らなかった。芸能界デビューでもすれば一躍有名な売れっ子モデルになれるような彼女を目当てに何度も何度も足繫く通うリピーターもいるほどだった。


「お兄さんどうですか」


 甘く美しい声で囁くユリカを素通りする者など誰一人居なかった。

 三人ほど声をかけてようやく中年の小太りのサラリーマンが足を止めてユリカに声をかけた。

「何? ヤれるの?」

「はい、ホテル代別で三万円です」

「どこまで出来るの?」

「お兄さんが満足するところまで出来ます」

 そう言い切ったユリカに中年男はニヤリと不気味な笑顔を浮かべ、二人は恋人繋ぎで一番近くにあったラブホテルの中に消えていった。

 

時は既に丑三つ時を超えていた。ユリカと中年男がホテルに入ってから三時間以上も経過していた。

満足するところまでと言い切ってしまったユリカは三時間以上もの時間地獄を見ていた。人権など存在しない治外法権と化したホテルの一室で彼女は必死に痛みに耐えて生きることだけを考え続けた。

終わりの見えない地獄の中で一瞬だけ一筋の光が訪れた。

仕事帰りだった中年男はアドレナリンが切れてウトウトとし始めた。昼間に眠り夜間に活動するユリカ側に活動時間の中で部があったのだ。

そのチャンスを逃すまいとユリカは無我夢中でテーブルの上の灰皿を手に取り中年男の頭部を殴打した。真っ赤な鮮血が白いシーツに跳ねる。白い枕は血によって真っ赤に染め上げられていく。人間の頭部を殴打している間にユリカはそれに快感を覚えてきた。男は頭部が完全に破壊され、顔面はもはやいったい誰なのかわからないところまでに変形していた。一通り殴り終えるとようやく彼女は手を止めた。死体に跨る自身の状況を見つめたが、不思議と恐怖は無かった。寧ろこれまでの人生で味わったことのない清々しい気分になっていた。

しばらく空虚な気持ちに浸っていると先程まで自分を犯していた男の血が身体に纏わりついていることに強い嫌悪感を覚えた。床に赤い足跡をつけながら浴室に向かう途中、微かに男の呻き声が聞こえた気がしたがユリカはそれを無視してバスタブに湯を溜めてシャワーを浴びた。


シャワーから上がるとスマートフォンを手に取って連絡先の一番上にある人に電話をかけた。何通もの不在着信が届いていた。時刻は八時になるところだった。二回ほど電話のコール音が鳴ると相手が電話に出てくれた。

「もしもし、ユリカ? どこにいるの?」

「あ、シュウ今起きたところ?」

「そうだよ。昨日帰って来ないからあんまり寝れてないんだけど。大丈夫なの?」

「うーん。ちょっとやばいかも……。」

「今どこにいるの? 迎えに行くよ」

「ううん。大丈夫。ちゃんと帰れる」

「早く帰っておいで」

ユリカは相手が話終える前に電話を切ってしまった。

電話の相手は幼稚園生の頃に隣人だったシュウだった。両親がまだ面倒を見てくれていた時に隣の家に住んでいたのがシュウだった。家庭内暴力が頻繫に起こっていたユリカの家ではユリカをシュウの両親が匿うのが日常だった。やがて両親が離婚、親権を持った母が自殺した際に叔母に引き取られたユリカは仕方なくその家から離れることになってしまった。


そしてそこから二人が会うことは一度もなかった。


そんな二人の関係に変化が起きたのは、シュウが仕事の飲み会で飲まされすぎた挙句先輩たちにその場に捨てていかれた際のことである。

飲み屋を出て少しした小道の裏路地で酔いつぶれていたシュウを介抱してくれた人がいた。シュウはほぼ意識がなく、その場にうずくまっていることしかできなかった。sの介抱者はシュウに水を飲ませ、吐かせ、タクシーに乗せる。

烈しく揺れる頭の中でシュウは自分の住所を絞り出した。そして彼の記憶はここで途切れた。


目が覚めるとシュウは自分の部屋で横になっていた。昨日の酒がまだ体内に残っているのか、見慣れた天井が縦に横にと歪んでいく。鉛を飲んだかのように重い身体を起こす。不自然に軋むベッドの違和感に気がつき、掠れる視界の中に普段の日常では絶対に目に入らないものが映っていた。

