10月14日 五人の女
「だぁもう早く着替えて。温泉行くよぉ」
鼻に突き刺さる刺激臭、アルコールと食べ物が胃酸によって溶かされた際に香る臭いと共に母に叩き起された私は瞼もまだ開かない状態で言われるがままに着替え始める。
「また酔っ払ってる」
「あ、なに」
「なにもないです」
少し心にイラつきを覚えながらもグッと堪える。母の機嫌を損ねることにメリットは何ひとつもない。私も不機嫌になりたいよ。適当に服を着込んで準備を終え外に飛び出ると顔に突き刺さるような冷気が私の眠気を軽々と消し去った。
「あぁ、寒い寒い」
そう呟きながら湯気が立ちのぼるワンカップを片手に縮こまって三歩先を行く母の後ろをついて行く。時計も見ずに外に飛び出したものだから時間はわからないのだが、空がほんのりと藍色になっていることから今が明け方であることがわかった。冬のくせに今日の空は分厚い雲で覆われている。
「また朝まで飲んでたの」
母にそう尋ねても返事は返ってこない。ただひたすらと私の前を進む。まるでカルガモの母娘のように。
歩道の狭い国道を突き進んでいくと左手に冬仙寺の湯と書かれた大きな看板が見えた。歩行者のための看板ではないので目的地はまだまだ先だ。
「こっち行くよ」
母は小さな声でぽつりと行ってコンビニに足を進める。ふわっと暖かな空気が私を包み込んだ。引きつっていた顔の皮膚が溶けていくのを感じる。カゴにそそくさとワンカップを二つとさきいかを放り込む、私はこっそり冬の時期にだけ売られるお茶をカゴにそっと入れた。
「これ温めて、あと12番二つ」
無言でテキパキと仕事をこなす髪型をポニーテールに束ねたその女性に私は心が惹かれた。彼女から強さというか、勇敢な姿を美しいと感じた。次々と商品をビニール袋に詰めて素早い手つきでお釣りを渡す。聞こえるかどうかもわからない声でお礼を言い、並んでいた次の客に視線を移す。きっと彼女は誰の記憶にも残らない。コンビニに入って彼女のことを気に止めるものは誰もいない。自分が居たという跡を残さない彼女の仕事ぶりに私は心打たれた。何も特別なことはしていない、容姿もいたって普通。ただその普通というものが自分に欠けていると思ったのだ。
そうこうポツポツと歩いているといつの間にかスーパー銭湯に辿り着いていた。先程まで母の手にあったはずのワンカップも気づいたら無くなっていた。
木の雰囲気で作られた自動ドアを潜って靴箱に靴を入れる。その後靴下で歩くこのすべすべの床が私にとってはまるでディスニーランドのゲートまでの道のようなものなのだ。心を躍らせスケート選手のように、しかし控えめに滑りながら脱衣所に滑り込む。朝の利用者は少ないのがとても魅力的だ。シャワーも選び放題、湯船にも浸かり放題、手足を伸ばしても誰にもぶつからないし怒られない。ここが私にとっての天国。
しかしそんな天国も一瞬のこと。少し経てば続々と利用者がなだれ込み、銭湯は瞬く間に皆の天国となった。
「あんたいつまで浸かってるの」
天国の時間も束の間。私は結構な長風呂する人なのだけれど母はそうでないらしいので、いつも私が満足して浸かることは出来ない。しかし自分の服を含め所持品が全て母のロッカーの中にあるため従わざるを得ないのだ。
着替えを済ませ未だに恋しく思う天国を後にして母は颯爽とお座敷のある食事処に飛び込んだ。お座敷に腰を下ろして間も無く店員がお茶を出してきた。
「あ、ビールくださいメガジョッキで」
間髪入れずに注文をする母に店員は少し困惑していたがすぐに理解し、手元にある電卓のような機械にポチポチと打ち込んだ。
「ご注文は以上でよろしいですか」
「あ、じゃあ私は」
「はい、大丈夫ですー」
思わず母の顔を見てしまった。
「あの、本当によろしいですか」
母は少し食い気味で答えた。
「大丈夫です」
そのまま店員が行ったのを確認すると、隣のテーブルから灰皿も自分のところまで持ってきて煙草に火を付けた。
「何見てんのよ、文句あんの」
「ないよ」
私は少しぶっきらぼうに答えた。朝から温かいお茶しか口にしていないのだ。何も食べさせてくれない母の顔くらい見たくなくなるものだ。しかし母はどうやら私のその態度が気に食わなかったのか湯呑みを直接私に投げつけ、息を荒らげながら私の首の襟を掴む。
「なんだよあんたのその態度はよ、反抗的な目しやがって。親ナメてんじゃないわよ」
私は目を大きくつむり強く歯を食いしばって衝撃に備えた。どれほどの時間が経っただろう。おそらく現実では一秒にも満たない時間だと思うけれど私の時の流れとしては一分以上経っているように感じた。何が起こっているのだろう。恐る恐る目を開けてみると母が右手を振りかぶったまま自分の脚あたりを見ていた。
「なおき君……」
思わず名前を呼んでしまった。そこには同じクラスのなおき君が母の足元にしがみついていた。すると向こうから焦って駆け寄ってくる音が聞こえてくる。
「あらぁ、みさきちゃんのお母さんこんにちは。ごめんなさいね、うちのなおきが突然ぶつかっちゃったみたいで」
なおき君のお母さんは優しい口調でそう言ってなおき君を引き剥がす。後ろから白髪混じりのお婆さんがゆっくりとした足取りで母の隣に立った。
「まぁまぁ、あんたとりあえずその手を離しなさいな。他のお客さんも見てるから、今の自分みっともないと思わないかい。それともこのまま大事にしたいのかい」
お婆さんの柔らかく、しかししっかりとした口調に母も怖気付き私の首から手を離した。なおき君のお母さんが私の首に冷たいおしぼりを当ててくれた。周りの視線に気が付きそこにはいるのが気まずくなった母はそそくさと私を置いて立ち去って行く。その後を追おうとしたらお母さんが優しく後ろから抱き締めてくれた。柔らかくあたたかいその温もりに私は思わず涙が溢れてしまった。
「あんたはよく我慢したよ、さぁうちと一緒にご飯食べなさい」
お婆さんは私に優しくそう投げかけると先程と同じ足取りで元のところに戻って行った。優しさと恥ずかしさ、悲しみが混沌とする煩雑とした感情に涙が止まなかった。
「みさきちゃん、大丈夫だよ。僕が守るから」
その一言が私の心に一筋の光を当ててくれた。
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