11月25日 不法渡航する元カレ
11月25日 不法渡航する元カレ
「澄香頼む! 手伝ってくれ」
亮介は強く額を地面に叩きつけながらそう言った。
「澄香にしかお願いできないんだよ。頼むよ。なぁ、いいだろ」
そして彼は私の好きな笑顔を見せつけてくる。たった一つの笑顔で転んでしまうほど落ちぶれてしまった自分に少し憐みを覚えた。きっと何度騙されてもめげずに彼のことを思い続けてしまうのだろうか。そんな不安が過るのも一瞬。
「もう、わかったよ」
「本当に⁉ ありがとう!」
「で、何だっけ、どこか行きたい場所があるから連れていってほしいとかなんとか」
「そうなんだよ、実はチリに行こうと思ってて……」
「はぁ!? チリってあんた、南米でしょ」
「うん。でもどうしても行きたいんだ」
「チリに何があるの、てかそもそも何で突然チリなの、第一あんたそういう状況じゃないし、何を考えてるの!? パスポートだってないし、どうすることもできないよ」
「お願い! どうしても行きたいんだ。頼むよ。澄香頭良いだろ」
「はぁ、意味わかんない。頭いいとかそういう問題じゃないのわかる?」
「どうにかしてよお願いだよ……」
何で私が彼なんかの渡航を手伝わなきゃならないの。昨日の夜に突然電話かけてきたと思ったら……。
――「もしもし突然どうしたの」
「澄香か。久しぶり、元気にしてたか」
「うん。まぁぼちぼちだよ。亮介こそどうなの最近」
「そうだな、直近で色々あって気分最悪ってところかな。とりあえず今時間あるか?」
「今? 明日も仕事があるからそんなに遅くまではあれだけど、少しなら……」
「じゃあ新宿のMIYAMIAまで来てくれ」
「え、何、待って」
通話口から無機質に通話の終わりを告げる音楽が流れた。
切れてる……。もうなんなのよ、別れてから一年半くらいかな。やっぱり断っとけばよかったかな。
そう迷いながらも澄香はそそくさと服を着替え、先程告げられた場所をインターネットに打ち込んで検索してみる。
「げっ。ここラブホテルじゃん……。あいつなんてところに私を呼びつけてんのよ」
薄々と亮介の下心に気づきながらも澄香は心が躍っていた。
澄香と亮介は大学時代からの仲だった。澄香は二年生の頃に加入した登山サークルで亮介に出会った。同い年であった二人はすぐに意気投合し出会ってからおよそ一か月で付き合い始めた。そこから大学三年生のクリスマスまで関係は続くがその時間は決して愉快なものであるとは言えなかった。
亮介は浮気性だった。高身長でスラっとした体型にお洒落な服で自分を着飾る彼には四方八方から女性がよりついた。バーでバイトをしていることも相まって一般大学生とは違い、遊び方が大人びていた。一人暮らしの亮介の家には毎晩女が転がり込んでいたが、澄香はそれを見て見ぬふりをして耐えていた。澄香はそれでも彼女は自分であると言い聞かせていた。心だけは絶対に私から動かない。そう思っていた大学三年生のクリスマス。二人はデートのプランを立てていたが集合時間になっても亮介は集合場所に来なかった。連絡をしても返信がない彼に澄香は不安に陥った。そう思いすぐさま彼の家に向かった。現実は目で見なくても分かった。
その夜、澄香は彼に別れを告げた。
忘れられなかった。卒業してもなお彼がずっと頭の片隅にいた。実家暮らしで女子校出身の自分からすると彼は別世界、まるでおとぎ話の王子様が現実世界にやってきたような存在だった。その不思議な甘い魅力に澄香は心の底からのめり込んでしまっていた。
就職の機に彼女は新しい人生を歩むために実家を出た。大して遠いところに住むわけでもないが独りでも生きていく力を身につけたかったのだ。そうして毎日仕事と家事の両立の日常に疲れてきた頃、一本の電話が鳴った。
時間は既に10時を回っていたが少しでも早く到着するために澄香はタクシーを使って呼び出された場所までやってきた。
「あ、もしもし亮介? 着いたんだけど、ここってラブホテルだよね」
「あぁ、じゃあ905号室に来てくれ」
「え、ちょっと待ってよ」