 すやすやと無防備な姿を晒して眠る女がそこに居た。恐怖と困惑が入り混じる感情の中で、渇ききって痛みを感じている喉を震わせる。

「すみません。どなたですか」

 恐る恐る尋ねると彼女は寝返りをうって自分の方を見つめてきた。黒く輝く黒曜石のようなその瞳に一瞬なつかしさを覚えた。

「んぁ。ふぅ。起きたの? シュウくん」

 シュウは目の前の女がどうして自分の名前を平然と呼び慣れたものかのように呼び、あたかも長い知り合いであるかのように話しを始める彼女に恐怖以上に凶大な感情を抱いた。しかしシュウはふと我に返った。昨夜の記憶は何一つ残っていない。酒というのは怖いもので飲み過ぎた翌日にもなると酒を飲む直前の記憶までをも失うほどに強力な毒物なのだ。痛む頭の中でシュウは必死に記憶をかき集めた。しかしどう足掻いても記憶は集まることなどない。

そんな中でひとつの憶測を立てたのである。もしかして彼女は自分が激しく酔っている際に家に連れ帰ってしまった娼婦なのではないのかと。濃い目に描かれたメイクに派手な服装、キラキラと陽の光を反射させまくるほどに眩しい数の装飾品。その容姿からはまるで夜の職業を連想させた。


「おはよう。昨日はすごくたくさん飲んでいたみたいだね」

「ごめんなさい。お姉さん誰ですか。もしかして昨日僕が変に連れて帰ってきちゃったとか」

 そう聞いて彼女は声高らかに笑う。カーテンの隙間から入る朝日に賑やかな笑い声。中身を見なければそこはまるで幸せなカップルの愛の巣窟のようで。しかし実際のところは異様な光景が広がっているのだ。

ある程度気が済むまで笑うと彼女はベッドの上に正座して、乱れた髪の毛を手櫛で直してから彼に問う。

「私のこと、忘れちゃった?」

 忘れるも何もお前のことなんて知らない。そう言いかけた口を慌てて塞ぎながらシュウは自身の過去に検索をかけた。顔、見た目の年齢、声、匂い。入ってくる情報全てを駆使してシュウはやっと一つの答えにありついた。

「君、名前は?」

「あぁ、もう。やっぱり。覚えてないんだね」

 悲しく微笑みながら彼女は自己紹介をする

「ユリカです。昔すごく小さかった頃にシュウくんのお家の隣に住んでたんだけど……。やっぱり覚えてないかな?」

 そこまで聞いてシュウはやっとユリカのことを思い出した。


 そしてそこから二人はまたかつての頃のように頻繫に連絡を取り合うようになり共に食事をすることも増えた。ユリカは自分と同じ境遇の中でもがいて生きる娼婦数名と小さな部屋でルームシェアをして生活していたこともあったからワンルームで一人暮らしのシュウの家に頻繫に入り浸るようにもなっていった。

 寝食を共にしていく中でシュウは次第にユリカに対して好意を持つようになっていった。何度もユリカに今の仕事を辞めるよう諭してきたけれど、シュウの収入では自分一人が食べていくことですら精一杯であった。せめて自分の家には自由に出入り出来るように合鍵を渡そうとしたが、それも迷惑がかかるからの一点張り。どうにかして説得してユリカの手に合鍵は収まったのだが、職にはありつけなかった。


 結局そのまま繫華街の裏で働くユリカには多くの問題が付きまとった。違法というのはもちろんなのだが、何よりも怖いのは男性客からの暴力であった。法や店を介して守ってくれるものがない彼女達は己の身は自分で守らねばならぬのだ。リスクの付き纏う世界の中で戦うユリカをシュウは心配でたまらなかった。


 ピンポーンと音が聞こえるとシュウは駆け足で玄関にかけていく。電話から既に一時間以上は経過していた。嫌な気分の中で彼女を待つシュウは気が滅入っていた。

 扉を勢いよく開けるとそこにユリカの姿はなく、青い制服を着た警察官が二人覗き込んでいた。

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ある日の夢日記 涼樹錦 @nisizuki

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