電話はまたしても一方的に切られてしまった。
もう私やってることデリヘルと変わらないじゃん……。
言われた番号の部屋の扉ノックすると意外にも早く扉があいた。扉の向こうには先程シャワーを浴び終えたであろう亮介がいた。
「あ、えと、その久しぶり……」
「うん、とりあえず入って」
部屋に入ると予想もしていなかった光景が目に飛び込んできた。
ベッドの上に裸の女性が布団で上半身を隠して座っていた。
「え、誰……ですか?」
女性は青ざめた顔でぶるぶると震えていた。
「俺の女だよ。まぁさっきまで、だけどな」
そう言い放った亮介の方を振り返ると冷たい液体が足の裏をなぞるようにして襲い掛かってきた。
「あぁ、気をつけろよ。そのバカ女のクソ男の血が垂れてるから。マジで汚ぇな」
足元を見るとそこにはおびただしい量の血が一面に広がっていた。その血痕は浴室の方にまで繋がっていた。恐る恐る浴室を覗くとバスタブに血だらけの裸の男性が苦しそうに唸り声をあげていた。顔はべっとりと額から垂れた血で真っ赤に染まっていた。
「まだ死んでないけど多分そろそろ死ぬだろうなそいつ」
「何で私をここに呼んだの……」
震えた声で澄香は問う。その質問に答えない彼は手に持っていたガラスの灰皿でベッドにいる女の顔面を容赦なく振り抜いた。鼻の骨が確実に折れたであろう鈍い音が部屋に響いた直後、女の叫び声が後を追った。
「突然澄香にこんなところ見せちゃって本当にごめん。でもお前にしか頼めないし、お前ならわかってくれると思ったんだ。頼む、俺を助けてくれ」
澄香には彼が一体何を言っているのか理解が追い付かなかった。
「あんた早くここから逃げな! この男頭おかしいよ!」
女が澄香に忠告をした途端、亮介は女の後頭部に灰皿を叩きつけた。気を失って頭部から血を流しながら女は床に倒れ込んだ。
「ごめんな澄香。嫌な気持ちにさせちゃったね。でも澄香がここで俺の味方だって言ってくれたら今度こそ一緒に暮らそう。俺は澄香に自分の全てを見せたい。もうお前に噓はつきたくないから」
「一緒に……?」
非現実的な出来事に立て続けに襲われた澄香にはもう常識的な選択はおろか、一般的な思考でさえも出来なくなっていた。
「あぁ、もうあんなことはしないから、また俺と付き合ってくれよ。俺気づいたんだ。俺にはお前がいなきゃだめなんだ、って。だから頼む。これが俺のすべてだから」
そんな彼の口車に回され澄香は気付くと自分の部屋で彼と体を重ねていた。
――「もうわかったよ。どうしても行きたいんだね。手伝ってあげるから何で行きたいのか教えて」
おもちゃが欲しくて駄々をこねていた子供がまるでそれを手に入れた時のような無邪気な笑顔を見せながら亮介は彼女を抱き寄せた。
「本当にありがとう。やっぱり俺の味方は澄香だけだよ」
そんな口車にはもう乗せられまいと澄香は語気を強くして問いただす。
「わかったから、何で行きたいのかを教えて。そうしなきゃ手伝ってあげない」
少し面倒くさそうな顔をして亮介は答えた。
「友達に会うんだよ」
「友達?」
「そう、チリに友達がいるんだ。その子に会いに行こうと思って」
「何でチリなんかに友達がいるの」
「まぁ、まだ会ったことはないんだけど」
「はぁ⁉ 何それどこで知り合ったの」
「まぁその、ネットかな」
「え、ちょっと意味が分からないんだけど」
「詳しいこと言えなくてごめん」
澄香には亮介が一体何を言っているのか全く理解できなかった。何を考えているのすら理解できなかった。今日に限ったことではなくそれは昔からそうだった。彼のことが理解できない度に澄香は泣いた。何度も何度も涙で頬を濡らした。その度に彼は悪魔と化す。
「澄香……」
多分彼は私のことをただの都合のいい女としか思ってない。そんなこと誰よりもわかってる。それでも彼が私を必要としてくれるのなら、もうそれでいい。
彼女はもう諦めていた。
「うん、大丈夫だよ。で、私は何をすればいいの」
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